009.昇華
梨沙はピアノの教師の前でピアノを弾いていた。
「素晴らしいわね。感情表現が豊かになっているわ。でも寂しさや悲しさが音に出ているわ。でも仕方がないわよね。友人が亡くなったんでしょ。最近鎮魂曲や物悲しい曲ばかりを選んでいるのもそのせいかしら」
「はい、親友が天国で幸せにしているように祈りながら弾いています。家でもそうです。鎮魂曲だけなら誰にも負けないようになれそうですよ」
梨沙は微妙に崩れた笑いをしながら答えた。
ピアノの前に座るだけで集中が上がる。そして鍵盤に手を置いただけで嫌なことは全部忘れられる。五線譜を追い、感情を籠めて弾き切る。それだけだ。
梨沙は最近鎮魂曲ばかりスコアを買い求め、家で練習していた。ほとんど暗譜してしまった曲も多い。それほど有名でない曲も手に入れ、練習した。
「次はクライスラーを弾きますね」
「愛の哀しみね。いい曲よね。ゆったりと、感情豊かに弾くのよ。貴女ならできるわ」
「はい、先生」
梨沙は見事にクライスラー・愛の哀しみをピアノの教師の前で弾き切った。
「じゃぁ次はこれを弾きましょうか。ショパン練習曲25-11、『木枯らし』よ」
「二年前のコンクールで弾いた曲ですね。しばらく弾いては居ませんでしたが今の私なら前より良く弾けると思います」
「えぇ、今の貴女なら素敵に弾き切れると思うわ。前よりもバージョンアップされた貴女のピアノを聞かせて頂戴」
家では必ず曲を弾いたら録音して聞き直している。明らかに表現力が上がっているのが、ちょっと前に弾いた時と比べれば即座にわかる。先生にも褒められた。
だがあまり嬉しくは感じない。恵麻を亡くした喪失感が表現に漏れ出てしまっているだけだからだ。故に今明るい曲を弾こうとは思えない。
梨沙は「木枯らし」を情感たっぷりに弾き、先生に太鼓判を押された。次のコンクールはこの曲か先ほど弾いたショパン練習曲作品10-3「別れの曲」にしようと言われた。どちらでも良い。梨沙も文句などなかった。どちらの曲でも誰にも負けずに弾き切る自信があった。
◇ ◇
「おはよう、木島くん」
「おはよう、三宅さん。今日はすっきりとした表情をしているな」
康太が梨沙の挨拶に顔をあげ、きちんと目を合わせてくる。梨沙も康太の目に光が戻っているのを見て少し安心した。
当初の康太は見ていられなかったのだ。康太から言わせれば恵麻を失った自分も同じであっただろうが。
「そうかしら。でも少し区切りがつけた気分はあるわ。謎はまだ残っているけれど恵麻や桐生くんを想ってピアノを弾いているの。それに彼女の好きだった曲を弾いたりね。先生に感情表現が豊かになったと褒められてしまったわ。良い事なのか悪い事なのか判断がつかないわね。あの事件がなければ私はピアニストとして成長しなかった。でも恵麻たちが居ない方が辛いわ。総合では大幅にマイナスね。感情表現なんて親友を亡くさなくたって持っているピアニストは沢山いるもの。私の成長に必要な事件ではなかったわ」
「そうだな、なくて良い事件だった。俺もそう思うよ」
康太はゆっくりと、同意だとばかりに頷いた。
康太の机の上にはいくつもの参考書が並んでいる。康太も前向きに勉強をする気になったようだ。
これでまた不敗伝説は復活するだろう。特進クラスでももう誰も康太になど敵わない。全国模試でも一桁の順位や一位を取ってしまっても驚かない。ライバルであった篤はもういないが、目に光が戻っている。
「おはよう、梨沙」
「おはよう、みんな。今何の話をしているの」
「ん~、次のテストの事かな。後は最近話題の曲とか、映画とか。後は人気のコスメの話がさっき出たわね」
「梨沙はまたピアノ?」
友人の一人が聞いてくる。梨沙は聞いてきた友人に顔を向けて頷いた。
「そうね、勉強はもういいわ。ピアノに全力を傾ける事にしたの」
「そう、でもまた聞かせてね。梨沙のピアノ好きだから」
