019やるせない気持ち
「はぁ、やりきれないわ」
「本当にそうですね。三条家がそんな酷い家だなんて知りませんでした」
「身内の恥だもの。妾の子までいるのよ。外に漏らす訳がないでしょう」
「そうでしょうね。木島家でも同様に隠すでしょう。うちは隠すようなことはしていませんが。それに交際についてもうるさく言われたことはありません」
「羨ましいわ。良い家に生まれたのね」
香織が大きくため息を吐き、康太と話すのを静かに梨沙は聞いていた。梨沙も同じ気持ちだ。そして康太も同じようにやりきれないと言う表情をしている。本気で落ち込んでいる。梨沙は涙が出そうになってきた。
恵麻の苦しみを思えば自分はなんと恵まれているのだろうと。
例え梨沙が愛する人と愛を交わし合い、間違えて妊娠してしまったとしても三宅家の両親は一時的に怒るかも知れないが仕方がないと受け入れてくれるだろう。それだけの両親への信頼がある。篤の相手が梨沙であれば、もしくは他の女子であればなんとかなった可能性は高い。
「まぁどこの家もそれなりに問題はあるんでしょうけれどね、交際と言う意味では三条家に自由なんてないわ」
香織は他にも色々と三条家の実情を赤裸々に語ってくれた。
そして三条家に恵麻の妊娠を受け入れる土壌はないことだけはわかった。それどころか二人が付き合うのも必死で隠す必要があったこともわかった。
たったそれだけの話だ。故に二人は死を選んだ。
梨沙には想像もつかない世界だった。そして恵麻はその中に居ても朗らかに、いつも明るく振る舞っていた。なんと気丈な子だろうと改めて思った。
恵麻が普通の家に生まれていれば、もしくは篤がもう少し良い所に生まれていれば違った結末が待っていたのだろう。
しかしそれは許されなかった。
(はぁ、恵麻。なんで教えてくれなかったの。力にはなれなかったかも知れないけれど、こんな素敵なお姉さんがいるじゃない。たった一言「助けて」って言えば助けてくれたわよ。桐生くんもそうよ。木島くんは頼りになる人だわ。たった一言「助けてくれ」と言えば木島くんは必ず桐生くんの助けになったはずだわ。でもそれが言えないのが二人なのよね。付き合いが長い私にはわかるわ。お姉さんもわかっているでしょう。木島くんもそれがわかっていて、だからこそやりきれない。割り切れない。真実が明らかになったとしても、私の哀しみは一つも癒えないわ。私は一生恵麻を失った哀しみを背負って生きて行くのね。いいわ、恵麻。天国で見ていて頂戴。貴女から貰った素晴らしい音を全世界に届かせるから)
梨沙は誓った。天国の恵麻にまで届くような音を響かせようと。ピアニストである自分にはそれしかできないのだ。
結論を言えば、篤と恵麻は愛し合っていた。そして事故として子供ができてしまった。そしてそれを誰にも言えなかった。それには三条家の事情が絡んでいた。
中流階級の出である梨沙には理解できない世界だ。
だが香織はそれが当然のように言っているし、康太も同意している。
それに他のクラスメイトにも同様にお見合いの話があったり許嫁が居たりと、上流階級の人たちは大変なんだなぁと思っていたが、その大変な事情で梨沙の親友の恵麻と、外部生であるにも関わらず頭角を現し、クラスも生徒会も纏めていた篤が死んだのだ。
(どこか他人事だと思っていたのは否めないわ。でも実際は違った。身近なことだった。恵麻が三条家の令嬢な時点ですでに私はその世界に片足を突っ込んでいたのね。今更気付くなんて、私、なんて馬鹿なんだろう)
全然他人事ではなかった。むしろ恵麻の親友である梨沙に取っては対岸の火事として見ることすらできない。会ったこともない恵麻の父親に梨沙は恨みを向けたくなった。
恵麻や香織の父親がちゃんとしていれば、娘に愛情を向けていれば、娘の言うことを聞くだけの度量を持ち合わせていればこんな悲劇は起きなかったのだ。
(はぁ、恵麻と桐生くんが居ない教室なんて虚無だわ。私は先生に言って来年は普通クラスに落として貰いましょう。理由を説明すれば鈴木先生ならわかってくれると思うわ。それにピアノに専念したいから特進から外れたいと言えば学校も文句を言えないはずよ。そうね、それがいいわ。成績だけだとまた来年も特進になってしまうかも知れないもの。恵麻と桐生くんが効率的な勉強の仕方を教えてくれてしまったものね。外国語の勉強には役立っているからいいのだけれど……もうあそこはいいわ。だって恵麻も桐生くんも居ないのだもの)
梨沙から見ても篤は凄い人間だった。ピアニストとして成功している自分ですら敵わないと思った。芯の強い、自分を持っている人間だった。
