沼地の牙の誘い方
夜の街道を、馬車がゆっくりと進む。
街の灯りは遥か後方で点に変わり、やがて闇に溶けた。馬車の揺れに合わせて、二人の影が不規則に揺れる。
「で、どうやって戦うんだ?」
ハンスが馬車を御しながら、隣で煙草をふかしているロブに尋ねた。
ロブは煙草の灰をパチンと弾き、気だるげに答える。
「ん? どうって、いつも通りやるだけだろ」
「いつも通りってのは、何も考えずに突っ込んで、後で俺が尻拭いするってことか?」
ハンスの声には、明らかな不満が滲んでいる。
「相手は沼地に潜むモンスターだぞ。沼地での戦いは不利だ。どうやって奴を誘き出す? どうやって動きを止める? 考えがあるんだろうな?」
「まあ、その場のノリってやつさ」
ロブは曖昧に笑った。
「相手がどんな『踊り』を見せてくれるか、それに合わせてこっちも適当に踊るだけだ」
「適当だと? お前なぁ……」ハンスは額を押さえた。
この男はいつもそうだ。詳細な計画は立てない。
目の前の状況を楽しみ、その瞬間の閃きや身体能力に任せて切り抜ける。
それは確かにロブの強みでもあるが、ハンスにしてみれば胃が痛くなる原因でしかなかった。
「冗談じゃない。今回の報酬はそこそこだが、往復の経費やらを引いたら雀の涙だ。万が一失敗したら、それこそ明日の飯にも困るんだぞ」
ハンスの脳裏には、常に逼迫している自分たちの財布の中がよぎる。
「しかも、モンスター相手に器物損壊なんて洒落にならない。幸い、嘆きの沼地の周りには、ロブが壊しそうな立派な建物は見当たらないのが、唯一の安心材料だがな」
ロブはフッと鼻で笑った。
「俺を何だと思ってんだ。別に何も壊す気はないぜ。ただ、少しだけ、その沼地の牙とやらと遊んでみたいだけだ」
「遊んでみたい、だと……」
ハンスはこれ以上言っても無駄だと悟り、ため息だけを返す。
ロブの好奇心が、彼らを危険な場所へと導く。
それは、この数年間の常だった。
街道から未舗装の道へと入り、さらに細い獣道のような場所を進むにつれて、空気は湿気を増していく。
遠くから聞こえていた水音や得体の知れない鳴き声が、少しずつ近くなってきた。鼻をくすぐるのは、土や腐葉土、そして何とも言えない澱んだ水の匂いだ。
やがて、視界が開け、漆黒の闇の中に広がる水面が見えてきた。それが『嘆きの沼地』だ。月明かりにかすかに照らされた水面は、どこか不気味な光沢を放っている。水面に突き出た枯れ木や、沼地に根を下ろす奇妙な形の植物が、夜の闇の中で歪んだ影を作っている。
ハンスは馬車を止め、周囲を見回した。
沼地の気配は、五感をざわつかせる。
「ここで一時休憩だ」
ハンスは言った。
「明るくなったら、捜索を開始する。こんな夜中に沼地に入るのは無謀すぎる」
ロブは馬車から飛び降りると、大きく伸びをした。
「了解。腹減ったな」
ハンスは馬を繋ぎ、荷台から寝袋や調理器具を取り出した。慣れた手つきで焚き火の準備をする。
ロブは傍らで煙草を吸いながら、ぼんやりと沼地の方を眺めている。彼の左眼が、闇の中で微かに光ったような気がしたが、ハンスは見て見ぬふりをした。
長年一緒にいれば、ロブのそういった兆候には慣れてしまうものだ。
焚き火がパチパチと音を立てて燃え始める。
ハンスは干し肉と乾燥野菜を鍋に入れ、煮込み料理を作り始めた。
香ばしい匂いが、沼地の澱んだ空気の中で少しだけ和らぎをもたらす。
「いい匂いだ。ハンスの飯が食えるなら、わざわざ沼地まで来た甲斐もあるってもんだ」
ロブが近づいてきた。
「当たり前だ。お前が酒を飲んで騒いでる間に、俺は明日の飯の心配をしてたんだからな」
ハンスは鍋をかき混ぜながら答える。
文句を言いながらも、彼の顔にはどこか満足そうな表情があった。
誰かのために料理を作るのは、彼の性分なのだ。
二人は焚き火を囲んで食事を摂る。簡素だが温かい食事は、凍えかけた身体に染み渡る。
食事の間、特に会話はなかった。ただ、時折、沼地の方から聞こえてくる奇妙な音に耳を澄ませるだけだ。
パチャリ、という水音。
ブチ、と何かが引きちぎられるような音。
ヒュー、という湿った風の音。
全てが、この場所の危険性を物語っている。
夜が明け始めた。
空の色が、藍色から徐々に明るい灰色へと変わっていく。
沼地の輪郭がはっきりと見えてきた。朝靄が水面を這い、一層神秘的で、そして不気味な光景を作り出している。
ハンスは装備を整える。
メイスを腰に下げ、薬草や包帯などの入ったポーチを確認する。
「よし、行くぞ」
ロブはすでに準備万端といった様子で立っていた。ダガーを腰に差し、煙草を咥えている。
「まずは沼地の縁を辿って、最近被害があった場所を探す。足元には十分注意しろ。沼地は見た目よりも深く、毒気を含んでいる場所もある」
ハンスは地図を取り出し、被害報告があった地点を確認する。
二人は沼地の縁を慎重に進み始めた。
土は柔らかく、所々で足がめり込む。
植物は生命力に満ちているが、どこか歪で、触れるのを躊躇わせるようなものばかりだ。
「被害現場は、このあたりか……」
ハンスは地面に残された痕跡を探す。引きずられたような跡、折れた枝、血痕らしきもの。彼の目は、まるで探偵のように鋭く光る。
ロブはそんなハンスの後ろを、気だるげな足取りでついていく。しかし、彼の左眼は常に周囲を観察している。何かを見通しているような、独特の光を宿しながら。
「沼地の牙は、どうやって獲物を『誘い出す』んだろうな」
ロブが突然呟いた。
「誘い出す? 襲うんじゃないのか?」
ハンスが怪訝な顔をする。
「まあな。でも、ただ襲うだけじゃつまらないだろ? きっと、奴なりのやり方があるのさ。例えば、水面に何かを漂わせるとか、呻き声で獲物を誘うとか……。どんな『踊り』を見せてくれるか、待ちきれないぜ」
ロブの言葉に、ハンスは背筋がゾッとした。
この男は、本当に危険を楽しんでいる。獲物を『誘い出す』などという発想は、普通の人間には出てこないだろう。
彼らがさらに沼地の奥へと進んだ、その時だった。
突然、すぐ近くの水面が激しく波立った。
朝靄を切り裂くように、巨大な影が水面下に現れる。
パチャリ、という水音とは比べ物にならない、轟音のような水飛沫が上がった。
「っ!」
ハンスは咄嗟にメイスを構える。
ロブは、ニヤリと口元を歪めた。彼の左眼が、期待の色を宿して輝く。
沼地の中から、巨大な顎と鋭い牙を持った、爬虫類のような頭部が姿を現した。
それは、冒険者ギルドで聞いた『沼地の牙』だ。
奴は、水面から顔を出し、二人に鋭い視線を向けた。その口元からは、唾液のような粘液が滴り落ちる。
「……来たか」
ロブが静かに呟いた。
奴は、まさに『誘い出し』てきたのだ。自分たちの縄張りで、挑戦者を迎え撃つかのように。
沼地の牙が、二人の冒険者に向かって咆哮を上げた。