『沼地の牙』はどんな踊り?
酒場を出て、夜の冷たい空気に晒されながら、二人は街の石畳を歩く。
ハンスは相変わらずロブの首根っこを掴んだままだ。
「ったく、お前は……! 少しは金のことを考えろってんだ!」
「へっへっへ、大丈夫だって。俺には『勘』がある」
「その『勘』とやらで、何度俺達の財布が空になったと思ってるんだ!」
ハンスの怒声は、夜の静けさに吸い込まれていく。
ロブは掴まれたまま、どこ吹く風といった様子だ。
目指すは冒険者ギルド。街の中心部にある、石造りの堅牢な建物だ。
夜遅くにもかかわらず、ギルドの中は活気に満ちていた。依頼掲示板の前で腕を組む者、カウンターで酒を煽る者、奥のテーブルで地図を広げる者。様々なランクの冒険者たちが、それぞれの目的のために集まっている。
汗と鉄、そして安酒の匂いが混じり合った、独特の空気だ。
ハンスはロブを解放し、受付カウンターへ向かう。
ロブは解放されるやいなや、壁にもたれかかり、既に脱力した姿勢に戻っていた。
「すまない、この手配書について聞きたいんだが」
ハンスは先ほどの『沼地の牙』の手配書を受付嬢に差し出した。
受付嬢はまだ若い女性で、少し疲れた顔をしている。
「ああ、『沼地の牙』ですね。最近、問い合わせが多いんです」
受付嬢は手配書に目を落とし、少し顔を曇らせた。
「この依頼は、難易度が高いですよ。既に何組かの冒険者パーティーが挑んで、戻ってきていないか、重傷を負って帰還しています」
カウンターの周りにいた他の冒険者たちも、その言葉に反応する。
「沼地の牙か……あれはヤベェらしいな」
「沼に引きずり込まれたら、もうおしまいだよ」
「報酬はいいが……命が惜しいね」
諦めや恐怖を含んだ声が、あちこちから聞こえてくる。
ハンスは真剣な顔で受付嬢に尋ねる。
「詳しい情報を教えてくれないか。特徴、出現場所、被害状況……」
受付嬢は端末を操作し、情報を読み上げる。
「『沼地の牙』。体長は不明、沼地に潜んでいるため全身を見た者は少ないです。目撃情報によると、巨大な顎と鋭い牙を持つ姿らしいです。非常に素早く、沼地の中でも自在に移動し、獲物を一瞬で引きずり込みます。主な出現場所は、街の南西にある『嘆きの沼地』周辺。最近、街道から少し外れた場所で、旅人や行商人が襲われる被害が多発しています」
ハンスは頷きながら、その情報を頭に叩き込む。
沼地の牙、嘆きの沼地。
その間、ロブは壁にもたれたまま、腰のダガーを抜き、指先で器用に回したり、刃先を爪で弾いたりして手慰みをしていた。口元には、いつもの気だるげな笑みが浮かんでいる。
そして、煙草に火をつけ、紫煙をゆっくりと吐き出した。
ハンスが受付嬢から情報を聞き終えようとした時、彼はふとロブの方を見た。
目線で、沼地の牙が出現するという南西の方向を示す。
ロブの左眼が、一瞬だけハンスの目線を受け止めたように見えた。
しかし、ロブはすぐに首を横に振る。遠すぎて、予見の眼でも正確な場所までは捉えられないらしい。
ハンスはそれ以上何も言わず、再び受付嬢に視線を戻した。
「……なるほど。嘆きの沼地、か」
ハンスは情報を整理する。沼地での戦闘は不利だ。特に、相手が沼地を自在に動けるなら。
ロブは煙草の煙を細く吐き出しながら、ニヤリと笑った。
「へぇ……沼地の牙、ね。どんな『踊り』で俺達を楽しませてくれるのか、楽しみだぜ」
その言葉には、危険への純粋な好奇心と、どこか挑発的な響きが含まれていた。
他の冒険者たちが顔を顰める中、ロブだけがこの状況を楽しんでいるようだった。
ハンスはロブの言葉を聞き流し、受付嬢に依頼の受注を告げる。
「この依頼、受けます」
「承知いたしました。くれぐれもお気をつけください」
受付嬢は心配そうに言った。
ギルドを出て、二人は馬車が置いてある宿屋の馬小屋へ向かう。
「まったく、お前は……! あんな危険な依頼、もう少し考えろってんだ!」
ハンスは再び小言を始める。
「それに、報酬が入っても、また何かやらかして弁償代で消し飛ばすんじゃないだろうな? 今回の報酬は、馬車の修理代と、次の街までの食料、それに宿代でほとんど消えるんだぞ!」
「大丈夫だって。今回はちゃんとやるさ」
ロブは適当に相槌を打つ。
馬小屋に着くと、ハンスは手際よく馬車を点検し始めた。車輪の緩み、車軸の油差し、幌の破れ。長年の旅で培われた、彼の職人的な一面だ。
ロブは傍らで煙草をふかしながら、それを眺めている。
「ほら、お前も手伝え!」
ハンスが言うが、ロブは動かない。
「俺はこういうのは苦手なんだよ。お前がやった方が早いし、正確だろ?」
「誰がやってると思ってるんだ!お前のためだろうが!」
いつものやり取りだ。結局、ハンスが一人で馬車の整備を終えた。
「よし、行くぞ」
ハンスは馬の手綱を握る。
「へいへい」
ロブは気だるげに馬車に乗り込んだ。
街の門をくぐり、二人は南西へと向かう。
街道は夜の闇に包まれ、静寂が広がっている。馬車の車輪が、乾いた土の上をゴトゴトと音を立てて進む。
「沼地の牙、か……」
ハンスが呟く。
「ああ。どんな奴だろうな。沼地で踊るってんだから、さぞかし面白いんだろうぜ」
ロブは窓の外を見ながら、どこか遠い目をして言った。
街道から外れ、道が次第に湿気を帯びてくる。空気には、草木と泥の匂いが混じり始めた。遠くから、カエルの鳴き声や、得体の知れない水音が聞こえてくる。
嘆きの沼地は、もうすぐそこだ。