もし篤が幼い頃からピアノを習い、本気でやっていたならば梨沙すら敵わないピアニストになったかも知れないと本気で思っている。結局はベクトルの違いなのだ。康太は医学を極めようとしている。どこの世界で頑張るか、それだけの違いだ。
そして篤のモチベーションは母親と恵麻にあった。ならば何にでも成れるだろう。才能などなくとも、篤ほどの人間であれば努力で才能の壁を乗り越えてしまうかも知れないと本気で思った。
(私なんかちょっと才能に恵まれただけなのよね。それに良い先生にも出会えた。恵麻とも仲良くなれた。それだけで十分幸せだわ)
軽い気持ちでピアノに憧れ、あれよあれよとピアニストの先生に鍛えられた梨沙などとは違う。篤ならば鬼気迫る表情でピアノにかじりつき、必ず一流のピアニストになったであろう。
どの分野でも篤は頭角を現す人間だと梨沙ですら感じていたのだ。親友であり、最強と謳われた康太ですら篤に負け、そして仲良くなり、親友となった。
それがこんなことで失われるなんて信じられなかった。
恵麻もそうだ。恵まれた家庭環境にいると思っていた。天上人だと勝手に思っていたのだ。
だが恵麻は中流階級の梨沙にも優しくしてくれた。梨沙の音を素敵だと言ってくれた。その言葉だけで梨沙は頑張れた。恵麻が居たからこそ、今の梨沙があるのだ。
「はぁ、知りたいことは知れたけれど、全然気持ちは晴れません。たった一言『助けて欲しい』が言えなかっただけ。お姉さんには悪いけれど三条家が酷い家だったと言うだけ。それで若く未来ある二人が死を選んだ。そういうことでしょう」
「そうね、梨沙ちゃんの言う通りだわ。私も最初は桐生くんが悪いと思っていたの。高校生だもの、おかしな男に引っかかってもおかしくないわ。でも話を聞いて全然違うと思ったの。これは桐生くんや恵麻が悪いんじゃなくて、三条家が悪いんだって。そうでなければ大手を振って二人は自由に交際していた筈だわ」
康太が頷く。
「俺もそう思います。そしてこういう不幸な話はどこにでも転がっていて、ずっと無くならないんだろうなって思いました。今回俺たちは当事者に近い立場に居た。でも日本全体、世界全体で見ればきっとよくある話なんでしょう。むしろ戦争や紛争、飢餓なんかのより不幸な話はどこにでも転がっています。比べる物ではないですけれどね。そしてそれが不幸にも自分の親友だった。それだけの話です。割り切れるかどうかは別の話ですけれどね」
康太は大きくため息を吐いた。梨沙も涙よりもため息が出てきた。三人してやっていられないと言う雰囲気が漂っていた。
「甘いものでも食べましょう。気分を切り替えないとやっていられないわ。二人とも甘いものは大丈夫? このホテルのスイーツは絶品なのよ」
わざと明るい声を出して香織が提案してきた。
「わかりました。あまり普段は食べませんがご一緒します」
「あ、私も甘い物は好きです。普段は控えていますが、今は食べないとやっていられません」
「じゃぁ頼むわね。サンドイッチも食べちゃいましょう」
香織はそう言うとサンドイッチを皆に配り、ジュースのボトルからワイングラスにフルーツジュースを注いだ。香り高いフルーツの香りが漂ってくる。
三人はヤケクソになって乾杯をした。グラスが割れるかと思うほど強くぶつけた。
◇ ◇
「はぁ、恵麻。そして桐生くんとの結末の原因がこんなことだなんて。些末な事とは言えないわね。自分たちの愛の結晶が宿ったのですもの。産んで上げたいと思うのは当然のことだわ。私は恋を知らない女だから恵麻の気持ちはわかってあげられないけれど、恵麻を失って愛とはどれほど深い物なのか理解が深まったわ。恵麻にとっては桐生くんがその相手だったのね。運命の相手と出会い、愛を育み、そしてその人の子を孕んでしまった。パパが許す筈がないことを恵麻は知っているわ」
香織はプリントした恵麻と二人で写った写真を見ながら呟いた。
「必ずパパなら恵麻と桐生くんとの愛の結晶を堕ろさせ、更に桐生くんを退学に追い込んだでしょう。だって三条家は溟海学園に多額の寄付をしているのだもの。パパに取っては簡単なことだわ」
そして父親の顔を思い出す。今までは単に嫌いと言う感情だが憎しみが湧いてくる。今すぐにでも父に天罰が落ちて死なないかなどと益体もないことを考えてしまう。
「だから恵麻は愛する人と天に昇る事を選んだのね。恵麻も桐生くんと別れるなら生きている意味がなかったのね。他の人を愛するなんて考えられなかったに違いないわ。恵麻の選択をダメだなんて言えないわ。でももう少し視点を広く持って生きて居て欲しかった。助けを求めて欲しかった。ただ一言『助けて』と言って欲しかったのよ。そしてただ生きているだけで良かったのよ……恵麻」
