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006.梨沙の帰還

 康太は背中を向け、必死に涙を我慢していた。香織に申し訳ないと思ったが篤の事を思うだけで涙が溢れそうになる。だが女性の前でワンワン泣く訳には行かない。それは康太のプライドだった。梨沙のように香織の胸に縋り付く訳には行かないのだ。


(俺は、もっと篤にやってやれた事があるんじゃないだろうか)


 なぜアレほどの男が死ななければ成らなかったのだろうか。

 そう思うだけで勉強に身が入らなくなる。実際この前のテストは三位だった。篤でも何でもない奴に負けたのだ。

 だがショックは少なかった。順位などどうでも良いと思った。実際通知表は体育などの苦手科目を除けばオール十だ。苦手科目も八は下回らないように頑張っている。内申点は推薦に必須だからだ。


(篤が死んで、俺は喪失感に陥った。だが母親を亡くした篤の喪失感はこんなもんじゃない筈だ。あいつが立ち直れたんだから俺が立ち直れない訳がない)


 そう思えばスイッチが入った。篤はもう居ないのだ。あいつの分まで俺が頑張らなくてどうすると康太は考えた。

 故にもう勉強に身が入らないと言うことはない。篤の死はまだ乗り越えられては居ないが、康太が医者になるという目標は変わらないのだ。


 医者になり、父親のように立派に病院を運営する。一位である必要もない。二位でも三位でも推薦が取れなくとも一般受験で受かれば良いのだ。溟海大学は溟海高校からの進学だと下駄を履かせてくれる。

 通常受けても受かるであろう試験に更に下駄があるのだ。落ちる訳がない。少なくとも後一年と少し、気を抜かずにしっかりと取り組めば問題はない。


 篤に負けてから一位にこだわることは辞めた。いつの間にか自分が一位であることが当たり前になって、一位に拘っていた自分に篤に強制的に気付かされたのだ。

 そして一位でなくとも自分の目標は達成できることを篤に諭された。完璧な正論だった。本来の目標は一位であることではない。立派な医者になり、病院を継ぐことが目的なのだ。


(それに俺は篤を失ったが両親は元気で今もやっている。忙しそうだがやりがいのある仕事だと誇っている。落ち込んでいる暇なんてないんだ。だが篤、なんで死んだんだ。それだけが信じられない。お前に何があった。香織さんが三条さんの死の原因を知りたいと思うように、俺が篤の死の原因を知りたいと言う気持ちは変わらない)


 篤のように母親を亡くした訳ではない。病院は今も黒字経営でしっかりと父親と母親が頑張って経営している。康太のモチベーションは失って居ないのだ。

 だが逆の立場に立てばどうか。病院が経営危機になり、父と母が事故や病気で働けなくなる。自分はそれでも医学部に入り、医者になる夢を持ち続けられるだろうか。


(厳しいな。俺はあいつのようにやれるか?)


 康太は怪しいと思った。自分は医者になるのが当然の人間で、病院を継ぐのが使命だと思っていた。事実今でもそう思っている。

 そのモチベーションが無くなれば、康太は立ち直れただろうか。篤のように強く生きられただろうか。

 答えは何度考えてもわからない、だ。何せその状況に陥っては居ない。篤が傍に居てくれれば喝を入れてくれたであろうことは容易に想像できる。

 だがもう篤は居ない。自分で立ち直るしかないのだ。


(俺は俺だ。順位は頑張った結果についてくる付随物だ。そうお前が気づかせてくれたんだよな。篤。そしてお前は立ち直った。絶望から復活した。俺はその姿を見てお前に憧れたんだ)


 康太は篤のあの時の状況を見てしまっている。自分が同じように全てを喪失した感覚を味わったらどうなるかはわからないが、全てを喪失した人間を、そしてそこから立ち直った篤を見ている。

