踊り終えた牙
朝靄けむる嘆きの沼地。
奇妙な形の植物が立ち並ぶ水面から、巨大な爬虫類の頭部が姿を現した。
これが『沼地の牙』だ。
巨大な顎には無数の鋭い牙が並び、水面に滴る粘液が不気味な光沢を放っている。
黄色の縦長の瞳が、挑戦者である二人の冒険者をじっと捉えて離さない。
油断なく、獲物の隙を窺う獣の目だ。
対峙する二人。
片や、筋骨隆々の巨漢で、いかにも頑丈そうなハンス。
片や、煙草を咥えたまま、小突けば倒れそうな線の細いロブ。
体格だけを見れば、まるで大人と子供、あるいは獲物と捕食者のようだ。
だが、牙は分かっている。目の前の細い男が、危険な存在であることを。
先に仕掛けたのは、沼地の牙だった。
あの巨体からは想像もつかない、驚くべき俊敏さ。
水面を滑るように移動し、泥水を蹴散らしながら、一直線にロブへと襲いかかった。
巨大な顎が、ロブの細い身体を文字通り噛み砕こうと迫る。
しかし、ロブはその場で微動だにしない。
迫りくる顎を、まるで予測していたかのように、紙一重で避けた。
しなやかな猫のような動きで、獣の攻撃をかわす。そして、すれ違いざまに腰のダガーを抜き放ち、その刃で牙の側面を数回斬りつけた。
キン、という甲高い音。刃は弾かれる。
「へぇ、やるじゃねぇか」
ロブは口元に笑みを浮かべる。刃が通らなかったことに、むしろ興味を持ったようだ。
牙は反転し、再びロブに襲いかかる。
今度は尻尾の薙ぎ払い。巨大な鉄塊のような尻尾が、沼地の植物をなぎ倒しながらロブの足元を襲う。
ロブはそれを、軽くジャンプして避ける。その一連の動きは、まるで舞踏でも見ているかのようだ。
数回の攻防が繰り返される。
牙は噛みつき、爪で引っ掻き、尻尾で打ち払う。
ロブはそれらを最小限の動きで避け、ダガーで反撃を試みる。だが、牙の鱗は硬く、ロブのダガーではまともに傷をつけられない。
「硬ってぇな、おい」
ロブが文句を言う。
その時、牙が大きく口を開け、再びロブに噛みつこうとした。ロブはその隙を見逃さない。
身を低くし、牙の懐に潜り込むと、前脚の内側――鱗が比較的薄いと思われる場所――にダガーを突き立てた。
ズブリ、という感触。黒っぽい鮮血が、ドッと噴き出した。
「ガルルルッ!」
牙は苦痛の唸り声を上げ、のけぞった。
標的をロブから、近くにいたハンスに切り替える。
負傷の痛みに任せ、最も近くにいる敵に襲いかかるのは、獣の本能だ。
巨大な頭部がハンス目掛けて突進してきた。
ハンスは既にメイスを構えていた。この数年間、ロブの巻き起こす騒動の尻拭いをしてきた経験が、彼の反応速度を鍛え上げていた。
「この野郎!」
ハンスは叫びながら、牙の頭部、ちょうど目の少し後ろあたりに渾身の一撃を叩き込んだ。金属と硬質の鱗がぶつかる鈍い音。
ガチンッ!
「ガァッ!」
牙は頭部に強い衝撃を受け、体勢を崩してよろめいた。
「ったく……お前のおかげで手間が増えるんだよ!」
ハンスは歯を食いしばりながら、ロブに向かって文句を言う。
しかし、ロブは既に次の行動に移っていた。
ロブはよろめく沼地の牙を見据え、ニヤリと笑った。
その顔には、「攻撃は見切った」「お前の『踊り』は分かった」と言わんばかりの余裕がある。
彼は躊躇なく、沼地の牙が潜む、泥と水の混じった沼地へと足を踏み入れた。
「おい! ロブ! 何してやがる!沼地に入るな!」
ハンスが叫んで止めようとするが、ロブは聞かない。泥水が、彼のブーツを、そしてズボンを濡らしていく。
沼地に足を踏み入れたロブに対し、沼地の牙は再び俊敏な動きで襲いかかった。
沼地の中での動きは、陸上とは比べ物にならないほど速い。水面を滑るように、大きく口を開けロブ目掛けて突進する。狙いは噛みつきか?
