影のワルツ
商都エルドリアの、とある商会の建物内。
最上階にある、豪華で広々とした一室。
磨き上げられた木製の調度品が並び、壁には高価な絵画が飾られている。
窓からは街並みが見下ろせる。しかし、その豪華さとは裏腹に、部屋の空気は張り詰めていた。
部屋の中央に置かれた椅子に、身なりの良い中年の男が座っている。
この商会の幹部だろうか。彼の顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。
指先は微かに震え、落ち着かない様子で時計を気にしている。
「旦那様、大丈夫でございますか?」
後ろに控えていた、スーツのような黒い服を着た男性が、心配そうに声をかけた。
この男は、商会の護衛か部下だろう。
椅子に座る男は、唾を一口飲み込み、震える声で答えた。
「……ああ。大丈夫だ」
しかし、その声には全く力がなく、とても大丈夫そうには見えない。
彼は再び、壁に掛けられた大きな時計に視線をやった。約束の時間は、もう過ぎている。
その時、部屋の扉が静かに開いた。
まず姿を現したのは、一人の男だった。
背中まで届く長い黒髪を、オールバックにして一つに結んでいる。
その髪は艶やかで、手入れが行き届いているのが分かる。物腰は柔らかく、口元には穏やかな笑みを浮かべているが、その目は驚くほど冷たく、感情の読めない色をしていた。
そして、その全身からは、鋭い気配が漂っている。
獲物を追い詰める捕食者のような、研ぎ澄まされた気配だ。
彼の後ろには、黒い揃いの軽装に身を包んだ四人の男が控えている。彼らは無言で、一切の感情を表に出さず、ただ主人の指示を待っているかのようだ。
長髪の男は、ゆっくりと部屋の中へ入ってきた。
部屋全体を見渡し、鼻を鳴らす。
それは、豪華な内装を評価しているようでもあり、あるいは、この部屋に漂う緊張感を嘲笑っているようでもあった。
「これはこれは、素晴らしいお部屋ですね。さすがはエルドリアでも有数の商会様でございます」
長髪の男は、丁寧な敬語で話し始めた。
その声は穏やかで、耳に心地よい響きを持っている。しかし、その声とは裏腹に、彼の目は一切笑っていない。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません。旅は疲れますね」
彼はそう言いながら、ゆっくりと椅子に近づいていく。
「まあ、転送門を使いましたので、大して時間は掛かっておりませんが。便利な世の中になったものです。ですが、あの待ち時間だけはどうにかならないものでしょうか。庶民の方々には申し訳ございませんが、ああいうものは順番待ちなどせず、すぐに使いたいものでございますね」
彼は冗談めかして言うが、その言葉の端々には、自身の立場や力を誇示するような響きが含まれている。
椅子に座る商会の男は、長髪の男の言葉に相槌を打ちながら、額の汗を拭いた。
彼の身体は、長髪の男が近づくにつれて、さらに硬直していく。
しばらく、他愛もない雑談が続いた。
街の景気、最近の流行、そして長髪の男が旅の途中で見かけた面白いもの。
しかし、その全てが、これから始まる本題への前奏曲に過ぎないことを、商会の男は理解していた。
長髪の男は、突然、雑談を打ち切った。
彼の表情から穏やかさが消え、冷酷な顔になる。
彼は懐から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に静かに差し出した。
写真を見た瞬間、椅子に座る商会の男の顔が蝋人形のように真っ白になる。
写真には、彼にとって決して見られてはならないものが写っていたのだろう。
長髪の男は、ゆっくりと商会の男に近づいた。
そして、その耳元に顔を寄せ、囁くような声で何かを言った。
その声は、周囲には聞こえないほど小さかったが、商会の男にとっては、まるで死刑宣告のように響いたのだろう。
商会の男は、全身を震わせながら、か細い声で答えるのが精一杯だった。
「……直ぐに……直ぐに用意いたします……」
長髪の男は、商会の男から離れると、満面の笑みをたたえた。
それは、心からの喜びを表す笑みではなく、獲物を仕留めた捕食者のような、冷酷で恐ろしい笑みだった。
「ありがとうございます。助かります」
彼は再び丁寧な敬語に戻る。
部屋を出る際、長髪の男は振り返り、商会の男に声をかけた。
「ところで、帰りの分の予約を頼んでもよろしいでしょうか? できれば、順番待ちなどせず、すぐに使いたいものでございますので」
商会の男は、力なく頷くことしかできなかった。
部屋を出た長髪の男は、控えていた護衛の一人に声をかけた。
その声は、部屋の中にいた時とは打って変わって、冷たく、事務的だった。
「荷物を受け取ったら、後始末をお願いします」
「承知いたしました」
護衛は無感情に答えた。
数日後。
商都エルドリアの酒場。
喧騒の中、人々がグラスを傾け、様々な話題で盛り上がっている。その中で、ある噂話が、火がついたように広まっていた。
「聞いたか? フランツ商会のお偉いさんが、殺されたらしいぜ」
「マジかよ! あの大きな商会の?」
「ああ。部屋で死んでたって話だ。何があったんだか……」
「あれほど大きい商会なら、やましいことの一つや二つ、いや、黒い付き合いでもあったんだろうよ」
「そうだろうな。誰かに恨まれてたんだろ」
人々は、この街で起きた大きな事件を、まるで他人事のように、面白おかしく話の種にしていた。
商会の権力闘争か、あるいは裏社会との繋がりか。様々な憶測が飛び交う。
「まあ、数日もすれば、また別の話題で持ちきりになるだろうがな」
ある男がそう呟いた。
街の片隅で静かに始まった『影のワルツ』は、誰にも気づかれることなく、静かに、そして確実に、その幕を閉じたのだった。