004.香織と梨沙
「まずは梨沙ちゃんから話を聞こうかしら。死ぬ前の二ヶ月、恵麻の様子がおかしかったそうね。どうおかしかったの」
香織はまず梨沙に焦点を当てた。何せ心当たりがあると言うのだ。聞かない理由はない。
康太の話も聞きたいがそちらは後だ。康太もわかっているのかゆっくりとコーヒーの香りを楽しみながら黙って話を聞く体勢を取っている。
やはり躾けがなっている男は良い。自分の立ち位置がわかっている。それに頭も良いと言う。二人の話の邪魔はしませんと態度だけで言っているのがわかる。
「そうですね、あの事件の二ヶ月くらい前から恵麻の様子がおかしくなりました。何かを悩んでいるようで、笑顔も減りました。笑顔も愛想笑いのようで、『どうしたの、何かあった?』って聞いても『大丈夫よ、気にしないで。ちょっと調子が悪いだけだから』と言って答えてくれませんでした」
梨沙が神妙に、ゆっくりと答える。梨沙も恵麻の事を本気で思ってくれているのだ。それが彼女の表情を見ているだけでわかる。彼女もまた、香織と同じで恵麻の死を乗り越えられていないのがわかる。
「ひっく、恵麻は気丈に振る舞っていました。ですが私にはわかります。恵麻が強がっていることを。悩んでいることを。ふぐっ、でも話してはくれませんでした。自分で解決しようとしたんでしょう。そして解決できず、ああいう結末になってしまいました。ぐすん、でもその前はむしろとても幸せそうでした。なんでたった二ヶ月でああなってしまうのかは理解できません。だから私も恵麻がなんで死んでしまったのかを知りたいと思います」
梨沙は涙ながらに恵麻の事を話す。高校でも同じクラスに成れたこと。それは梨沙が努力して成績を維持していたからだ。
特進クラスは成績上位三十人しか入れない。名門である溟海高校の特進クラスは更に狭き門なのだ。卒業生である香織はそれをよく知っている。
そして香織も当然のように特進クラスに通っていた。成績は上位を維持していたが一位には一度たりともなることができなかった。大体十位前後をふらふらしていた思い出が蘇る。
今通っている溟海大学には高校時代のクラスメイトも居る。当然仲良くしている。何せ幼稚舎や小等部の時からの友人なのだ。内部生の結束は強い。もちろん外部生だった子の友達もいる。親友と呼べるかどうかは怪しい所だが仲良くしている。外部生は頑張って勉強をして入っているからか心が強い子が多い。違う世界を見て育ってきているので刺激になるのだ。
「泣いていいのよ。私だって泣きじゃくったんだから。そう簡単に悲しみを忘れ去ることなんかできないわ。おいで、お姉さんが胸を貸してあげる」
香織がそう言うと梨沙は香織の胸に飛び込んで泣きじゃくった。まだ高校生なのだ。親友の突然の死に耐えられる訳がない。香織ですら乗り越えられていないのだ。
葬儀など何の役にも立たない。生者が死者の死の区切りをつけるために葬儀を行うと言うがまだ恵麻が死んでからそれほど時も経っていない。そう簡単に忘れられる筈がないのだ。
梨沙は中学生から溟海に入ってきたそうだが、幼い頃からピアノの教室が同じでそこで既に恵麻と仲良くなっていたと言う。
恵麻と一緒の学校に通いたくて頑張って中学受験をしたのだ。
その話は恵麻から聞いたことがある。実際本邸に招くほど仲が良かったのだ。まだ高校生だった香織と梨沙は幾度か顔を合わせたことがある。恵麻に親友だと紹介され、ピアノの腕も披露された。プロに必ずなれると素人でもわかった。香織も教養としてピアノは齧っていたのだ。
(いっぱい泣きなさい。泣かないとやっていられないものね)
