007.クラスの雰囲気
「鹿島、この仕事お前がやれ」
「はい?」
鹿島は資料を所長から受け取った。
鹿島はある大手探偵事務所に勤めている社員だ。既に勤続二十年を超えていてベテランだと言える。部下も沢山いる。部下に任せても良いだろう。そう思っていた。資料を見るまでは。
「これは……」
「そうだ、あの三条家の令嬢が心中した事件があっただろう。それを追えって言っているんだ。依頼主は同じ三条家のご令嬢だ。部下に任さずにお前がやれ。適任だろう」
「わかりました。あの事件は俺も気になっていました。何人か使いますがいいですか?」
「おう、任せたぞ」
探偵事務所と言っているが大概やることは不倫や浮気調査だ。標的に張り付いておかしな行動をしていないかを見張る。場合に寄っては監視カメラなどをハッキングして標的を追う。ピッキングなど法に触れる事を行うこともある。
だが今回の仕事は違う。ターゲットは既に他界してしまっているのだ。
世間はこの事件をセンセーショナルに取り上げている。TVのニュースでは自殺と断定され、下火になりつつあるがネット界隈ではまだまだホットなニュースだ。マスコミも追っている。
なぜ彼らは心中を選んだのか。エリート高に通う二人だ。将来は今の鹿島などよりも余程明るいだろう。
しかも片方は三条家の令嬢だ。掲示板などを見ていると情愛の縺れだの無理心中だったのではないかなどと好き勝手なことを書かれている。だが詳細は闇の中だ。
(面白そうだ)
素直にそう思った。普段の仕事とは違う。
鹿島もこの事件は注目していた。未来ある若者がなぜ心中と言う手段を現代に選んだのか。全く理解が及ばない。だが理由がないなどと言うことはないだろう。
鹿島は久々にやり甲斐のありそうな仕事にありつけ、やる気を出した。
「おい、お前ら。久々にやり甲斐のある仕事だぞ。きりきり働けよ。手を抜いたら許さんぞ」
鹿島の号令に部下たちはしっかりと頷いた。
◇ ◇
「あら、流石仕事が早いわね。第一報が届いたわ。でもダメね。真相には全然迫れて居ないわ」
香織は探偵事務所からの第一次報告を見て、ポイと机の上に投げ捨てた。書いてある内容は桐生篤の半生が書かれている物だったからだ。それはほとんど康太が語っていたことだ。表向きの情報でしかない。
結局あの後、香織と梨沙、康太は数時間に及んで恵麻と篤の話に終始した。最後の方は思い出を語り合い、康太ですら涙していた。香織も梨沙も泣かざるを得なかった。
「二人が交際していた事実はまだ確認されない、ね。余程うまく隠していたのね。流石恵麻だわ。父に知られたら必ず別れさせられるもの。どこの馬の骨とも知れない少年と付き合うなんてあの父が許す訳がないわ。私ですら相手を自由に選べないと言うのに。いっそ妾の子に継がせて仕舞えば良いのに。どうせ私たちに興味なんてないんだから」
香織は自身の父親が愛人を囲っており、隠し子も居る事を知っていた。その子は男の子で恵麻より三つ下の中学生で、認知もしている。大阪の名門校に通わせているとこっそりと佐藤から聞いている。
父親は一年のうち数ヶ月は海外に居るような男なので他に海外に愛人や隠し子が居たとしても全く驚かない。
当然母も知っているだろう。だが気が弱い箱入り令嬢であった母は父に文句など言わず、自分の仕事だけに打ち込んでいる。まるで逃避するかのように。
そしてお腹を痛めて産んだ筈の娘たちにはあまり関心を持っているとは思えない。
少なくとも香織は母からの愛情を幼い頃に感じた覚えはなかった。父親からはもっとだ。
愛情どころか感情はあるのだろうかと疑問に思う。父親からは、「三条の名に恥じないようにしっかりやれ」としか言われた事がない。
溟海学園の幼稚舎はほぼ親の面接で決まる。もちろん香織たちがどれほど躾けられているかも見られるが、上流階級の家の者ならば大概受かると聞いている。
