第5話『風と告白の扇子』
登場キャスト
ミツキ:Salon de Thé Mystèreのメイド兼探偵。香りと風の揺らぎから“届かなかった言葉”を読み解く。
クロード支配人:Salon de Thé Mystèreの支配人。香りの記録帳の管理人。
朝霧 澪:依頼人。舞台で使った扇子に残された記憶を探るため、Salonを訪れる。
月村 璃音:澪のかつての共演者。舞台の直後に姿を消した人物。
プロローグ:風の記憶は香りに揺れる
銀座の裏通り。 雨上がりの石畳が、街灯の光を静かに反射している。
ブランドショップの喧騒から一歩外れたその路地には、時間の流れが違う空気が漂っていた。
その奥に、重厚な扉と金の看板が佇む。
「Salon de Thé Mystère」――紅茶の香りとアンティークの空間に包まれたその店には、誰にも気づかれずに“真実”を見抜く瞳が潜んでいる。
その瞳の持ち主は、ミツキ。
漆黒のドレスに銀縁の眼鏡。笑わず、媚びず、ただ静かに紅茶を淹れる彼女の所作は、まるで儀式のように正確で、無駄がない。
彼女は、香りの濃度、空気の温度、客の呼吸の揺らぎ――目に見えない“違和感”を読み取る探偵だった。
この店には、秘密が持ち込まれる。
誰にも言えない過去、誰にも見抜かれたくない感情。
そして、ミツキはそれらを、香りの奥から静かに引き出していく。
今宵、Salonの扉を開けたのは、ひとりの舞踊家だった。
彼女が差し出したのは、舞台で使われた一本の扇子。
白檀と柚子の香りが、風に乗って揺れていた。
その香りには、語られなかった“別れ”が封じられていた。
第1章:渡されなかった扇子
午後三時。Salon de Thé Mystèreの扉が、静かに空気を揺らした。
雨の匂いがまだ空気に残る中、ひとりの女性が足を踏み入れる。
舞踊家――朝霧澪。
歩みのひとつひとつに、舞台の余韻が静かに宿っていた。
澪は、手に持った桐箱をそっとカウンターに置く。
ミツキは、言葉を交わすことなく、その箱に視線を向けた。
「舞台で使った扇子です。最後の公演で、彼女に渡すはずだったもの」
ミツキは頷き、箱の蓋を開ける。
中には、白檀と柚子の香りが微かに漂う一本の扇子。
骨組みは黒漆、布地は淡い灰青色。
その揺らぎは、風ではなく――記憶を運んでいるようだった。
「本番の最後の場面で、彼女の手にそっと重ねるつもりでした。 でも…彼女は、私の目を見ませんでした。 振り返らずに舞台を去ってしまって。 扇子は、私の手元に残ったままです」
ミツキは、扇子をそっと手に取り、骨の間に指を滑らせる。
香りは、まだ残っていた。
だが、その層には“断絶”の気配が漂っていた。
白檀の深みが急に薄れ、柚子の輪郭が曖昧になる。
まるで、言葉を飲み込んだ瞬間のように。
ミツキは、扇子の骨の間に残された絹の繊維に目を留める。
澪の衣装とは異なる色味。
それは、舞台の最後に誰かが触れた痕跡だった。
香りは語らない。
けれど、風の軌道が、澪の語った“彼女”の気配をそっと指し示していた。
「この扇子は…言葉にならなかった告白だったのかもしれません」
澪は、静かに息を吐いた。
「彼女は、言葉を残さなかった。
でも、私は…この扇子が、彼女の“手紙”だったような気がしてならないんです」
硝子の瞳が、静かに揺れ始めていた。
第2章:香りの軌道
午後の光が、扇子の布地を淡く照らしていた。
ミツキは、澪の前でそっとそれを広げる。
白檀と柚子の香りが、空気の中で微かに揺れていた。
「この香りは、舞台用にしては繊細すぎます。
誰かに向けて、個人的に仕込まれたもののようですね」
ミツキは、扇子の骨の角度と布地の張りを指先で確かめる。
