020.それぞれの未来
「恵麻、私は今ウィーンにいるわ。天国まで私の音色は聞こえているかしら?」
梨沙は恵麻の写真に語りかけた。
梨沙は結局、高校卒業後、音楽の都、ウィーン国立音楽大学に留学していた。
パリのコンセトバトワールとどちらにしようか迷っていたが、教えてくれていたピアニストの先生がこちらを推したのでウィーンを選んだ。先生の恩師が今教授をしていると言うのが理由だ。
梨沙は今、先生のコネでその恩師の授業を受けることが許されている。通常ならば世界的に有名なピアニストであったブラシウス教授の授業を受けるのは非常に競争率が高い。音楽後進国である日本人がその授業を受けることはあまりない。
オーストリア語の勉強も香織が援助してくれたので一通り話せるようにはなった。まだ拙いが、それでも音楽用語は世界共通だ。
日本語に訳された音楽論の本はできるだけ持ち込んでいて、今はせっせとオーストリア語やフランス語で書かれた原書と辞書をにらめっこしながら理論も学んでいる。
オーストリアに渡って梨沙は日本の音楽教育と欧州の音楽教育の差を思い知らされるばかりではあるが、梨沙のピアノはウィーンでも通用していた。
先生の恩師であるブラシウス先生は素晴らしく、梨沙の世界を一つも二つも広げてくれ、そして梨沙のピアノは一段も二段も上達した。
日本に居た頃では考えられない生活だ。何せ音楽の事だけを考えていれば良いのだ。梨沙に取っては楽園としか言いようがない。
親友である恵麻がこの世に居ないことだけが棘としてまだ心を苛んでいるが、それも音楽へと昇華させてピアノを弾いている。
『素晴らしいですね、梨沙。また腕を上げましたね』
『ありがとうございます、ブラシウス先生。今回はかなり叙情的に弾いて見たのですが如何でしたか?』
『えぇ、良かったですよ。でもここの部分はもう少しこうやって弾くと良いでしょう。聴衆に貴女の想いが届きやすくなると思いますよ』
ウィーンでの生活費も芸術家を支援する財団によって援助されている。返済義務はない。だがいずれ梨沙は世界に知られるピアニストとなって、後輩たちに自分が得たピアノの世界を教え、中流家庭以下に生まれた子たちにも援助できるようになると誓っている。
梨沙の両親は梨沙のピアノの夢を応援してくれ、かなり無理をして授業料や防音室、ピアノまで用意してくれた。教えてくれていた先生も梨沙の授業料はかなりまけてくれていたと後で知った。おかげで今の梨沙がある。
だが才能があってもピアノを弾く機会がない子。お金がなくて断念する子。そもそも家にピアノを置けない子。様々な理由で音楽の世界に身を置くことが許さない子供たちがいる。
そういう子供たちに梨沙は自身の音楽を届け、ピアノでもバイオリンでもサックスでも良い。音楽の素晴らしさを教え、導きたいと願う。
恵麻は謙遜していたが彼女も十分素晴らしい弾き手だった。恵麻の音を梨沙は好きだった。
実際梨沙のスマホには恵麻の弾いたピアノの旋律がまだ残っていて、悲しい気持ちになると恵麻のピアノを聞いて癒やされている。
ピアノの腕だけで言えば梨沙の方が上だろう。だが梨沙のピアノの音は恵麻から貰った物だ。幼心になんて素敵な音を奏でる子だろうと憧れたのだ。そして恵麻の音を真似するようになった。それが今の梨沙にも受け継がれている。
恵麻は他の習い事や勉強が忙しく、ピアノだけに専念できなかった。梨沙は勿体ないと思ってしまうが、恵麻はそれはそれで幸せそうであったのでそれで良い。
全員が全員ピアニストを目指す必要性はないのだ。恵麻はピアノを弾かなくても素晴らしい少女であった。
所作の美しさも、字の美しさも、バレエで培った体幹で立ち姿すら美しかった。総合力では梨沙は恵麻に及ぶべくもない。