三条家は名家だ。故に香織も恵麻も溟海学園に幼稚舎から入っていた。父も通っていたと聞いている。母は地元の溟海と同じような名門校に通っていた才女だ。
小学校、中学校、高校も全て溟海で、香織は今溟海大学の心理学部に入っている。心理学を学ぶついでに経営学や経済学の授業も受け、夫になる人が阿呆をやらかさないか自身で判断できるようにしている。
そして礼儀作法や習い事などは全て佐藤が仕切って教師を用意してくれていた。母親や父親に学んだことなどない。父は家に帰らないし、母は娘たちに関心すら示さない。
自分が親になる時はあんな母親にはならないようにしようと、反面教師として見ているくらいだ。
「ママは恵麻が死んだ時に泣いていたけれど、もう立ち直ったのかしら。まぁどうでもいいか。あの人のことなんて」
香織は母親の顔を思い出して、そして脳内から捨てた。
香織や恵麻にも母親の遺伝子は入っていて美人だ。そして家はやはり名家である。箱入りで育てられ、蝶よ花よと甘やかされていたのだと思う。
母方の祖父や祖母は物凄く甘い。香織も恵麻もとても可愛がられた。だがその分娘の教育に瑕疵があったように思う。
順風満帆で生きていれば、そして気の弱い母のような性格であれば、一つの挫折で折れてしまう事など容易に想像できる。
(まぁあの人の事を考えても仕方がないわ。産んでくれたことだけは感謝ね。恵麻と言う素晴らしい妹も持てたわ。相手はもっとちゃんと選んで欲しかったけれど)
母に比べれば先日会った康太や梨沙の方が余程強いと思った。そして彼らから語られた篤の人物像は予想以上であった。
梨沙も篤の事は認めていた。尊敬や憧れであり、恋ではないと言っていたが告白されたら確実に付き合っていたと思うと梨沙が言い放ったのだ。
そして康太もそうだろうなと頷いていた。
康太からは篤が全校生徒に認められ、密かに篤に憧れていたり恋をしていた女子を知っていると言っていた。
しかし篤はそんな暇はなく、恋愛に興味がないように見えたと証言した。あるとすれば恵麻とだろうと言い切った。それほど恵麻と篤の仲は良かったのだろう。そうでないと心中などしない。
「あの二人、付き合っていたのね。そうじゃないと説明がつかないわ。それにしてもなんで死んじゃったの、恵麻。お姉ちゃんに相談できない事が起きたの?」
恵麻の部屋に入り、香織は恵麻の思い出を思い出す。そして涙を流す。流石にもう膝から崩れ落ちることはない。だが自然と恵麻の気配を感じて恵麻が居ないと言う事実に打ちひしがれるのだ。恵麻の部屋に入る時はタオルが必須だ。
恵麻の写真を見ながら、恵麻との幼少期からの思い出や最近ビデオ通話で大学の話を聞いてくれたことまで明確に思い出せる。
その日は恵麻が寝ていたベッドで香織は寝た。恵麻がまた夢に出てきてくれないかと祈りながら。
◇ ◇
康太は重いドアを開いて教室に入った。あれから冬休みを挟んで数週間経ったと言うのに教室の雰囲気は暗い。
篤は最初の方はともかく男子にも女子にも人気があった。別け隔てなく勉強を教え、球技などは苦手だったがしっかりと鍛えていて細マッチョであった。
そこが康太との違いだ。康太は勉強と習い事だけしていたが、篤はしっかり自身を鍛えていたのだ。
「あぁ。あいつらはもう居ないんだな」
小さく康太はいつもの様に呟いて教室に入り、自分の席に着く。
篤本人に言わせれば勉強に集中できない時にできるのが、筋トレか図書館に行って本を読むことだと言っていた。筋トレは身体を鍛えられるし、図書館はただで本を読める。それで十分だと笑っていた。
なにせスマホさえ高校生になって初めて持ったと言うのだ。それまでは携帯電話すら持って居なかったと言う。