香りの層は、途中で乱れていた。
白檀の深みが途切れ、柚子の輪郭が揺れている。
まるで、言葉を飲み込んだ瞬間のように。
「最後の一振りだけ、香りが途切れています。 これは…言いかけて止めた告白の気配です」
澪は、静かに目を伏せる。
「舞台の最後、彼女は私の目を見ませんでした。 でも、扇子を振った瞬間…風が、違っていたんです。 香りが届かないのに、何かが胸に触れた気がしました」
ミツキは、扇子の骨に残された絹の断片に目を留める。
澪の衣装とは異なる色味。
それは、舞台の最後に誰かが触れた痕跡だった。
香りは語らない。
けれど、風の軌道と揺らぎが導く先は、澪の語った“彼女”の気配に静かに重なっていた。
「この扇子は…言葉にならなかった告白だったのかもしれません」
澪は、扇子に指を添え、目を閉じた。
その瞳の奥に、舞台の記憶が静かに揺れていた。
第3章:舞台の沈黙
銀座・並木通りの奥にある銀座の小劇場。
公演は終わり、照明も落とされ、客席には誰もいない。
だが、空気にはまだ、踊りの余韻が微かに残っていた。
澪は、舞台の中央に立つ。
扇子を手に、静かに目を閉じる。
その場所は、最後の場面で彼女に扇子を渡すはずだった位置だった。
「本番では…彼女が振り返らなかった。 私の手は、宙に浮いたままで。 扇子は、渡せなかったんです」
ミツキは、舞台の床に目を向ける。
木目の隙間に、絹の繊維がひとつだけ残されていた。
澪の衣装とは異なる色味。
それは、舞台の最後に誰かが触れた痕跡だった。
照明の反射角を記録帳と照合することはできない。
だが、澪の記憶と空気の揺らぎが、確かに何かを語っていた。
「香りは届かなかった。でも、風は…あなたの胸元に触れたのですね」
澪は、扇子をそっと広げる。
白檀と柚子の香りが、微かに空気を撫でる。
その揺らぎは、舞台の記憶ではなく、沈黙の残響だった。
「彼女は、言葉を残さなかった。でも、風が…何かを伝えようとしていた気がします」
ミツキは頷く。
香りは語らない。
けれど、沈黙の中に滲むものは、確かに誰かの心に触れる。
硝子の瞳が、空間の揺らぎの中に、言葉にならなかった告白を捉え始めていた。
第4章:風に託された告白
Salon de Thé Mystèreの午後。
澪は、扇子をそっとカウンターに置いたまま、視線を落としていた。
その手元には、舞台で渡せなかった記憶が静かに残っていた。
「本番の最後、璃音に手渡すはずだったんです。でも…彼女は振り返らなかった。私の手は、宙に浮いたままで。 扇子は、私の手元に残りました」
ミツキは、扇子を手に取り、布地の揺らぎを光に透かす。
白檀と柚子の香りが、空気の中で微かに揺れていた。
その揺らぎは、風ではなく――記憶を運んでいるようだった。
その香りは、舞台用にしてはあまりに繊細で、個人的な“気配”を帯びていた。
香りは、途中で崩れていた。
白檀の深みが急に薄れ、柚子の輪郭が曖昧になる
それは、言いかけて止めた告白の痕跡だった。
ミツキは、扇子の骨の間に残された絹の断片に目を留める。
澪の衣装とは異なる色味。
それは、舞台の最後に璃音が触れた痕跡だった。
「この香りは、璃音さんが仕込んだものですね。風の軌道と揺らぎが、彼女の気配をはっきりと示しています。扇子は…言葉にならなかった告白だったのかもしれません」
澪は、扇子に指を添え、目を閉じた。
その瞳の奥に、舞台の記憶が静かに揺れていた。
しばらく沈黙が流れたあと、澪は扇子をそっと広げた。
白檀と柚子の香りが、空気の中で微かに揺れる。
その風は、舞台の記憶ではなく、沈黙の残響だった。