ただ一点突破でピアノだけに取り組んだので、梨沙はそれだけ上達しただけだと思っている。
「木島くんはどうしているのかしら。今度連絡を取って見ましょう。香織さんにも連絡が取りたいわ。次の夏には日本のガラコンに呼ばれているので会いたいわ。今度は楽しいお話をしましょう。そして恵麻のお墓を参るの。桐生くんのお墓も参らないとね。だって恵麻が愛した人なんだもの」
借りているアパルトメントに帰り、電子ピアノの前に立つ。アップライトのピアノもあるが、この電子ピアノは恵麻の使っていた物だ。
香織が良い物だから使ってくれと形見分けしてくれたのだ。梨沙は作曲する時は常に恵麻の事を考え、恵麻の使っていた電子ピアノを使って作曲している。
ちょっと詰まったのでクライスラーの愛の喜びを弾いた。
「恵麻、私もう明るい曲も弾けるようになったのよ。私のピアノで世界中の人たちを笑顔にしてあげるわ。だって元々は恵麻の音なんだもの。だから誰にも負けないわ。三宅梨沙の名を日本だけじゃなく、世界に知らしめて、恵麻の音は凄いでしょうって見せつけてあげるの。私はやるわ」
梨沙は恵麻の残してくれた音と電子ピアノの前で、恵麻と篤を想う曲を書き上げた。
◇ ◇
「篤、もう一年以上経つんだな。いつ来ても俺はお前の事を思い出すよ」
今日は篤の月命日だ。毎月康太は篤の墓を参っていた。篤が慕っていた母親の骨壺も同じ墓に入れてある。これから恵麻の墓も参るつもりでいる。
梨沙や香織、他のクラスメイトや生徒会で一緒だった者たちもたまに参りに来ているようで、掃除はきちんとされているし、花が置いてあることもある。
今日は康太の番だ。誰か来ていたのか既に掃除がされ、花が飾られている。篤の事を想い、そして持ってきた花を飾る。
篤が天国で恵麻と幸せになっている事を祈る。
「俺は頑張っているぞ。天上からきちんと見守ってくれているか? 篤。三条さんと幸せにしているか? お前なら絶対に天国にいるはずだ。俺はそう信じる」
康太は結局あの後一度も学年一位を譲らず、常にトップであり続けた。医学部の推薦も取った。今は溟海大学医学部一年生だ。
あと五年間と少し、頑張れば幼い頃からの夢だった医者になる事が叶う。康太の夢はまだ一歩が始まったばかりだ。医者になり、患者を助け、そして両親の経営する病院の経営に関わる。そしていずれ継ぎ、自身の子にも継がせる。一生を掛けて行わなければならない大事業だ。
だがそれも苦にはならない。昔からそれを目指していたのだ。更に篤に背中を押されている気さえする。モチベーションは常に高く持っている。
「あいつなら何をしていたのかな」
篤が生きていたらどうしていただろう。法学部にでも行っていただろうか。それとも商学部だろうか。
篤なら弁護士でも会計士でも在学中に試験を突破し、大学を中退して即座に仕事についていた事だろう。
篤の夢を考えるならば医学部や薬学部は拘束が厳しい。六年間も篤は待てなかっただろう。そういう意味で、篤ならば医学部推薦も取れただろうが篤は選ばなかっただろうと康太は考える。
だがモチベーションの根幹となっていた篤の母はすでに亡くなっている。篤が急ぐ必要性は無くなったのだ。故に康太が誘えば、篤も康太と同じ医者を目指してくれていたかも知れない。
溟海大学の医学部は授業料も高いが、成績が良ければ免除される制度がある。その分卒業後には溟海大学付属病院に勤めなければならないが、その契約が終わった後に康太の両親が経営する木島病院に誘えば良い。
一緒に経営を手伝って貰うと言う手もある。理事会に誘うのだ。そんな未来もあったかも知れない。そう思うと涙が流れてくる。