おかげで康太の最初の仕事は篤にスマホの使い方を教えることだった。学校ではタブレットも支給され、授業にもそれらは活用される。篤はスマホでできることの多さを知り、驚いていた。
現代社会に居てネットから切り離されていた生活をしているなんて信じられなかった。だが事実だ。
そして篤はネットにもゲームにも嵌まらなかった。毎週土曜日に図書館に行って一週間分の新聞を読むのが習慣だったのが、スマホでネットニュースが読めて楽だと言っていたくらいで、ゲームや動画などには興味を示さなかった。
だが音楽は普段図書館で掛かっているクラシック以外も聞けると言うことで喜んでいた。
篤に今流行りの音楽を教えたり古い名曲を教えたりするのが康太の楽しみだった。
「おはよう、木島くん」
「あぁ、おはよう。三宅さん」
梨沙とはあの時以来よく話すようになった。距離感が近くなったのだ。決して恋人とかそういう話ではない。だが恵麻と篤の話をするのに最も適しているのが梨沙だった。
「恵麻が居ないのがまだ信じられないわ」
「そうだね、三条さんも篤もまだひょっこりと現れて『おはよう』って言ってくれそうな気配が残っているよ。それがないから俺も張り合いがない。勉強はやっているけどね。あいつに教えられたんだ。一位なんて結局おまけなんだって」
「私も恵麻に教えられたわ。賞を取る為にコンクールに出るんじゃなくて、素敵なピアニストになるのが大事なんだって。コンクールで負けても『梨沙らしく弾けば良いのよ。私は好きよ、梨沙の音』って言ってくれたの」
康太は笑った。状況は違うが二人とも今は居ない二人に大事なことを気付かされたのだ。
「ははっ、三条さんは本当にいい女だな。惚れそうだよ」
「みんな恵麻は木島くんとくっつくと思っていたわよ。桐生くんが現れるまで、ね」
「そうだな、俺はあいつに男として、人として勝てないと思った。順位で勝っていても心の強さが違うんだ。だからこそあいつが死を選ぶ理由が思いつかない。三宅さんも何か思いついたら何でもいいから教えてくれ」
梨沙はしっかりと頷いた。だが表情はまだ暗い。
「えぇ、木島くんも何か思い出したら教えてね。そして香織さんに報告しましょう。私たちは協力者なんだから。この謎が解けないと私たちは前に進めないわ。安心して留学なんてできない。でもピアノは辞めないわ。辞めたら絶対恵麻に怒られるもの。恵麻が好きって言ってくれた音を私は極めるの。そして憧れのピアニストになるのよ。見ててね、きっとウィーンやドイツ、フランスなんかで名だたるオーケストラと共演して見せるから」
康太は梨沙の瞳に強さを見た。
「あぁ、期待しているよ。三宅さんも見ててくれ。俺がちゃんとした医者に成るのを。篤と約束したんだ。立派な医者になって親の病院を継いで、多くの患者を救うんだってね」
「そう、木島くんも頑張ってね、じゃぁ私席に着くから。また後でね」
「あぁ、また後で」
梨沙は離れていき、女子グループの子たちと挨拶をして雑談している。康太の周りにも男子たちが近寄ってくる。幼稚舎から一緒の奴らだ。
ただ誰もが少し陰が残っている。篤と恵麻の死はそれだけ全員に影響を与えたのだ。
(このクラスの雰囲気が元に戻ることはないだろうな。三年も何人か入れ替わるだろうけれど、三年になって特進に入れた奴らは戸惑うだろうな。これが俺たちの憧れていた特進かって。だが仕方がない。俺たちはもう失うことを知ってしまって、彼らは知らないんだ。篤のファンや三条さんのファンは同じようにロスになっていると聞くしな。彼ら彼女らのフォローも本当は生徒会役員としてなんとかしなきゃならないんだけど、俺も忙しいし、三宅さんも自分のことで精一杯だろう。三宅さんはわざと特進から落ちるかも知れないな。その方が彼女には良いだろう)
康太はまだ陰のある梨沙を見てそう思った。