鉄屑
思いたって書き始めてみました。
とある街の酒場
木製の床は酒と埃で汚れ、壁には無数の傷跡が刻まれている。
けたたましい笑い声と怒鳴り声、そして安酒の匂いが充満するその場所で、大柄な男――ハンス・ラーベは、カウンターを背にジョッキを傾けていた。
視線の先には、今しがたテーブルから滑り落ち、床に大の字になった何人目かになる酔っぱらいが見える。
「ひっく……俺に勝てるやつはいないのかー? この街の男はみんな腑抜けかー?」
カウンターの端、細身の男がジョッキを高く掲げ、周りを煽っている。
ロバート・レッドグレイヴ、通称ロブだ。普段のだらしない雰囲気はどこへやら、今は妙にハイテンションで、その細い身体からは想像もつかないほどの大声を出している。
その手には、既に空になったジョッキが三つ、四つ。
ハンスは深く、深いため息をついた。まるで胃の底から絞り出すような、疲労困憊のため息だ。
「ロブ……そろそろ終わりにしてくれ」
その声は、騒がしい酒場ではかき消されそうになるほど小さかったが、ロブの耳には届いたらしい。
しかし、聞いているのかいないのか、彼はニヤニヤと笑うだけだ。
ハンスは諦め、カウンターの向こうにいる恰幅の良い店主に声をかけた。
「すまない、勘定だ」
萎んだ革袋から、数枚の硬貨を取り出して支払う。
今日の稼ぎは、これでほとんど消えた。いや、むしろ赤字かもしれない。
ロブがまた誰かに絡み始めたのを見て、ハンスはもう我慢の限界だった。
彼はカウンターから離れ、ロブの元へ向かう。
そして、その細い頭に、容赦なく拳を振り下ろした。ゴツン、と鈍い音が響く。
「いってぇ! ハンス! 何すんだよ!」
ロブが頭を抱えて蹲る。
「お前こそ何してんだよ!」
ハンスはロブの首根っこを掴み、そのまま引きずるようにして酒場の外へ出た。
夜の冷たい空気が、火照ったロブの顔を撫でる。
「俺達は金がねぇ! 明日の飯代だって怪しいんだぞ! なのにあんなに飲んで、明日からどうするんだよ!」
ハンスの怒声が響く。
彼の言う通り、二人の財政状況は常に火の車だった。ロブが依頼の度に余計な騒ぎを起こし、諸経費に加えて器物損壊の賠償金などで報酬が吹っ飛ぶのが日常だからだ。
ロブは頭を掻きながら、不敵に笑った。その顔には、反省の色は微塵もない。
「へっへっへ……心配すんなよ、ハンス。ちゃんと稼いできたぜ」
そう言って、彼は懐からくしゃくしゃになった一枚の紙を取り出し、ハンスに差し出した。
ハンスは受け取って広げる。
そこには、手配書のようなものが印刷されていた。
「……賞金首、モンスター? 『沼地の牙』……お前なぁ……」
ハンスは再びため息をついた。モンスターの賞金首は、通常の依頼よりも危険度が高い。
そして、ロブは危険を愛する男だ。
「最近、このあたりに出没し始めたらしい。旅の連中が何人かやられてるって噂だ。こいつを倒せば、しばらくは贅沢できるぜ」ロブは自信満々に言う。
ハンスは手配書を睨みつける。沼地の牙。聞いたことのない名前だ。
「どうやって探す? 沼地なんていくらでもあるだろう。あてはあるのか?」
ハンスは現実的な問題を提起する。ロブの「稼いできた」という言葉を鵜呑みにするほど、彼は甘くない。
ロブはニヤリと笑った。
その左目が、一瞬だけ奇妙な光を宿したように見えた。
「まあな。勘、ってやつだ」
勘。ハンスは知っている。ロブのその「勘」が、どれほど常識外れなものかを。それは、彼の左眼――予見の眼によるものだ。
「……はぁ。分かったよ。どうせお前は聞かないだろうしな」
ハンスは諦め、手配書を折りたたんだ。
「だが、情報はちゃんと集めるぞ。沼地の牙の特徴、出現場所、被害状況……何も分からず突っ込むのは愚か者のすることだ」
ハンスはそう言いながら、既に頭の中で今後の段取りを組み立て始めていた。まずは冒険者ギルドだ。
「へいへい、分かってるって。お前はそういうのが得意だろ?」
ロブは気楽に答える。ハンスの苦労を理解しているのかいないのか、相変わらずの調子だ。
「得意じゃねぇ、お前がやらないから俺がやってんの!」
ハンスは思わず語気を強めた。
「まあまあ、そうカリカリすんなよ。報酬が入ったら、美味いもんでも奢ってやるよ」
ロブは呑気なものだ。
「その報酬が、お前のせいで吹っ飛ぶのがいつものパターンだろうが!」
ハンスの叫びは、夜の街に虚しく響いた。
二人は並んで歩き出す。巨漢のハンスと、細身のロブ。
まるで凸凹コンビだが、この数年間、彼らはこうして旅を続けてきた。
お互いの過去には踏み込まない。ただ、目の前の依頼をこなし、どうにかこうにか生きていく。
「で、どこに行くんだ? ギルドか?」
ハンスが尋ねる。
「ああ。まずは情報収集だ。沼地の牙がどんなダンスを踊るのか、見物してやろうぜ」
ロブはそう言って、口元に笑みを浮かべた。
その目は、危険への期待に輝いている。
ハンスは、また面倒なことになりそうだと、内心でため息をついた。