003.喚び出し
「佐藤、恵麻のここ数年の動きと一緒に飛び降りた桐生篤と言う生徒の事を探偵に調べさせなさい。費用は幾ら掛かっても良いわ。しっかりした探偵事務所を使うのよ」
「畏まりました、香織お嬢様」
香織は実家に帰り、執事の佐藤に命令した。
佐藤も使用人たちもとても暗い表情をしている。恵麻が喪失されたことのショックに誰もが信じられないのだ。佐藤ですら普段は能面のように表情が変わらないのに、香織から見てもショックを受け、恵麻の死を悼んでいることがわかる。わかってしまう。
「ここは久しぶりね。変わりないわ」
本邸に来るのは久しぶりだ。梨沙は大学が少し遠い為に、都内のマンションを借りて一人暮らししている。タワーマンションの十階で4LDKの物件だ。
一人で暮らすには広いが、大学が徒歩圏内で大通りに面していてセキュリティがしっかりしているので選んだ。インテリアなどはコーディネーターに任せた。
「あの人は相変わらずね。ママはどうしているのかしら」
父はすぐさまアメリカに飛び立ったらしい。商談が途中だと言うのだ。今どきネットで幾らでも会議などできるだろうと思うが、やはり直接会うのでは違うのだと言う。実際に顔を見て話し合い、握手やハグが親密性を上げると言うのだ。
香織はそういう物かと思うばかりだが、やはり直接会って話をする大切さはわかる。恵麻に会えなかった時はビデオ通話をしていたが、やはり実際に会うのとは違う。
だが葬儀が終わり、涙も見せず、娘である香織に話しかけもせずに一人飛び立つのは父親としてどうなのだろうと思ってしまう。
母は仕事をキャンセルして引き籠もっていると言う。母に構っている暇などはない。香織は香織の考える通り動くだけだ。
「まぁいいわ。私は勝手にやらせてもらうから。幸いカードは好きに使って良いって言われているしね」
香織は上限なしのカードを渡され、好きに使えと言われている。ただし当然使い道は監視されている。
服や鞄、アクセサリーなどはパーティに必要なので家の金で買って貰っている。香織は無駄遣いする性質ではない。普段は二十万か三十万もあれば十分だが、このカードを有効活用させる時が来たかと思う。
探偵の相場などは知らないが、一流の探偵会社はそれなりの値段を取るだろう。しかし月に一千万円掛かるとも思えない。何せたった二人の動向を追うだけなのだ。
佐藤に命じたので佐藤は家の資産から出すだろうか。そのくらいの裁量は佐藤にも与えられている。できないのならば香織のカードを使えば良い。どっちみち貯蓄はかなりある。そこから出しても良いのだ。
「ここが恵麻の部屋ね。久しぶりに入るわ。私が大学に入ってからは月に一回くらいしか本邸に帰れなかったものね」
佐藤から恵麻の部屋の鍵を預かり、香織は恵麻の部屋に入る。
綺麗に整頓されており、大きな勉強机がある。その近くの本棚には教科書や参考書が並んでいる。鏡台もある。
更に別の棚には趣味の小説やバレエ、ピアノ、書道の本なども並んでいる。他にもぬいぐるみなどが飾られている。香織が誕生日に送った物も綺麗においてある。
壁には恵麻が好きだったバレエダンサーのポスターが張ってある。美しい白い衣装を着て踊っているポスターだ。
他にもバレエ公演の映像メディアや、高級で謳われる電子ピアノが設置されている。もちろん恵麻専用の防音室にはきちんとしたピアノが設置されている。
部屋にはまだ恵麻の匂いが残っている。すぐにでも「お姉ちゃん、どうしたの」と恵麻が声を掛けて来そうだと思った。そしてそれがもう金輪際ないことに気付き、香織は涙した。
「恵麻、なんで死んじゃったの。死んじゃったら何にもならないじゃない。お姉ちゃんに相談してよ。私はそれほど頼りなかったのかしら。何が貴女をそれほど追い詰めたの。ねぇ、教えてよ、恵麻」
香織は前訪れた時と全く変わらない恵麻の部屋で膝から崩れ落ちた。床に涙がこぼれ落ちる。両手で顔を覆う。しかしそれでも涙は止まらない。
ここには名残はあっても恵麻の姿だけがない。もう「お姉ちゃん」と呼ばれることはないのだ。声を上げて泣いた。
恵麻が死んだなど何かの間違いで恵麻がひょいと現れないだろうか。それとも幽霊でもいいから出てきて欲しいと思った。
ここ数日恵麻の夢しか見ていない。幼い頃の恵麻、「お姉ちゃん」と常についてきた可愛い妹。小学生になり、中学生になり、高校生になってもそれは変わらなかった。
「あぁ、恵麻。お姉ちゃんは信じないわ。誰が貴女を追い詰めたのか。桐生篤。彼は一体誰なのか、絶対真実を突き止めてやるからね」
香織はひとしきり泣くと決心を言葉にした。
香織と恵麻は冷え切った家族関係の仲で最も親しい家族だったのだ。