「あぁ、そんな夢想に浸ることくらいは許してくれるよな、篤。そして三条さん」
篤ならば外科医でも内科医でも日本に名を轟かす名医になったであろう。康太はそう確信する。
篤は器用な男だった。ボーリングやビリヤードの例を見ても、優れた他人から技を盗むのが上手いのだ。
「あいつなら俺よりもよっぽど良い医者になれる。父親も母親も亡くしているからな、あいつが医学を学べばより多くの患者が救えただろうな。ふふっ、目に見えるようだ。先生と呼ばれ、多くの患者が慕う名医。桐生篤の名は日本中に轟いただろう。もしくは研究者となって現在難病とされている病気の治療法を編み出していたかも知れないな。あいつには無数の未来があった。三条さんとの不幸さえ無ければ、幾らでもチャンスを手に取ることができた。惜しいな、俺はお前と一緒に働きたかったよ。そして高め合い、より良い医術を編み出したかった。医者でなくてもいい、どこの業界でも桐生篤の名をどこかで聞く機会は幾らでもあっただろう。だがそんな未来よりもお前は三条さんを選んだんだな。愛は深いな、俺にはまだわからん」
優秀な外科医や内科医に教えを受ければ、すぐに頭角を現すに違いないと確信する。康太よりも余程有名な医者になれたに違いない。
難しいとされる麻酔科医も良いかも知れない。
経営にも興味を示していたので、篤がサポートしてくれていれば木島病院も安泰だ。
そんなあったかも知れない未来を夢想しながら、康太は墓に祈った。
篤と共に同じ医学部に通い、競い合いながら医術を学ぶ。そして篤の母親のように不幸にも病に掛かってしまった患者を多く救うのだ。
篤と康太ならそれを必ず成し遂げられた。そう思う。
「また来るよ。だからたまには声を聞かせてくれよ。じゃぁな、篤」
康太はそう言って、両親に願って建てて貰った墓を去った。
◇ ◇
「パパ、残念だけれど貴方にもう三条家の家督を継ぐ権利はないわ。会社もそのうち明け渡して貰うわよ」
香織は全く変わらない恵麻の部屋でそう言い放った。三条グループの一つ、三条コーポレーションはまだ健在であるし、父は社長として君臨している。
だが三条家の家督は父でなく香織が継ぐことになった。祖父に紹介して貰い、きちんとした家の出の、しっかりした婚約者も見つけた。
間違っても父のような傲慢な男ではない、謙虚だが芯のあるしっかりした男だ。
香織の野望も既に話している。恵麻の事を話すと理解はしないが応援はしてくれると言ってくれていた。
大学も卒業し、婚約者も居る。当主の祖父の支援も受けている。香織に隙はない。
香織は祖父や祖母に恵麻が死んだ真相をリークしたのだ。そしてそれには父の家庭を顧みない性格と、傲慢であった父が原因だと香織は断言した。
三条家の現状を佐藤にも証言させ、母は父の言いなりであり、父は年の半分は日本に居らず、多くの愛人を外国に作っている。更に子までできていた。香織はあの後、ずっと父の事を調べていた。探偵も改めて雇った。
父はうまく隠していたが、隠しきれる物ではない。
流石にそこまで証拠を見せられれば祖父も父を後継者に指名する訳にはいかない。三条家の名に傷が付く。
香織は祖父を脅したのだ。父を三条家の当主にするならば、父の悪行を全てマスコミにリークすると。
三条コーポレーションの名も三条の名を取り外させるように誘導した。それはいずれ叶うだろう。
何せ祖父は三条コーポレーションの大株主である。代表取締役である父ですら祖父には敵わない。祖父と、祖父の友人である富豪たち。彼らが三条コーポレーションの株の過半数を握っている。
祖父が一声掛ければ父を解任することすら可能なのだ。そしてその後釜として香織が座る。
あとたった数年の我慢だ。