香織は梨沙を抱きしめながら、自然と自分も涙が流れてきた。梨沙の頭を撫で、背中を撫でた。そして梨沙と初めて会った時の事を思う。
香織の友人でもピアノをやっていた者は多いが物が違うと思った。本物の天才とはこういう人のことを言うのだと思い知らされた。天賦の才を与えられ、努力を欠かさずに優秀なピアニストに教わればこうなる。その典型的な例が梨沙だと思った。
恵麻のピアノも素晴らしいが、音色からして違う。たった一音でわからされた。
同じピアノなのに響き方が違うのだ。そしてさらりと難曲が多いと言うリストを楽譜も見ずに弾ききった。その後はショパンを聞かせて貰い、自然と涙が流れてきた。感動したのだ。その後も何曲か好きだという曲を披露してくれた。横を見ると恵麻はうっとりと聞き惚れていた。それが香織と梨沙の初めての会合だった。
今も鮮明に思い出せる。それほどのショックだったのだ。
(あのピアノはまた聞きたいわね。落ち着いたらお願いしてみようかしら)
中学生のピアノに感動して涙が流れてくるとは思わなかった。
梨沙はそういう子だ。香織もしっかりと認めている才女なのだ。
しかも才能にあぐらをかかずに努力も欠かさない。更に勉強までして特進コースに居る。
それだけでどれだけの努力が必要か想像も付かない。
香織も色々な習い事はやっているが本気で取り組んでは居なかった。どれもそこそこ止まりで本物の才能を見て諦めてしまった。華道と日本舞踊だけは未だに続けている。先生が素晴らしい方なのだ。書道は字を綺麗に書く為には必須だがそれなりに綺麗な字を書けるようになって辞めてしまった。おそらく康太も綺麗な字を書くのだろうと思った。
「うぐっ、ひっく。ごめんなさい。お姉さんの服を汚してしまったわ」
「いいのよ、こんなのはクリーニングに出せばいいだけの事よ。むしろ恵麻の為にそれだけ泣いてくれて嬉しいわ。愛してくれていたのね」
梨沙は泣きじゃくりながらも、香織の質問にはっきりと答えた。
「はい、今でも恵麻は私の最高の親友です。だからこそ、恵麻がもう居ないと言う現実に耐えきれません」
香織は梨沙をもう一度優しく抱きしめた。梨沙は落ち着いたのだろうが、やはり声が震えている。
「そうね、私もそうよ。可愛い妹なのよ。今もひょいと現れてくれないかと、『お姉ちゃん』と呼んでくれないかと思い返して涙が流れるわ」
「同じです。教室に行って恵麻の姿が見えないと言うだけで涙が流れてきます。そして恵麻はクラスの中でも人気者でした。桐生くんもです。未だクラスメイトたちは恵麻と桐生くんの喪失から立ち直っていません。お通夜のようです。鈴木先生は頑張って盛り上げようとしてくれていますが、どうにもなりません」
香織は鈴木と聞いてすぐに思い出した。生徒思いの良い先生だったことが思い返される。
香織の時代の担任ではなかったが、教育熱心で生徒にも人気がある数学教師だった。
「あら、鈴木先生が担任なのね。良い先生よね。でも鈴木先生でもどうにもならないわ。何せ貴女たちはまだ高校生なのよ。同級生を失って悲しまなかったら、それは人の心がないのよ。みんなどこかで心に傷を負ってしまっているわ」
香織がそう言うと梨沙と康太が同時に頷いた。
「はい、精神内科に通い始めているクラスメイトもいるくらいです。そのくらい恵麻と桐生くんを失われたことはショックだったのです。学校側も配慮しているのかすぐに二人クラスに補充されましたが、彼らは戸惑っています。クラスの雰囲気が暗いからです。事件の事は知っていても彼らは恵麻も桐生くんも知りません。故に当事者ではないのです。彼らはせっかく特進に入れたと言うのに馴染めずに居ます。悪いとは思いますが私たちにはどうしようもできません。きっとこういうのは時間が解決してくれるんでしょう。私はどれだけ時間が有っても解決できる気がしませんが」
