消えた金貨と旅立ち
重い身体を引きずって目を覚ますと、窓の外は既に明るかった。
陽の光が部屋に差し込んでいる。時計を見れば、昼過ぎだ。
昨夜の疲労と、そして何よりも、手元からあっという間に消え去った金貨への落胆が、身体に鉛のようにのしかかっていた。
「……起きたか」
ハンスが、既に身支度を整え、テーブルで何か書き物をしながら声をかけてきた。彼の顔にも、昨夜の疲れと、隠しきれない落胆の色が見える。
「ああ……」
ロブは気だるげに返事をする。まだ眠気が残っている。
二人は宿の食堂へ降り、軽めの昼食を摂った。
パンとスープ、それに少しの干し肉。
昨夜の豪遊(の予定だったもの)とはかけ離れた、質素な食事だ。
食事をしながら、今後のことを話し合う。
「昨夜は、まあ、散々だったな……」
ハンスが口火を切った。
「へっへっへ……まあな。最高の【タンゴ】を踊るはずが、泥水に足を取られたって感じか」
ロブは自嘲気味に笑った。
「笑い事じゃない! せっかく稼いだ金が、ほとんど消えたんだぞ!」
ハンスは再び小言を言いそうになるが、すぐに思い直したようにため息をついた。
「……まあ、過ぎたことを言っても仕方ない。で、どうする? 残った金で、この街にもう少し留まるか?」
ロブはスープを一口啜り、考え込む。
「いや……もういいだろう。この街には、もう面白い『踊り』はなさそうだ。それに、あの賭場に長居するのも気分が悪い」
「そうだな」
ハンスも同意した。あの女性ディーラーの言葉が、まだ耳に残っている。
「残った金は、どれくらいだ?」
ロブが尋ねる。
ハンスは懐から革袋を取り出し、中身を確認した。
「……沼地の牙の報酬分よりは少し多い、くらいか。まあ、次の街まで行く旅費と、最低限の食料、それに馬車の修理代くらいは捻出できるだろう」
「なんだ、それだけかよ」
ロブは再び落胆した顔をする。
「当たり前だろう! お前が賭場で無茶したせいだ!」
ハンスは思わず語気を強めた。
「まあまあ、そうカリカリすんなって。とにかく、残った金で次の街へ行くんだな?」
ロブは話を先に進める。
「ああ。早いところ支度をして、出発しよう」
ハンスは頷いた。
ハンスは手帳を取り出し、買い出しのメモを書き始めた。
食料、水、馬の飼料、そして馬車の修理に必要な道具や部品。彼の計画性の高さが、こういう時に発揮される。
「よし、これだ」
ハンスは書き終えたメモをロブに渡した。
「俺は馬車の点検と修理をする。お前はこれを持って、買い出しに行ってくれ」
「えー……めんどくせぇな」
ロブは渋々メモを受け取った。
二人は手分けして準備に取り掛かった。
ハンスは宿屋の馬小屋で、馬車の車軸や車輪、幌などを念入りに点検し、必要な修理を行う。
ロブは、メモを片手に街中を歩き回る。
街は、昨夜の喧騒が嘘のように、穏やかな日常を取り戻していた。市場には活気があり、人々が行き交っている。
ロブは、指定された店で食料品やその他の物資を買い集める。
買い出しの途中、ロブは偶然、見慣れた人物を見かけた。
それは、昨夜賭場で自分たちから金を巻き上げた、あの女性ディーラーだった。
しかし、彼女の姿は、賭場にいた時とは全く違っていた。
黒いドレスではなく、一目でわかる上質な生地で作られた、街の有力者や商人の妻が着るような、品の良い身なりをしている。
彼女は、護衛らしき男を数人引き連れて、高級そうな宝飾品店から出てきたところだった。
その顔には、賭場で見せたような無表情さや、どこか退廃的な雰囲気はなく、洗練された、しかしどこか冷たい美しさが浮かんでいる。
彼女はロブに気づいたようには見えなかった。
あるいは、気づいていても、気にも留めなかったのかもしれない。
彼女はそのまま、優雅な足取りで街の通りを歩いていった。
ロブは、その場に立ち尽くし、彼女の背中を見送った。
賭場のディーラーが、こんな良い身なりをしているとは。
やはり、ただのディーラーではなかったのだろう。
そして、彼女のイカサマは、予見の眼をも欺くほど巧妙だった。
「……ちっ」
ロブは小さく舌打ちをした。悔しさが再び込み上げてくる。
しかし、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。ロブは気を取り直し、買い出しを続けた。
宿に戻ると、ハンスは馬車の修理を終えていた。
「遅かったな。買い出しは済んだか?」
「ああ、済んだぜ」
ロブは買い集めた荷物を馬車に積み込む。
「よし、これで準備は万端だ」
ハンスは満足そうに頷いた。
二人は馬に手綱をつけ、馬車に乗り込んだ。
街の門を目指して、ゆっくりと進み始める。
門番は、昨夜の騒動を覚えていたのだろう、二人の姿を見て少し驚いた顔をしたが、特に何も言わずに門を開けてくれた。
街を出ると、目の前には広大な大地が広がっていた。遠くには、次の街がある方向を示す標識が見える。
「さて、行くか」
ハンスが言った。
「ああ」
ロブは煙草に火をつけた。
馬車は、ゴトゴトと音を立てて、新たな旅路を進み始めた。手元に残った金は少ない。しかし、彼らの旅は終わらない。次の街には、どんな依頼が待っているのか。どんな『踊り』が彼らを楽しませてくれるのか。
そんなことを考えながら、二人の鉄屑は、報酬という名の金貨を求めて、再び旅立った。