始まりの道
燃え尽きた『プロット』の黒い灰が、床に静かに積もっていた。
長年の重荷から完全に解放されたかのように、ジンはその場にゆっくりと座り込んだ。彼の表情には、もはや狂信的な光はなく、すべてを失った者の空虚さと、ほんの少しの安堵だけが浮かんでいた。
ユウキは、彼に手を差し伸べることはしなかった。ただ、対等な一人の人間として、その隣に静かに立った。
「これから、どうするんだ」
ユウキの問いに、ジンは力なく首を振った。
「わからない。……だが、初めて、俺自身の物語を始めなければならない。そんな気がする」
その言葉に、ユウ-キはただ黙って頷いた。
ジンはふらつく足で立ち上がると、一度だけユウキの方を振り返り、そして何も言わずに、講堂の暗がりの中へと静かに姿を消していった。
過去という名の舞台から、ひとりの役者が降りていった。
数日後。
ユウキは、かつての上司であった武田課長の前に、一枚の辞表を差し出していた。課長の嫌味にも、同僚の引き留める声にも、彼の心はもう揺れなかった。その態度は卑屈でも反抗的でもなく、ただ自分の決断に一切の迷いがない、静かなものだった。
会社を後にしたユウキは、自然と『時の栞』へと足を運んでいた。
からん、とドアベルが鳴る。カウンターの奥で、カエデが新しいノートを開き、あの古びた万年筆を手に、何かを熱心に書き綴っていた。その横顔は穏やかで、創作に没頭する者の喜びに満ちている。
彼女もまた、復讐の物語を終え、自分自身の新しい物語を紡ぎ始めていた。
ユウキは彼女に小さく会釈すると、店の壁にかけられたままだった、あの壊れたコンパスをそっと手に取った。
バックヤードを借り、慣れない手つきで、しかし真剣な表情で、彼はコンパスの修理を始める。小さな部品と格闘し、何度も失敗を繰り返しながら。
そして、陽が傾き始めた頃。
カチリ、と祈るような小さな音が、静かな店内に響いた。
止まっていた真鍮の針が、微かに震え、そしてゆっくりと、しかし確かに、北の方角を指して動き出した。失われていた人生の道標が、再び彼の手に戻ってきた瞬間だった。
どれくらいの時が過ぎただろうか。
ユウキは、あるビルの屋上に立っていた。そこは、物語が始まったあの場所ではない。新しい一歩を踏み出した彼が見つけた、新しい場所だった。
空は、もう灰色ではなかった。
どこまでも続くような、希望に満ちた夕焼けが、世界を暖かなオレンジ色に染め上げている。眼下に広がる街の灯りは、もはや墓石の列ではなく、無数の人生が息づく、可能性に満ちた光の海に見えた。
彼の視線は、もう下を向いてはいない。まっすぐに、地平線の彼方へと向けられている。
ユウキはポケットから、修理したコンパスを取り出した。夕陽を浴びて輝くその針は、まだ何も描かれていない未来を、ぶれることなく、まっすぐに指し示していた。
彼はその方角へ、確かな、力強い一歩を踏み出した。
大丈夫、もう迷わない。