書き換えられない現実
翌朝、ユウキはほとんど眠れないまま、ベッドから重い体を起こした。
枕元に置かれた黒い革装の本が、静かな存在感で彼を見下ろしている。昨夜、何度も夢に見た。ページをめくってもめくっても、自分の未来が黒い活字で埋め尽くされている悪夢だ。
「……ただの偶然だ」
声に出してみたが、その言葉は空虚に響くだけだった。
会社へ向かう足取りは、まるで鉛を引きずっているかのように重かった。駅のホームに立ち、電光掲示板を見上げる。
時刻は午前八時十二分。『プロット』に記された運命の時刻まで、あと二分。ユウキの心臓は、秒針の音に合わせて激しく脈打っていた。
ごう、と音を立てて電車が滑り込んでくる。これに乗れば、予言は外れる。
ユウキがドアに足をかけようとした、その瞬間だった。
『――お客様にお知らせいたします。ただいま、隣の駅で発生した人身事故の影響により、当駅での運転を一時見合わせております』
無機質なアナウンスが、ホームの喧騒を突き刺した。周囲から、ため息や舌打ちが漏れる。だが、ユウキの耳には、それらの音は届いていなかった。
全身の血が凍りつき、指先が急速に冷えていく。
八時十四分。
『プロット』の記述は、一分の狂いもなく現実となった。
偶然ではない。これは、紛れもない「予言」なのだ。
会社に遅延証明書を提出すると、武田課長は案の定、嫌味っぽく眉をひそめた。それさえも、まるで予定されていた演劇のワンシーンのように感じられた。
自席につき、仕事を始めようとした時だった。給湯室から戻ってきた同僚のカップが、ユウキのデスクの角にぶつかった。熱いコーヒーが、積み上げていた書類の上に派手にぶちまけられる。
「ご、ごめん城崎」
「……いえ」
謝罪の言葉も、どこか遠くで聞こえているようだった。ユウキは無感動に染みの広がっていく書類を眺める。
昨夜、ページをめくる中で見た記憶が蘇る。『コンビニでコーヒーをこぼす』と書かれていたはずの記述は、場所と状況を少しだけ変えて、しかし寸分違わぬ結果として彼の目の前に現れた。
さらに午後には、部長から内線があった。昨日提出したばかりの週報に、重大な数字の間違いがあったという指摘だった。普段なら絶対にしないような、初歩的なミス。
だが、『プロット』には確かにこう記されていた。『部長に書類のミスを指摘される』と。
恐怖は、徐々に諦観へと変わっていった。
まるで透明な糸に絡め取られた操り人形のように、自分は決められた筋書きの上を踊らされているだけなのだ。
「――ふざけるな」
思わず、声が漏れた。マウスを握る手に、力がこもる。
このまま、見えない誰かの筋書き通りに生きてたまるか。
その日の夕方、『プロット』には『十六時、A社へ定期訪問』と記されていた。いつもなら、会社の最寄り駅から電車で三駅、そこから徒歩五分のルートだ。
ユウキは固く決意した。今日こそ、この筋書きに抗ってやる、と。
彼は『プロット』が示す時刻より十分も早く会社を出ると、駅とは逆方向のバス停へと向かった。A社までは少し遠回りになるが、バスでも行けるはずだ。
違うルート、違う時間。これで、運命のレールから外れられる。
バスに揺られながら、ユウキは少しだけ安堵していた。車窓の外の景色は、いつもと違う。それだけのことが、彼に小さな勝利を予感させた。
しかし、その安堵は長くは続かなかった。
バスが大きな交差点に差し掛かった時、けたたましいブレーキ音と共に、車体が大きく揺れた。前方で、トラックと乗用車の追突事故が起きたのだ。道は完全に塞がれ、バスは身動きが取れなくなった。
運転手が「復旧の目処は立ちません」と告げた時、ユウキは絶望的な気持ちで腕時計を見た。時刻は、十六時を少し回ったところ。このままでは、確実に約束の時間に遅れる。
「降ります」
ユウキはバスを飛び出し、走り出した。地理に詳しいわけではないが、とにかく大通りを目指す。
息を切らしながら大通りに出た彼が、必死の思いで手を挙げて停めたのは、一台の空車のタクシーだった。
「A社のビルまで、お願いします」
運転手に行き先を告げ、後部座席に深く体を沈める。荒い呼吸を整えながら、ふと車窓の外に目をやったユウキは、息を呑んだ。
見覚えのある景色。そこは、いつも電車を降りてA社へ向かう途中の道だった。
タクシーが渋滞を避けるために選んだ道は、偶然にも、いつものルートと合流していたのだ。
結局、ユウキがA社の受付に着いたのは、『プロット』に書かれていた訪問時間と、ほとんど変わらない時刻だった。
会社に戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。ユウキの心も、同じように重く沈んでいた。
抗えば抗うほど、より大きな力で筋書き通りに引き戻される。まるで、見えない壁に囲まれた箱庭で、ひとりでもがいているかのようだ。
自分の意志とは、一体何なのだろう。
自室に戻ったユウキは、電気もつけず、ベッドに倒れ込む。『プロット』を開く気力さえ、もう残ってはいなかった。
闇の中で、黒い革の表紙だけが、静かに彼の無力さを嘲笑っているように見えた。