「最後の場面で、璃音は私の目を見ませんでした。でも、扇子を振った瞬間――風が、違っていたんです。香りが届かないのに、胸の奥が、静かに触れられた気がしました。」
ミツキは、澪の言葉を受け止めるように頷いた。
「それが、彼女の声です。言葉ではなく、香りでもなく――風に乗せて、あなたに届いた“声”」
澪は、扇子を胸元に抱き、目を閉じた。
その表情には涙はなかった。
ただ、風に触れた人だけが知る、静かな理解が宿っていた。
香りは語らない。
だが、風の軌道と揺らぎは、彼女の沈黙を確かに伝えていた。
「彼女は、言えなかったんですね。でも…伝えようとしてくれた。この扇子が、彼女の“手紙”だったのなら…私は、受け取ったんですね」
ミツキは静かに微笑む。
「届いた声は、言葉にならなくても、胸に触れた瞬間に意味を持ちます。それは、沈黙の中で最も深く響くものです」
その夜、澪は扇子をSalonに置いていった。
それは、読まれなかった手紙のように、香りの中に残された告白だった。
ミツキは、扇子を棚に収める。
香りは薄れつつあるが、風の軌道にはまだ、微かな記憶が漂っていた。
エピローグ:風は告げていた
Salon de Thé Mystèreの棚の奥。
澪が置いていった扇子は、静かに眠っていた。
白檀と柚子の香りは、もうほとんど揮発している。
けれど、布地の揺らぎには、まだ微かな風の軌道が残っていた。
ミツキは、棚の前で立ち止まる。
扇子に触れることはない。
ただ、空気の揺れを感じ取るように、瞳を細める。
その背後で、クロード支配人が静かにカップを置いた。
音はしない。けれど、空間が少しだけ整う。
カップからは、ベルガモットが微かに香る――アールグレイの気配。
その香りが、沈黙の余韻に輪郭を与えていた。
「風は、記録されませんね」
クロードの声は、硝子のように澄んでいた。
「けれど、残るものもあります。誰かの胸に触れた風は、香りよりも長く、静かに漂う」
ミツキは微笑む。
言葉にならなかった告白。
渡されなかった手紙。
それでも、澪はそれを受け取った。
その日、Salonの空気は少しだけ静かだった。
まるで、誰かが言葉を使わずに、何かを伝え終えたあとのように。
「風は、届いた」
そして、扉のベルが鳴る。
新たな依頼人が、香りに導かれてSalonへと足を踏み入れる。
ミツキは、銀縁の眼鏡をそっと押し上げ、静かに言った。
「ご主人様――紅茶は、香りの記憶をほどく鍵です。今朝は、どんな真実が眠っているのでしょうか」
硝子の瞳は、再び揺れ始める。
香りの向こうに、まだ語られていない物語が待っていた。
ご来店いただき、誠にありがとうございます。
今宵、ひとつの風がほどけました。
それは、言葉ではなく“香り”で綴られた沈黙の告白。
舞台で渡されなかった扇子は、風に託された最後の声でした。
香りは語りません。
けれど、風に乗って揺れる香りは、沈黙の中で誰かの心に触れます。
朝霧澪様が受け取ったのは、月村璃音様の“声”ではなく、 風の軌道に託された最後の想いでした。
ミツキは、香りの層と空気の揺らぎから、 言葉にならなかった告白を静かに読み解きました。
その所作は、まるで風を撫でるように、丁寧で、静かでした。
香りとは、記憶の器であり、感情の橋でもあります。
それが誰かを縛るなら、香りは檻となり。 それが誰かを解き放つなら、香りは鍵となる。
本記録はフィクションであり、登場する人物・団体・出来事はすべて架空のものです。
ですが、香りが別れをほどくことがあるのは、どうやら本当のようです。
またのご来店を、心よりお待ちしております。
――Salon de Thé Mystère 支配人より