梨沙の語り口から容易に想像できる。クラスメイトが二人死んだのだ。そう簡単に立ち直れる訳がないだろう。特に恵麻は幼稚舎から一緒の友人たちが山程居る。故にあれほどの同級生たちが、先輩や後輩たちですら恵麻の死に涙してくれていた。
「桐生くんも素敵な男子生徒でした。外部生ですが彼の事を悪く言う人はそうそう居ません。精々嫉妬をして悪口を言うくらいで、本気で嫌っている人はいませんでした。頑張り屋で、木島くんにも認められ、即座にクラス内に立場を確立しました。そして他の外部生である二人とも仲が良かったです。おかげでその二人はショックで学校が休みがちになってしまっています。他にもちらほらと勉強に身が入っていない生徒が居ます。来年のクラス替えではかなり人数が入れ替わるでしょう。私も恵麻が居ないのならば特進にこだわる必要はありません。普通クラスに移動してピアノを頑張ろうと思います。特進クラスは恵麻の匂いが強すぎますから」
香織は桐生篤という人物は悪い人物なのだと思っていた。
だがそうではないと梨沙は言う。
外部生が内部生に溶け込むのは容易ではない。それを為し、他の外部生たちを溶け込ませる手伝いをし、更にクラス内でも認められる。そう簡単な事ではない。
香織は篤が単純に悪いと考えていてしまったが、梨沙の供述を聞いてそうではないのではないかと考えを改めた。
◇ ◇
康太は二人の会話の様子を、一言も口出しせずにゆっくりと聞いていた。お茶やコーヒーの淹れ方くらいは基礎教養として習っている。故に空になったコップに新しいコーヒーを淹れてじっくりと二人を見ている。
香織と梨沙はそれほど面識がある訳ではないはずであるが、既にこの世に居ない恵麻という存在を介して既に打ち解けているように見えた。
梨沙は香織を慕い、頼っている。それほど梨沙は弱っているのだ。そして同じ様に弱っている筈の香織は気丈にも梨沙を慰めている。強い女性だと思った。
梨沙は泣きじゃくっているだけだが、香織の涙は美しい。恵麻の死を乗り越えている筈がないのに気丈に振る舞っている。そして年下の梨沙に気遣いもできる。流石だと思った。
(女同士の会話には混じれないな)
康太はそう思い、静かにしていた。まだ康太の番ではないのだ。それに梨沙から見た篤の印象も聞けた。友人が褒められたのだ。自身が褒められるよりも誇らしく思った。
康太も篤や恵麻の死に悲しんでいない訳ではない。だが男はそう簡単に涙を見せる訳にはいかない。彼女たちが涙しているので、つい康太も泣きそうになったがぐっと堪えた。そして涙が垂れそうになった時にはそっと後ろを向いてハンカチで拭った。
(篤、なんで俺に相談してくれなかったんだ。三条さんも三条さんだ。相談さえしてくれれば幾らでも力になってやれたのに。そんなに俺達が信用ならなかったのか? いや、篤はそういう奴じゃない。実際母親の時は俺を頼った。力になれなかったが、できる限りの事はした。あいつは自分の事となると自分で解決しようとする嫌いがある。それだけはあいつの欠点だな。人に頼ることを知らないんだ。そういう世界で生きていた人間だからな、仕方ないとも言えるけど、俺としては頼って欲しかった。死を選ぶくらいなら泣いて頼んで欲しかった。俺は両親に土下座をしてでもあいつの力になりたかった。だがもうあいつを助ける術はない。なんで俺は気づかなかったんだ。くそっ)
康太は既に居なくなってしまった親友と、長年苦楽を共にしてきたクラスメイトを思い、グッと腹に力を入れた。堪えても涙が零れ落ちそうだった。