「えぇ、いいわよ。今日の放課後音楽室借りて演奏会でもする? それと今度コンクールがあるの。良かったら聞きに来てね。聞くだけならタダだから」
「わぁっ、梨沙の演奏会ならお金払ってでも行きたいわ。友達で良かったわ。そこらのピアニストのCDなんかよりも余程生音の梨沙の演奏の方が良いもの」
いつもの女子グループに声を掛ける。中学生から約五年間一緒だった友人たちだ。
最初は混ざるのが大変であったがクラスの人気者であった恵麻と仲が良かったことで梨沙が溶け込むのはそう難しい事ではなかった。
そして梨沙がピアノを披露すると誰もが拍手してくれた。梨沙の事を新聞やTVなどで知っているクラスメイトも居た。故に梨沙は中等部からの外部生だがそれほど苦労せずに内部生の枠に入ることができた。
(私はラッキーだったわね。だって恵麻が居たのだもの。まぁむしろ恵麻がいたから溟海を受けたんだけれど)
一緒に入った内部生はかなり苦労したと聞く。いじめなどもやはりあるようだ。
特に梨沙のように中流階級の娘などであると、家格で負けているのでそこでマウントを取ってくる相手がいる。
やはり良い家に生まれて来た人たちと庶民では教育が違う。食事時などで所作などの綺麗さが圧倒的に違うのだ。梨沙は恵麻に教えて貰い、なんとかできるようになった。
梨沙はあまり気にしないようにしているが、そこで卑屈になってしまい、孤立する生徒もいる。
だがこればかりは仕方ない。金持ちばかりが集まる名門なのだ。そういう事も込みで入学しなければならない。
梨沙は恵麻に守られていたし、事前情報も貰っていた。特技もあった。そして恵麻と同じ学校に通いたいが為に親に我儘を言って受験させて貰った。
授業料が高いので、ピアノの為にかなりお金を使わせてしまっている両親には悪いとは思う。
だが恵麻と同じ学校に通いたかったのだ。公立の中学に通っていたほうがピアノには集中できただろう。溟海は勉強もしっかりとしなければならない。
音校に進学する選択肢もあった。実際誘いがいくつもあったのだ。
篤のように特待生として迎え入れてくれると学校から親に連絡があり、梨沙のしたいようにすれば良いと両親は有り難くも言ってくれた。
しかし英語の授業などは留学を視野に入れていた梨沙に取っては良い結果だった。
公立の中学の英語の教師に教えを受けて英語が喋れるようになれるとは思えない。音高に行けばちゃんとした外国語の授業はあっただろうが、それだけでも溟海に入った甲斐があったと梨沙は思う。
(でももう勉強なんてもう懲り懲り。恵麻の居ない特進に意味なんて無いわ。木島くんや友達たちと離れるのは寂しいけれど、恵麻を失った哀しみに比べたらなんてことはないわ。それに普通クラスでも勉強はできるわ。英語も特進で五年頑張ったお陰でリスニングもスピーキングもできるようになった。溟海様々ね。他の学校なら授業だけでこれほど英語が話せるようになれるとは思えないわ)
中学受験は地獄だった。これが小学生にやらせる問題かと思った。塾でも小学校で習っていないことばかりが出てくる。だが梨沙はやりきった。ギリギリだが特進の枠に入り込む事ができたのだ。
それも恵麻が勉強を教えてくれたおかげだ。過去問などを手に入れてくれて、一緒に解いた。勉強は辛かったが梨沙に取っては楽しかった思い出だ。
(あぁ、恵麻の居ない一日がまた始まるのね。憂鬱だわ。ずっとピアノの前で座っていたい。学校なんて辞めてしまおうかしら。財団からもういつでも欧州に行って良いって言ってくれているし、あっちにも音高はあるわ。溟海を辞めて今年の秋から留学するのもありかしら。でも今の先生も私に合っているし素晴らしいピアニストだわ。後一年は先生に教わって居たいわね。今度の冬のコンクールは一位を取るわ。これは絶対よ。木島くんじゃないけれど、パワーアップした私に敵う相手なんて居ないんだから!)