 ならば自分も立ち上がれる筈だ。今まで積み上げた物は親から貰った物もあるが、当然自分の努力が無ければ為し得ない。

 そして勉強はやれば必ず結果が出るのだ。事故や病気のように理不尽に人の命を失ったりしない。

 一位に成れなかったからと言って医学部に受からない訳ではないのだ。


 康太は振り返り、大きく息を吸い込んで吐いた。ようやく落ち着いた。香織は康太が立ち直るまで待ってくれていたのだ。有り難いと思った。

 流石恵麻の姉だ。しっかりしている。たった三つしか違わないと言うのに、もっと大人に見える。それが三条家令嬢のオーラなのだろう。康太はまだ自分は子供なんだなと思った。


「すいません、えぇと」

「香織で良いわよ。三条だと恵麻とごっちゃになって呼び辛いでしょう」

「では香織さんと呼ばせて頂きます」

「えぇ、構わないわ。続きを聞かせてくれるかしら」


 香織は続きを促してくる。

 だが思い当たる節は母の死以外になかった。そして篤はそれを克服した。生徒会長にもなった。康太と篤は常に一位争いをしていた。共に勉強を頑張る同志として、ライバルとして高め合っていたのだ。おかげで三位以下のクラスメイトたちとは大幅に差がついた。


 康太の甘さが篤に寄って取り払われたからだ。康太一強ではなく、いつの間にか二大巨頭と呼ばれていた。誰も篤を馬鹿にする人間は存在しなかった。

 家が貧乏なのを馬鹿にする奴は居たが、それは単なる嫉妬だ。勉強で負けたから負け惜しみをしているに過ぎない。負け犬の遠吠えを聞いている暇は康太にも篤にもなかった。故に篤はそういう声を聞いても全く堪えて居なかった。


「幼少期から貧乏人、親無しって言われてたんだ。今更さ」


 そう笑って言っていたのを思い出す。そう言った時の篤の顔は絶対に見返してやると言う強い表情だった。決して卑屈な表情ではなかった。


「続きと言われても大体話せることは話しました。篤と三条さんが付き合っていたかはわかりません。少なくともクラス内でそういう話は聞きませんでした。篤からも聞いていません。ですが二人の仲は良好でした。お似合いにも見えました。みんな早くくっついて仕舞えば良いのにと思っていました」


 香織はため息を吐いた。香織の雰囲気から篤を悪者にしたいと言う気持ちは伝わってくる。だがそうではない。そうではないのだ。


「そう、付き合っては居なかったのね」

「わかりません。隠していたのかも知れません。篤も三条さんも如才ないですから、隠そうと思えば簡単に隠せると思います。俺たちはまだ高校生です。そういう機微はわかりません。パーティなどで慣れている三条さんと辛い状況から勝ち上がってきた篤。どちらも仮面など簡単につけられるでしょう」


 香織はゆっくり頷いた。


「そうね、ヨーロッパの貴族じゃないけれど、私たちはそういう教育を受けているわ。大人の上流階級の方々とも交流することがあるし、笑顔なんて鏡の前で練習するのよ。幼少期からそういう教育を受けてきたわ。当然恵麻もよ。桐生くんについてはわからないけれど、芯の強い子なんでしょう。その子が隠そうと思えば完璧に隠すでしょうね」


