門番は汚れと牙に首を傾げる
嘆きの沼地から街へ戻る馬車の中、空気は朝から午後の湿った熱気を帯び始めていた。
馬車には、重々しい沈黙と、生臭い血と泥の匂いが満ちている。
荷台には、黒い鱗に覆われた巨大な塊――沼地の牙の首が、重そうに横たわっていた。
「ったく、まだこの匂いが取れねぇな」
ロブは外を眺めながら、鼻を摘まむ仕草をした。
全身は泥と血と、沼地の植物の繊維で汚れている。
ハンスも似たような有様だが、ロブほどは気にしていないようだ。
「当たり前だ。さっきまで沼地にいたんだぞ」
ハンスは疲れた声で答えた。馬を御する手つきも、どこか力がない。
朝からの激戦と、その後の骨の折れる作業で、体力は限界に近い。
「早く街に戻って、湯でも浴びたいもんだな」
ロブがぼやく。
「贅沢言うな。まずはギルドに報告だ」
ハンスは現実的なことを言う。
やがて、遠くに街の城壁が見えてきた。石造りの堅牢な壁は、この荒れた世界では何よりも心強い存在だ。
しかし、街が近づくにつれて、ハンスの顔に不安の色が浮かび始めた。
「なぁ、ハンス」
ロブが言った。
「俺達、このまま街に入れるのか?」
ハンスは馬車に乗せた沼地の牙の首をちらりと見る。そして自分たちの汚れた身なりを見下ろす。
「……分からん。多分、止められるだろうな」
案の定、街の門に近づくと、城壁に備え付けられた見張り台から声がかかった。
「そこの馬車!止まれ!」
門の前に到着すると、甲冑に身を包んだ門番たちが、警戒した様子で近づいてきた。
彼らの視線はまず、泥と血まみれの二人の姿に釘付けになる。そして、次に、馬車に乗せられた巨大な首に向けられた。
「なんだ、お前たちは! その首はなんだ!?」
門番の一人が、槍をこちらに向けて尋問する。
「いや、ちょっと野暮用でな」
ロブが気だるげに答えた。
その適当な態度に、門番たちの警戒心が一段と高まる。
「野暮用だと? その有様でか!? それに、その首は何だ! 化け物じゃないか!」
「化け物じゃねぇよ。沼地の牙だ」
ロブは涼しい顔で言った。
「沼地の牙だと!? まさか、お前たちが討伐したというのか?」
門番たちは互いに顔を見合わせる。最近噂になっていた、危険な賞金首だ。
「そうだよ。見てくれは悪いが、これで俺達はちょっとしたヒーローってわけだ」
ロブは胸を張る仕草をしたが、身体中が痒いらしくすぐに腕を掻き始めた。
「ふざけるな! 身なりは汚いし、怪しすぎる! どこから来た? 何者だ!」
門番長らしき男が、威圧的な態度で尋問を続ける。
ハンスはロブを抑え、前に出た。
「お待ちください。私たちは冒険者です。街の冒険者ギルドで依頼を受け、『沼地の牙』を討伐してきたのです。これはその討伐の証拠です」
ハンスは、落ち着いた声で説明する。彼の巨体と強面は、かえって説得力を持たせることもある。
「冒険者だと? 貴様らのような汚い冒険者など見たことがない!」
門番長は信用しない。
「討伐依頼は、ギルドで確認できるはずです。そちらに問い合わせていただければ、すぐに分かります」
ハンスは冷静に提案する。
門番長は少し考え込む。
確かに、冒険者ギルドは街の公的な機関だ。そこで依頼があったと確認できれば、怪しむ理由もなくなる。
「……よし。一人、ギルドに行って確認してこい!」
門番長は部下に指示を出す。
「あー、めんどくせぇな。早く風呂に入りたいのに」
ロブが小さな声でぼやくのが聞こえる。ハンスは思わずロブの足を踏んづけた。
しばらくして、ギルドへ行った門番が戻ってきた。
彼の顔には、驚きと納得の色が混じっている。
「門番長! 確かに、冒険者ギルドで『沼地の牙』の討伐依頼が出ていました! この二人の名前は……ロバート・レッドグレイヴと、ハンス・ラーベ、だそうです!」
門番長は二人の顔を改めて見た。
確かに、ギルドの受付嬢が報告する名前と一致する。そして、この巨大な首も、噂通りの『沼地の牙』のようだ。
「むぅ……分かった。通るがよい。しかし、その首は速やかにギルドへ持ち込むように!」
門番長は渋々、門を開けるよう指示した。
「感謝します」
ハンスは礼を言い、馬車を進ませた。
街の中へ入ると、街の人々が珍しそうに、あるいは恐る恐る、彼らの馬車に積まれた首を見つめている。
泥まみれの二人組と、巨大な化け物の首。それは、確かに目を引く光景だった。
彼らが目指すは、冒険者ギルドだ。街の中心部に位置する、先ほど訪れた建物。
ギルドに到着すると、門番から連絡が入っていたのだろう、受付嬢が驚いた顔で出迎えた。彼女の後ろでは、他の冒険者たちもざわついている。
「あ、あの、ロバートさんとハンスさんですか? 本当に、『沼地の牙』を……!」
受付嬢は、馬車に積まれた首を見て、顔を青くした。
ハンスは馬車を止め、頭を下げた。
「ああ、討伐してきた。これが証拠だ」
ロブは馬車から降りると、だらしない姿勢でギルドの入り口にもたれかかった。
「あー、疲れた。腹減ったし、身体中が痒いぜ」
「え、ええと、討伐報告はこちらで……」
受付嬢は少し引きつった顔で、手続きの場所を示した。
「おう。早く済ませて、うまい飯が食いてぇなぁ。それから、風呂だ風呂。もう身体が泥と血でカピカピだぜ」
ロブは、報酬よりも先に、自分の欲求を声に出した。
その言葉に、ギルドの他の冒険者たちが苦笑したり、呆れたような顔をしたりする。
ハンスはため息をつきながら、ロブの背中を小突いた。
「ほら、行くぞ。手続きを済ませないと、何も始まらないだろうが」
「へいへい」
ロブは気のない返事をし、ハンスに続いてギルドの中へ入っていった。
ギルドの活気あふれる空間の中で、泥と血にまみれた二人は、沼地の牙を討伐したという事実とは裏腹に、どこか浮世離れした空気を纏っていた。
一人は疲労困憊の現実主義者。
もう一人は、危険なダンスを踊り終えたばかりの、気だるげな享楽主義者。
さて、この『踊り』の報酬で、一体どんな『ワルツ』を踊るのだろうか。そして、その報酬は、またもや二人の手からすり抜けていくのだろうか。