梨沙は授業を聞き流し、音を消して動画をスマホで流し、こっそりとプロのピアニストの運指を見ながら頭の中で曲を鳴らした。
◇ ◇
「お、香織さんから連絡が来てる。なになに、探偵に色々調べさせた結果が出ているからまた集まらないかだって。当然行くに決まっている。三宅さんも来るだろう」
篤が居なくとも、日常は続く。中間報告らしいが気になる点がいくつか見つかったらしい。前回の会合は康太や梨沙が篤と恵麻について話す会だったが、今回の主役は香織だ。
そして探偵とは流石三条家の令嬢だと思った。そして康太も実家の伝手を使って調べさせようかと思った。
(探偵か、思いつかなかったな。視野が狭くなっていたらしい。こういうのはプロに任せるに限る。俺達高校生が幾ら考えたって真実には辿り着けない。客観的事実をしっかりと確認しないと脳内で妄想しているだけになってしまう。あいつらは隠れて付き合っていたんだろう。そして何かがあった。その何かが何かはわからない。探偵がそこまで突っ込んで調べてくれていると良いんだけどな)
マスコミはかなり突っ込んだ取材をして一時賑わっていたが直後に有名芸能人の不倫報道があり、篤と恵麻の事件はあまり取り上げられなくなった。
正直篤の実家や周囲の人へのインタビューなど見たくはなかった。
だが康太は何か手掛かりがないかと全部集めて見た。しかし結果は変わらない。
篤が良い男だと周囲にも評価されていたのが再確認されただけだった。原因など一つも手掛かりがなかった。篤の評判が良すぎるおかげでマスコミの熱は冷めていった。篤が悪者の方が彼らには都合が良いのだろう。今は二人の純愛物語としての方向性に舵を切っていると聞くがもう興味もわかなかった。
放課後になり、康太は梨沙に声を掛ける気で居た。だが梨沙は同じメッセージを受け取ったようで、梨沙から康太の席に近づいてきた。思うことは同じようだ。
「ねぇ、メッセージ見た」
「あぁ、流石大人だな。探偵を使うなんて考えた事もなかったよ。だが餅は餅屋だ。プロが調べてくれるならこれほど力強いことはない。何せ放課後篤や三条さんが何をしていたのか俺らはほとんど知らないんだからな」
「そうね。私も恵麻の全部を知っている訳じゃないわ。全部知りたいと思うけれどね。お姉さんに恵麻といっしょに映っている写真をいっぱい送ったの。そしたら恵麻の小さな頃の写真やお姉さんと一緒に遊んでいる写真や映像を送ってくれたわ。これだけを胸に秘めれば私は生きていける。ピアノの前に座った時、最初は恵麻を忘れようと思ったけれど彼女を想って弾いた方が上手く弾けるのよね。だから私は恵麻を忘れる必要なんてないの。恵麻を想ってこれからも弾いて行くわ」
康太は眩しい物を見るような目で梨沙を見た。
「あぁ、羨ましいな。俺はあいつの事を思うと喪失感に迫られるよ。何せ張り合いがない。多少手を抜いても一位が取れてしまう。もちろん手なんて抜かない。生徒会もきちんとやる。運動やストレッチも毎日している。篤に教わったんだけどな、集中が切れた時は腕立てや腹筋、ストレッチをやって一度頭を空っぽにするんだって。そしてシャワーを浴びて脳内をリセットする。そうすればまた集中できる。ただただ時間を掛けるんじゃなくてメリハリが大事なんだ。それを俺はあいつに教わったよ。そしてその通りにしたら全国の順位は上がった」
梨沙は逆に康太を寂しそうに見つめた。
康太は梨沙のように哀しみを糧にして注ぎ込める先がないのだ。今の状態でも十分医学部入学は果たせるだろう。推薦も取れる筈だ。推薦でなくとも一般受験でも受かるだろう。目的までの道のりは見えてしまっている。
そして今まで通り勉強すればそれは叶う。何かに打ち込めればと思うが康太には趣味があまり無い。医学書や論文を読んだり高校ではまだ習わないドイツ語を勉強するくらいだ。薬学にも手を出している。最新のバイオ系企業の研究も注目している。
だがそれは以前からやっていたことで、新しいことを始める気にも慣れない。
「木島くんはうまく昇華できる先がない物ね。芸術家ならばそれを糧に自分自身を成長させる事ができるけれど、勉強はそうは行かないわ。でも頑張ってね。応援しているわ。木島くんが頑張っていないなんて誰も思っていないわよ。じゃぁまた土曜日に駅で」
「あぁ、またな」
康太は勉強に集中しようと思ったが横槍が入った。
「おいおい、最近三宅さんと仲が良いじゃないか。どうした、付き合ってたりするのか」
「そんなんじゃないさ。ただ同じ親友を亡くした者同士共感しているだけさ。傷の舐め合いみたいなもんだ。変な勘ぐりはやめてくれ」
康太が強く、きっぱりと拒否するとクラスメイトは「お、おう。悪いな」と言って引き下がった。
下衆な勘ぐりをする奴らに付き合っている暇などないのだ。
康太はすでに三年生の授業を先取りし、推薦を貰う為の小論文や面接の勉強にまで力を入れている。更に一般受験する時の為に過去問も解いている。まだ全ては解ききれないが、手応えは得ている。あと一年きちんとやりきれば、問題なく合格するだろう。
「教室はうるさいな。図書館に行くか。それとも自宅に帰って勉強するか塾の自習室を使うか」
康太は帰り支度をしながら、どこで勉強に集中しようか悩んだ。