「ふふふっ、十年後、いえ、五年で私がこの会社も手に入れてやるわ。見ていなさい。恵麻を私から奪った罰を与えてあげるわ。絶対に叶えるんだから。会社なんて潰してしまっても構わないわ。大きくなったら海外の投資家にでも売り払って仕舞えば良いのよ。さぞ良い値で売れるでしょうね。でもパパには一銭も渡さないわ。ママの実家の援助があるからそれで暮らして行きなさい。パパはもう三条家には居場所がないのよ。パパの天下もあと数年の命よ、今のうちに精々謳歌して置くことね」
香織は何食わぬ顔をして三条コーポレーションに入社した。秘書の資格も取り、今は重役の秘書をやっている。父は何も疑っては居ない。
香織が代表取締役社長の娘であることは誰もが知っている。大株主の孫であることすら知られている。秘書をしている重役ですら香織には頭が上がらない。
香織は経営を重役たちから学び、更に現場で働く者たちの意見も汲み上げ、三条コーポレーションを大きくすることに注力した。今はまだ雌伏の時だ。
そして父が絶頂の時に、その座を奪うのだ。それが香織の復讐である。
最愛の妹と、そしてその恵麻が愛した篤。その二人を殺したのは父が元凶だ。
ならば父が築いた全てを奪ってやろう。其の為に在学中の二年、本気で経営の勉強をしてきたのだ。心理学は放棄し、本格的に経営学を学ぶことにし、勉強もそちらに傾注した。心理学は幸い二年でほとんど単位は取り終わっていた。ゼミと論文さえ書けば卒業はできたのだ。残りの時間は経営学部の授業を受け、専門書を読み漁った。
そして父の素晴らしさを知った。確かに大を為すに足る才覚はあるのだろう。
だが家庭を持つ親としてはどうか。失格どころではない。落第だ。
妹を失った姉は強いのだ。香織は不敵な笑みで笑い、秘書についている重役が青い顔をして香織の笑みを見つめていた。
「香織お嬢様、何か楽しいことでもあったのですか」
「赤星専務、私のことは三条くんと呼んでくださいと何度も言っているではないですか」
「しかしっ」
「しかしもかかしもありませんわ。私はただの秘書。そして貴方は代表権も持つ専務取締役でしょう。しっかりしてください」
「はいっ」
香織は黒塗りの車の中で高級なスーツでビシッと決め、いずれ来る未来を夢想して笑った。鞄の中にはこっそりと恵麻が大事にしていたチャームが入っている。傷一つつかないようにフィルムで覆っている。
その笑いは隣に座っている専務が青褪めるほど冷酷な笑みだった。
(恵麻、見ていて。貴女は桐生くんと出会えて幸せになったのよね。でもその幸せの続きを貴女に与えて上げられなかった報いは必ず受けさせるわ。優しい恵麻は復讐なんて一つも望んで居ないでしょう。父が失脚しても喜びすらせずに、きっと桐生くんと幸せに過ごしているに違いないわ)
香織は快晴の空を窓から見上げる。きっと天上から恵麻が見守ってくれているだろう。
(でもこれは私の自己満足なの。許してね、汚いお姉ちゃんで。私も良いお姉ちゃんでずっと居たかったわ。でももう私も変わったの。女の子を産んだら恵麻と名付けるわ。そのくらいはいいわよね。ね、恵麻? きっと良いお母さんになるわ。父や母のような娘に興味を持たない親にはならない、絶対よ)
香織は天国の恵麻に語りかける。毎日のように恵麻の写真を見、恵麻のピアノの音色を聞く。今でも泣きそうになる事がある。
だが香織には人生を遂げてやるべきことがある。やりたいことも幾つもある。復讐はその一つでしかない。婚約者と温かい家庭も作りたいし、日本舞踊も辞めて居ない。香織が幸せになることを恵麻は喜んでくれるだろう。其の為の努力を惜しむ気は全くなかった。
雨が上がり、雲に晴れ間が見え、天使の階段が見える。それはまるで香織を祝福しているようだった。