康太たちと別れた香織は、本邸の恵麻の部屋に入り、もう居ない恵麻に語り掛けた。
ほんの少し運命が良い方向に振れれば彼女たちの未来は明るい物だっただろう。
せめて出会うのが大学生になってからだったら、自分たちで未来を選べた。
三条家など捨ててしまえば良かったのだ。二人でどこかに逃げて仕舞えば愛情のない父はわざわざ追いかけたりもしないだろう。恵麻は失敗作だと断定して損切りしたに違いない。
もしくは本家の祖父や祖母を頼れば良かった。
恵麻を可愛がっていた祖父たちならば、恵麻に子ができたことを多少難色を示したとしても最終的には喜んでくれただろう。例え大学生でも、相手が貧乏人の子でも許しただろう。醜聞ではあるが、父は愛人を持ち、隠し子までいるのだ。それに比べれば高校生で妊娠したくらい大した事ではない。祖父は実力主義なので篤の能力を知れば認められた可能性は高い。
しかし彼らは未成年で高校生だ。広く視野を持つ事ができなかった。故に共に死ぬと言う選択を選んだ。
心中をどちらがいい出したのかはわからない。篤も人生に絶望していたのだ。恵麻だけが生きている理由だったのだろう。
最愛の母を亡くし、母親に楽をさせるというモチベーションを失っているのだ。恵麻も失うとなればその絶望はどれほど深い物になるのか、香織には判断が付かなかった。
結局香織は持つ者なのだ。持たざる者、失った者の気持ちはわからなかった。
しかし今ならわかる。恵麻を失ったからだ。恵麻の子さえ一緒に死んでいる。恵麻の子ならさぞ可愛い子が生まれただろう。
溺愛するのが目に見えている。恵麻の子を一目で良いから見たかった。撫でて上げたかった。可愛がって上げたかった。生まれることすら許されなかった恵麻の子の為に香織は涙を流した。
「はぁ、何度考えてもやりきれないわ。ほんの少しでいい。パパが寛容性を持つ人であれば、もしくはママがパパから恵麻を守ってくれる人であったならば、どうにでもなったのに。いいじゃない、学校を休学して出産しても。愛する人の子なんでしょう。乳母でもベビーシッターでも幾らでも融通したわ。ちゃんと教育を施せば桐生くんと恵麻の子ならば素晴らしい子に育ったでしょう。誰も悪い人なんて居なかった。悪いのはうちのパパとママだけ」
恵麻の使っていた電子ピアノに軽くタッチする。ポーンと音が鳴る。ちゃんと掃除されているのだろう。埃一つついていない。
「私は桐生くんを悪者だと思い込みたかった。恵麻を騙した悪い男だと思いたかった。でも現実は違う。桐生くんは素晴らしい子だった。木島くんや梨沙ちゃんの話を聞いていて凄く感じたわ。探偵の調べでも桐生くんを悪く言う人は居なかった。更に将来性も非常に高かった。惜しいわね。桐生くん、私も貴方に会ってみたかった。そして恵麻のことを頼みたかった。でもそれは叶わないのね。寂しいわ」
香織は写真でしか見ていない篤の為にも泣いた。篤の境遇は想像もできず、しかし篤が凄い人間であることは調べでわかっている。康太も梨沙も絶賛していた。
それほど凄い人間であるのならば、そして一度絶望を知り、立ち直れた人間であるのならば香織より余程強い人間だろう。尊敬に値する。
残念ながら香織の周囲には成功者の娘や息子しか居ない。それはそれで幸せな事なのだろうが世の中は綺麗事だけで渡っていけるほど甘くはない。
それを努力で切り開き、掴み取っていたのが篤と言う人間なのだ。
恵麻もおそらく初恋であろう。淡い恋ではなく、愛情を篤に向けてしまったのだ。そしてその愛情は海よりも深かった。そして篤も絶望の淵に遭った時に助けてくれた恵麻を愛した。
ただそれだけの事だ。二人の愛は実る可能性は少なかった。だが手は有った。香織でも、康太でも、本家の祖父や祖母でも頼れば良かったのだ。
幾ら父でも当主である祖父の言うことは聞かなければいけない。そこに思い至らなかった。父は絶対だと恵麻は畏れていたのだ。
「パパは絶対に許せないわ。だって可愛い恵麻の命を奪ったのはパパだもの。ママも許せないわ。私も大学を卒業したら家を出ましょう。そしてパパよりも成功して三条家を乗っとるわ。待っていなさい、パパ。貴方のスキャンダルなんて幾らでも調べられるわ。妹を失った姉は怖いのよ。思い知らせてあげるんだから」
香織は恵麻と篤の愛を想い、涙する。そして可愛い妹である恵麻と香織、そして恵麻の愛した篤、恵麻を愛する梨沙、篤を愛する康太の想い。それらを引き裂いた元凶である父に牙を向ける。
香織は生涯浮かべた事のない残酷な笑みを浮かべていた。