ロブは、迫りくる巨大な顎を冷静に見据える。
しかし、牙は直前で軌道を変えた。
噛みつきはフェイク。
本当の狙いは、その巨大な尻尾による薙ぎ払いだった。水面下で巻き起こる水流が、牙の意図を物語る。
だが、それもロブにはお見通しだったらしい。
彼は、尻尾が来るタイミングに合わせて、まるで水面を蹴ったかのように、高く空中に跳躍した。
沼地の湿った空気の中、ロブの細い身体が宙に浮く。
牙は、落下してくるロブに狙いを定めた。
巨大な顎を真上に向け、落ちてくる獲物を迎え撃とうとする。
その口は、全てを噛み砕く準備ができている。
ぶつかる直前。
ロブは空中で身体を捻り、落ちてくる牙の頭部、その下顎に片手をかけた。
そして、ほんのわずかに、顎の軌道から身体を逸らす。
それだけで十分だった。牙の口は、ロブの身体を捉え損ね、そのすぐ横をすり抜けていく。
そして、すれ違いざま。
ロブは残った片手に握っていたダガーを、牙の喉元、首と頭の繋ぎ目に目掛けて、躊躇なく突き立てた。
ズブリ
ダガーは、牙の喉元に深々と突き刺さる。ロブはそのまま、落下の勢いを利用し、ダガーを喉元に突き立てたまま、そのまま身体を滑らせた。
ズルズルズル……!
ダガーの刃が、沼地の牙の喉元を、その自重と落下の威力によって、容赦なく切り裂いていく。
「ガッ……ガァアアアア!」
牙は絶叫のような断末魔を上げた。巨大な身体が痙攣し、大量の血と泥水を撒き散らす。
そして、巨大な身体が水面に倒れ込む。
ドォン! と轟音が響き、沼地全体が揺れた。
ロブは倒れた牙の上に立ち、煙草を口から離した。その顔には、達成感よりも、どこか退屈そうな色が浮かんでいる。
まるで、最初から何の危険もなかったかのように、あっさりと、呆気なく、沼地の牙は息絶えた。
「……終わったか」
ハンスが呆然と呟いた。あまりにあっけない結末に、実感が湧かない。
倒れた沼地の牙は、動かない。確かに息絶えているようだ。
「ったく……硬っけぇし、デカいし、重いし……」
ロブは倒れた牙の上に立ちながら、文句を言い始めた。
ハンスは近づいてくる。
「おい、お前。沼地なんか入りやがって。何考えてるんだ!」
「大丈夫だっただろ?」
「大丈夫かどうかの問題じゃねぇ! 危ないだろうが!」
いつもの小言だ。ハンスは諦め、沼地の牙の死体を見上げる。
「しかし、デカいな……どうやって首を切り落とす?」
討伐の証拠として、首を持ち帰る必要がある。しかし、この巨体の首を、ダガーやメイスで切り落とすのは骨が折れる作業だ。
「硬くてデカい上に、これかよ。最悪だな」
ロブも文句を言う。
「しかも、血まみれで臭え」
二人は、文句を言い合いながら、協力して沼地の牙の首を切り落とす作業に取り掛かった。
硬い鱗と筋肉に刃が弾かれ、なかなか進まない。
汗と泥と血にまみれながら、彼らはなんとか首を切り離すことに成功した。
それは、報酬のための、骨の折れる肉体労働だった。
「よし、これで終わりだ」
ハンスは息切れしながら言った。切り落とした首は、想像以上に重かった。
汚れた身体を簡単に拭い、重い首を馬車に積み込む。馬車は、巨大な首の重みで少し傾いだ。
「早く街に戻って、水浴びてぇな」
ロブが呟く。
「当たり前だ。このままだと賞金首に間違えられる」
ハンスは沼地の牙の首をちらりと見た。
確かに、この首を持ち歩いていれば、面倒なことに巻き込まれる可能性は高い。
二人は馬車に乗り込み、街を目指して出発した。
沼地の朝靄は晴れ、陽の光が水面に降り注ぎ始めている。
報酬で、誰とどんなダンスを踊ろうか。
そんなことを考えながら、彼らの馬車は、ゴトゴトと音を立てて、泥道を後にした。