005.康太と篤
「梨沙ちゃん、もう良いわ。取り敢えずベッドに横になって少し休んで頂戴。今はまだ話せる段階じゃないものね。ゆっくりでいいの。私は早く真相を知りたいと思うけれど、貴女たちの傷はゆっくり癒やして欲しいと思っているわ。ね?」
「……はい。わかりました。ありがとうございます。お姉さん」
香織は梨沙を隣の寝室のベッドに案内した。泣きすぎて疲れたのだろう。高級ベッドはすぐに梨沙を眠りに落とした。
香織は梨沙の顔を温かい濡れタオルで拭ってやり、目が腫れてしまったので冷たいタオルを目の上に置いてあげた。これで少しはマシになるだろう。
「ごめんなさいね、梨沙ちゃんは疲れて寝てしまったわ。でも大丈夫。今日の夜までこの部屋は貸し切っているからね。さて、木島くんだったわよね。桐生くんについて話を聞かせて貰っても良いかしら」
康太はしっかりと頷いた。漸く自分の番だと言う表情をしている。
「もちろんです。あいつは俺の親友でありライバルです。あれほど気持ちの良い男は居ませんでした。唯一俺と肩を並べられる男でした。医者でも弁護士でも政治家でも何にでも成れたでしょう。事業を立ち上げたらきっと成功したと思います」
「あら、物凄く評価が高いのね」
香織は康太がはっきりと断言したことに驚いた。
康太は常に首席をキープする才媛だと言う。更に両親が大きな病院を経営していて自身も医者を目指していると聞いている。そこまでは恵麻から得られた情報だ。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ特進クラスと言う才媛たちが集まる仲で、中等部で三年間一度も一位を落として居ないというのは素直に凄いと思った。
香織の時代は三傑と呼ばれる三人の男女が常に一位争いをしていた。そして三傑には敵わないという共通認識があった。実際努力で三傑に勝とうとしたクラスメイトは居たが、敵うことはなかった。
しかし恵麻の時代では違う。康太一強なのだ。康太に敵うと思うクラスメイトは居なかっただろう。
「もちろんです。俺の一位の連続記録を奪い去ったのは篤ですから」
「あら、それは凄いわね。外部生だと聞いているけれどそれほど凄いの」
康太はしっかりと頷いた。強い瞳をしていると思った。本当に親友なのだ。そして強力なライバルと見做していた事がたった数言だけでわかる。
「あいつは外部生ですが高校入試で首席を取って入ってきました。溟海の入学試験は俺もやりましたがかなりの難易度です。満点取れたテストはありませんでした。しかし篤は満点が二つあったと言っていました。入学式で新入生代表を努め、しっかりと演説していました」
「あら、それは本当に凄いわね。私の時の首席入学者はおどおどとしていたわ」
香織は篤が思っていたよりも凄い人物であることに素直に驚く。
「香織さんは卒業生ですよね。だったら知っていると思うのですが高校に入るとすぐに実力テストがあります。俺は当然二位に差をつけてトップを取る気満々でした。もちろんそれだけの努力をしていました。それが当然だと思っていたのです。ですが篤は俺の後ろの席に座り、結果は勝ちましたがたったの一点しか差がありませんでした。愕然としました。俺が迷った二択問題で篤も同じように悩み、そして俺の二択は当たり、篤の二択は外れた。一位と二位の差はそれでしかありません。俺が当然だと思っていたトップは思わぬ所から追い上げられたのです」
「わかるわ。いきなりテストだものね。校内模試や実力テストの多い高校だものね」
香織は康太の言葉に頷く。自分の時も毎月のようにテストがあったものだ。中間、期末テストに校内模試、実力テスト、全国模試も基本は強制だった。夏休みや春休み、冬休みを除けば大体十ヶ月ほど学校に通うわけだが、年に十回以上テストがあったのだ。
「その後の中間、期末テストでは勝てました。しかし夏休みの全国模試では俺は負けました。校内順位は張り出されないのですが、全国の順位では篤の方が上だったのです。ショックでした。あいつは天才肌ではありません。秀才なんです。俺以上に勉強を積み重ねていました。その結果がこれです。塾にも家の事情で通えていません。家庭教師も居ません。それでも篤は先輩から参考書を貰ったり、図書館で勉強したりと、自力で高得点を叩き出したのです。俺は親が裕福なので塾も行っていますし家庭教師もついています。しかしそんな環境もなく、一人でもくもくと勉強をする篤に勝てませんでした。その後、校内順位でも負ける事がありました。二度目は流石にあり得ると思っていたのですが、周囲は全国順位で篤が勝った事を知らなかったので、クラス内で激震が走りました。俺の不敗神話が崩れたと話題になったほどです」
香織はゆっくりと頷き、続きを促した。康太はしっかりと香織の目を見てはっきりと言葉を紡ぐ。
「篤と仲良くなったのはたまたまです。名字が近いので出席番号順で俺の後ろに篤が座ったのです。そして外部生で首席合格。特進クラスの特待生も取っていました。凄い奴が入って来たと俺は思いましたが、特進クラスの外部生は三名居たので他の奴らはあまり気にしてませんでしたね。最初は入試の首席と言っても大したことはないだろうと言う評価でした」
「そう、偶然木島くんと桐生くんは出会い、そして仲良くなったのね」
香織は康太と篤が親友だと聞いたがまだ出会って二年も経っていない。康太の弁では篤への尊敬の念が感じられると香織は思った。