実際恵麻は何か悩みがあれば必ず香織に相談してくれた。しかし今回はそれがなかった。
親友である梨沙すら理由はわからないと言っていた。だがこの二ヶ月で何かがあったのだ。それは間違いがない。
しかしその二ヶ月だけではダメだ。高校に入ってからの約二年間。恵麻の行動を全て詳らかにしなくてはならない。そうでなくては香織は前に進めない。
そして渦中の人物、桐生篤だ。彼がどういう人物だったのか。恵麻とどういう関係だったのか。家庭環境は? 性格は? 見た目は? 気になって仕方がない。彼が居なければ恵麻は死ななかったかも知れないのだ。
ただ恵麻は彼の事を褒めていた。恵麻から篤の名を聞いた時はそれほど多くはないが、称賛の言葉しか聞いたことがなかった。
そういえば最近は恵麻から篤の話を聞くことがなくなった。それも関係があるのかも知れない。
「きりゅう、あつし」
香織は篤の名を親の仇のように声に出した。
◇ ◇
「香織さんに呼び出されたけど何だろう。知っている? 三宅さん」
「いいえ、知らないわ。でも恵麻関連なことは間違いがないわ。そして木島くんは桐生くん関連でしょう。こんな高級な場所に呼び出されるとは思わなかったわ。緊張してきちゃった」
「俺はよく使うよ。ホテルのラウンジなんてちょっと金を払えば個室も借りられる。他の人に話も聴かれないし、良い場所だと思う」
康太と梨沙は香織に二人して呼び出されていた。そして場所はホテルのラウンジだ。柔らかいソファとテーブルがあり、待っている二人は香り高いコーヒーを飲んでいる。
康太は慣れているが中流階級の出である梨沙はこういう場所は慣れないだろう。だが三条家は有名な家だ。その香織が呼び出すならこういう場所になるだろう。ラウンジには借りられる個室もあるがホテルに部屋が取られていてもおかしくないと康太は思っていた。
「お待たせしちゃってごめんなさいね。二人とも。時間には遅れていないと思うのだけれど」
「えぇ、まだ十分前です。俺たちが先に着いちゃっただけですよ。気になさらないでください」
「はい、気にしないでください。お姉さん」
梨沙は畏まっている。緊張がまだ解けないのだろう。
「じゃぁ部屋を取ってあるから移動しましょう。ここでも良いのだけれどせっかくだから部屋で話しましょう。ラウンジの部屋は狭いわ」
康太はラウンジの部屋を狭いとは全く思わなかったが、香織は当然のように部屋を取っていた。康太と梨沙はまだ熱いコーヒーをぐいと飲み干し、彼女についていく。
そこはかなり広い部屋だった。リビングと寝室が別れており、リビングには三人で使うには大きすぎるテーブルと椅子がある。ソファセットに大きなTV、リビングと言うよりも応接間と言う感じだ。
ただ康太はこのホテルは来た事があったので知っていた。緊張しているのは梨沙だ。初めて入るのだろう。その広さに驚いている。
これでもスイートではない。スイートはこの倍以上の広さがある。ただ三人で話すにはそれほどの広さは必要ないだろう。だが香織としてはスーペリアが最低ラインなのだろう。最も小さな部屋を使うと言う感覚がないのだと推察された。
それは康太も同じだ。もし康太が部屋を取るなら同じ部屋を取ると思った。
「失礼します」
康太たちが部屋に入って五分もしない内に給仕がワゴンを持ってきた。どうやら三人分の昼食を奢ってくれるようだ。高級な中華だ。美味しそうな匂いがする。同時に鉄観音が淹れられる。中華料理と鉄観音の香りが部屋に漂う。
「もう良いわ。茶器だけ置いていって頂戴。自分でやるわ」
香織が言うと給仕は部屋から下がっていった。
「ここの中華は美味しいの。奢りだから遠慮せずに食べて。まずは食事をしましょう。お腹を膨らまさなければゆっくり話もできないわ」
康太と梨沙は香織の言う通りにゆっくりと食事をした。香織の所作は美しく、非の打ち所もなかった。流石恵麻の姉だ。しっかりと躾けられている。三条家の教育レベルがわかる。
同レベルの教育を受けている康太はやはり美しく食べた。しかし梨沙は慣れていないのか多少覚束ない。しかし品のなさは感じない。恵麻に教わっていたのだろう。
料理の美味しさには敵わないようで、エビチリに舌鼓を打っていた。康太は青椒肉絲が美味しいと思った。
香織は辛いのが好きなのか麻坊豆腐を好んで食べている。そして淹れられた鉄観音は康太が好んで飲む銘柄とは違ったが、最高級の茶葉であった。香り高く、梨沙などは一口飲んで驚いていた。コーヒーの時も驚いていたので少しおかしく思い、笑った。久々に笑った気がした。