 康太は香織の意見に賛成だった。篤ならば完璧に隠すだろう。


「はい、そう思います。と、言うか二人で屋上から飛び降りたのです。そう考えるのが自然だと思います」

「そうよね。私もそう思っているわ。でも最初私は桐生くんが恵麻に何かしたと思っていたの」

「そんな奴じゃありません!」


 康太は声を張り上げ、テーブルに手をバンと付いてしまった。カップが揺れ、コーヒーがこぼれる。しかし香織は狼狽えすらしない。

 康太はつい荒ぶってしまった感情を奥底にしまい、「すみません」と謝って椅子に座り、溢した飲み物を拭った。香織は優しく「いいのよ」と慰めてくれた。


 その時、寝室に繋がるドアがキィと言う音がして開いた。梨沙が起きてきたのだ。なんだかんだで三十分くらいだろうか。目が腫れぼったくなっている。


「ごめんなさい、少し洗面所に行きますね」

「えぇ、行ってらっしゃい」


 梨沙は自分のポーチを持って洗面所に消えていった。


「あの子も落ち込んでいるの。少し気に掛けて上げてくれる? 恵麻の親友だった子なのよ」

「知っています。彼女のピアノの音色は誰よりも美しいことは溟海に通っている生徒ならば誰もが知る事実です。三宅さんがコンクールで賞を取る度に雑誌や新聞に天才少女現るとか載りますからね。そして三条さんと仲が良いことは周知の事実です。だからこそ、彼女も呼ばれたんでしょう」

「ふふっ、話が早い子は良いわね。ついでで良いから気に掛けて上げてね」


 康太はしっかりと頷いた。元よりそのつもりだからだ。


「わかりました。と、言うか俺はクラス全体を気に掛けて居ます。学級委員も篤たちの代わりになりました。生徒会長は再度選挙する訳でなく、書記の子が繰り上がりになりました。俺は会計をしていますし、三条さんは副会長をしていました。会長と副会長が同時に死んだのです。生徒会のムードも落ち込んでいます。そしてそれは学校全体に波及しているんです。現会長は頑張って元の状態に戻そうと頑張っていますが、一月やそこらじゃどうにもならないでしょうね。引退までどうにもならないかも知れません」

「そうでしょうね。あら、帰って来たようね。お帰りなさい」

「すいません、気を遣って貰ってしまって。話を続けてください」


 梨沙が帰ってきてソファに座る。落ち着いたようだ。まだ不安定ではあるが、目にはしっかり力が戻っている。


「三宅さん、君、三条さんと篤が付き合っていたと思うか?」


 梨沙の表情は少し晴れている。化粧を直していたようだ。腫れぼったくなっていた目元もマシになっている。

 康太は梨沙にも聞いてみる事にした。女子には女子同士の話と言うのがあるだろう。親友である梨沙になら恵麻がこっそり教えていたとしてもおかしくはないと考えた。

 同じ様に考えたのか香織も前のめりになる。


「どうだろう。そういう話は特になかったかな。でも全然あったと思うよ。あの二人は仲が良かったし、周りもカップルだと思っている子も居たと思う。学級委員も生徒会も一緒だし、図書館で一緒に勉強していたりしてたりしたしね。私も混ぜて貰って桐生くんに教えて貰ったけれど凄いわかりやすく教えてくれるのよ。おかげで順位上がっちゃったわ。今は勉強に全然手がつかないから下がると思うけどね。来年特進に居られるかしら。でも恵麻が居ないのなら私は普通クラスでいいのよね。特進に居る必要なんてないわ。海外の音大から奨学金スカラシップ付きのお誘いが来ているし、芸術家とかを支援している財団から欧州での生活費も貰えるって話も来ているわ。だから私は高校を卒業したら欧州に行くわ。どこの学校に行くのかはまだ決まっていないけれど、少なくとも五つくらいの学校から誘いがあるの。今の特進は恵麻の匂いが残りすぎていて今の私には辛いわ。木島くんや仲が良い友人と離れるのに寂しい気持ちはあるけれどね」


 梨沙がまた右下に顔をそむけて最後の言葉を小さく言った。

 梨沙はもう進学先がほぼ決まっている。溟海の大学には音楽大学はない。それに日本に居る必要もない。

 彼女も特進の生徒だ。英語くらいは出来る。特進クラスは英検やTOEICやTOEFLなども受けさせられるのだ。

 英語の授業はネイティブのアメリカ人で授業は全て英語で行われる。それについていけない奴は特進に居られない。


「わかるよ」


 康太はそれだけ答えた。

 そして普通クラスに落ちても良いと言う梨沙を少し羨ましいと思った。康太には許されないことだからだ。

 篤と恵麻が居ない。それだけで教室のドアが重くなるのだ。そして康太はそこから逃げる事は許されない。ずしんと背中が重くなった気がした。


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