「そうです。俺は始めのうちは外部生の人たちともよく絡むようにしました。中学で外部から入って来て馴染めない奴らが居たのを知っていたので、積極的に篤や他の二人を内部生に溶け込ませるように行動しました。そうでないとクラスがギクシャクして、結局全体としてよくなくなるからです。実際三人の外部生が入ったと言うことは三人の内部生が落ちたと言うことです。溟海はそういうところは厳しいですから、友人が普通クラスに落ちてしまったことで外部生を疎外する動きもありました」
「わかるわ、私の時もあったもの」
香織は康太の働きを評価した。どうしても内部生と外部生に壁はある。何せ幼稚舎や小等部から一緒の者たちが多いのだ。既にグループはできあがり、クラス内カーストも決まってしまっている。
そんな中に外部から、しかも特進クラスに入学するのだ。歓迎するよりも排除する動きが強くなるのは仕方がない。何せずっと一緒だった友人が何人か弾かれるからだ。
しかし康太は篤を始め、外部生と内部生の溝を埋めようと動いたようだ。
不動の一位を取っていた康太の言うことならば他のクラスメイトも聞くだろう。
「篤が最初の実力試験で俺と一点差の二位につけた時、クラス内がざわめきました。そしてそこで初めて篤はクラス内で認められたのです。更に篤は学級委員も努め、他の外部生二人とも仲良くし、勉強を教え、内部生との壁も取っ払っていきました。俺はそのきっかけを作っただけに過ぎません。本当に凄いのは篤です。おかげでクラス内はまとまり、良い雰囲気が作り上げられました」
「そう、桐生くんは本当に凄い子なのね。外部生が学級委員になるなんてそうは聞かないわ。他に情報はあるかしら」
香織は続きを促した。篤に興味が出てきたのだ。篤は可愛い妹である恵麻を誑かした悪い男ではないと考えを改めた。梨沙も悪い事は言っていなかった。
少なくとも康太目線では彼の良い所しか言っていない。本当にそんな男であれば、恵麻が惚れてもおかしくないだろうと思った。恵麻は篤と同じ学級委員をやっていたのだ。
「沢山ありますよ。まず篤は母子家庭です。父親は小さな頃に病気で亡くなったらしいです。母親は昼はパート、夜も夜のお店で働いていたようです。篤の養育の為です。篤は塾に通うことも遊ぶこともできずに、幼少期から毎日図書館に通っていたそうです。そこで勉強の面白さに目覚め、母親が苦労していることに気付き、母親を将来的に楽させる為に溟海高校の特待生を取ったんです。後で調べて知ったのですが溟海高校の特待生は簡単に成れる物ではありません。面接、小論文、そして入試の結果を総合的に判断して出されます。当然親の収入や家庭環境も調べられます。そしてそれらの試練を突破して篤は入学してきたのです。親の金でぬくぬくと生きてきた俺とは全く違います」
康太は空を見上げるように上を向いた。篤の事を思い出しているように。泣くのを我慢しているように肩が震えていた。
香織は篤のことなどほとんど何も知らない。恵麻の事では泣けるが篤に関しては完全に第三者目線に立てる。だが康太に取っては親友の突然の死だ。受け入れるのは難しいだろう。
「凄い子だったのね。話を聞いているだけで伝わってくるわ。私の時代にそんな子が居たらまた違う高校生活になったんでしょうね」
「そうですね。篤が来てクラス全員のやる気があがりました。外部生になど負けていられない。うちのクラスは二位を取ったやつが実質一位だなんて言われていたんです。俺は孤独でした。その孤独を取っ払ってくれたのが篤です。同じ目線で話せ、更に俺の知らない世界で頑張って生きている。俺が篤の立場ならばどうだっただろうかと考えても、どう考えても篤のようには生きられません。故に篤が死んだ事が信じられません。ただ原因は少しわかります」
「あら、それはなにかしら。聞いても良い事?」
康太は少し躊躇った。だがゆっくりとコーヒーを飲み、心を落ち着けてから口を開いた。
「構いませんよ、……もう篤は居ないんですし、三条さんの死にも関連しているかもしれません。簡単に言えば篤のモチベーションは喪失したんです。原因は母親の死です。過労でした。うちの病院に運ばれた時はまだ元気そうにしていたんですが一週間もしない内に容態が急変して死んだんです。あいつのモチベーションは勉強を頑張って母親に楽をさせることです。しかしそのモチベーションが無くなってしまいました。篤のショックは如何ほどだったでしょう。想像もつきません。そしてそれを支えたのが俺と三条さんです。三宅さんも絡んで来ていました。あの時の篤は見ていられませんでした。いつ自殺してもおかしくないと思いました」
「そこで恵麻が絡んでくるのね」
香織は恵麻の名が出たことによってずいと体を乗り出した。
「はい、三条さんは同じ学級委員として、そして良き友人として篤を慰めました。そして篤はしばらくして立ち直りました。一度二桁の順位まで落ちましたが、次の試験では一位に返り咲いたのです。誰もが篤はもうダメだと見限っていましたが、また俺は負けました。しかも実力テストでです。それで、篤はもう大丈夫なんだと思っていました。生徒会選挙でもあいつは受かり、生徒会長にもなりました。三条さんも副会長として補佐していました。だから篤はもう大丈夫なんだと思っていました。篤は自分の感情を隠すのが上手い奴です。俺はあいつの悩みに全く気付きませんでした。あいつが死ぬまで気付けて居なかったんです。友人失格です」
康太は左下を向いて俯いた。話すのも辛いだろうにしっかりと話してくれた。康太は後ろを向き、ハンカチを取り出した。香織は見なかったことにした。その背中は震えていた。