香織がホテルの受付に電話を掛けると即座に給仕が現れてワゴンに食器などを片付け、茶器だけが残される。鉄観音だけでなく、紅茶やコーヒーを淹れるセットだけが残され、三人に希望を聞かれ、給仕は指定されたコーヒーや紅茶を淹れてからワゴンを手に去っていった。
「ふぅ、満腹よ。ごめんなさいね。貴重な土曜日に呼び出してしまって。私も大学があるからなかなか時間が取れないの。二人に用件の説明は必要ないわよね。恵麻の普段の学校の様子とここ二ヶ月の様子。そして恵麻と一緒に飛び降りた桐生篤くんと言う男子生徒について詳しく教えてほしいの。梨沙ちゃんは恵麻の親友だと聞いているし何度か会っているわね。そして木島くんは彼の親友だったそうね。だから呼び出させて貰ったのよ。これから何度か呼び出してしまうかもしれないけれど許してくださいね。恵麻の死の真相を本気で知りたいの」
香織の瞳は本気だった。康太も同じ気分なので、頼もしいと感じた。
康太は奢ってもらった礼を言い、自分の目的にも適うので問題ないと言い切った。
「はい、ごちそうさまでした。俺も親友の篤の死の理由を知りたいです。そして三条さんと同時に死んだと言うことは必ずあの二人が絡んでいると踏んでいます。篤の死の真相を暴けば、三条さんが何故死んだのかも同時にわかると思います」
「ごちそうさまでした。美味しかったです。久々にご飯の味がした気がします。私も恵麻がなんで死んだのか。何に追い詰められていたのか知りたくて仕方がありません」
康太が答えると香織はゆっくりと頷いた。梨沙はまだ悲しそうにしている。ご飯の味もわからないくらいショックが抜けきっていないのだろう。
「そうね、二人の死は完全にリンクしていると私は見ているわ。木島くんの目的と私や梨沙ちゃんの目的は別でしょうけれど、結論を先に言えば必ずどちらかの謎が解ければもう一つの目的も達せられるでしょう。私達は同志であり、協力者よ。当然協力してくれた見返りも渡させて貰うわ」
「そんなっ、見返りなど僕は要りません」
「あの、私も……」
康太と梨沙がそう言うが決定事項のようだ。香織から封筒を渡される。中を見ると五万円が入っていた。交通費にしても幾らなんでも多すぎる。何せここは高校からそう離れていない場所のホテルなのだ。電車で一本である。数百円しか掛かっていない。
だが康太は勉強時間を削ってこの場所に来ている。梨沙もピアノの練習があるはずだ。もちろん勉強もしなくては特進クラスには居られない。その時間を奪う料金なのだろう。
「三宅さん、素直に受け取っておこう。これは俺たちの時間を三条さんのお姉さんが買った料金なんだ。突っ返しても絶対に受け取ってくれないよ。要らなければ募金箱にでも投げてしまえばいい」
梨沙は戸惑った後で素直に頷いた。そして封筒を大事に鞄に仕舞う。康太も同じように封筒を鞄に仕舞った。
「いえ、わかったわ。私の勉強時間やピアノの練習時間のお代なのね。買いたいスコアは沢山あるの。うちは木島くんたちほど裕福じゃないからね。自分の為に使わせて貰うわ」
「えぇ、好きに使って頂戴。毎回渡すから貯金しておけば良いんじゃないかしら。倍払っても良いわよ。梨沙ちゃんは留学するんでしょう。英語でもフランス語でもドイツ語でも習う勉強代に使えば良いじゃない。もし良かったら良い教師も紹介するわよ。留学も費用が足らなければ私が援助するわ。恵麻の親友なのだから」
香織が背もたれに背を預けて言う。康太は五万円程度では特に何かが欲しいと言うことはないが、梨沙には大金だろう。
留学するのであれば語学は大事だ。そして金が掛かる。月に一回呼び出されるとして毎回五万円貰えれば助かることだろう。
「そうですね。声が掛かっているのはフランス、ドイツとウィーンなので、フランス語とドイツ語は勉強しています。当然英語もです。できないと海外ではお話になりませんから。そしてうちの家計を圧迫しているのは事実です。有り難く頂戴します」
梨沙が頭を下げる。
「それじゃぁ本題を話しましょう。二人とも、今日は悪いんだけれど一日時間を取って貰うわよ。私はさっさと恵麻が死んだ真相を知りたいの。だから嘘は交えず、誠実に答えて頂戴ね。梨沙ちゃん、フランス語やドイツ語の教師ならネイティブで良い教師が居るわ。オーストリア語でもいいわよ。後で紹介状を書いて上げるわ。その人に習いなさい。月五万あれば十分習えるわ。そこらの日本人教師になんて習ってはダメよ」
「わかりました。お願いします」
梨沙が丁寧にお辞儀をする。
「いいのよ、私の我儘で将来のある若者の時間を奪っているのですもの。このくらい当然だわ」
香織はそう言って誰でも知っている有名ブランドの鞄から大きなノートとやはりブランドのボールペンを取り出した。