015,篤の将来と料理
梨沙は家の防音室の中で、ピアノに向き合っていた。
今日は色々なことがあった。篤の部屋を訪ねると、香織が頼んでいた探偵が現れた。
探偵の視点は多いに勉強になったが、結局結論は闇の中だ。
ポーンとラの音を響かせる。ピアノの音を聞くだけで落ち着く。恵麻たちのことを考えてしまうとネガティブになってしまうので、以前よりもピアノの前に座ることが多くなった。
曲を弾かなくても良い。ピアノの前に座り、たまに音を鳴らす。今日の練習は既に終わっている。父や母たちは最近防音室に籠もり気味な梨沙を心配しているが、原因は明白なので「無茶はしないようにね」としか言わない。
別れの曲を弾く。しっとりと、感情的に。その後鎮魂曲を弾く。これはもう毎日の習慣と化している。恵麻の事を想い、篤の事も想い、ピアノをかき鳴らす。明るい曲を弾く気にはなれなかった。
録音した自身の音を聞き、荒くなっている所の譜面を見ながらチェックする。
感情表現が多彩になったと先生からは褒められたが、感情に浸りすぎては良い演奏はできない。自己陶酔と同じだ。そこら辺の線引きはきちんとしなければならない。
「恵麻」
小さく恵麻の名を呟く。彼女は天国に行けているだろうか。篤と共に幸せに過ごせているだろうか。
梨沙は別にクリスチャンでも神道でも仏教徒でも何でもないが、どの神様でも良い。親友である恵麻とおそらく恵麻の恋人であった篤が天国で幸せになっていることを祈る。
その祈りが天に届くことを願う。
床に膝をつき、手を組み、目を閉じて恵麻たちが天国で幸せになっていることを熱心に祈った。
「今度神社に行きましょう。神様にあの二人が幸せに暮らしていることを祈りましょう。寺院でもいいわ。神様でも仏様でもあれほど良い子たちなんだもの。地獄に落としたりなんかはしないわ。地獄に落ちても仏様が蜘蛛の糸を垂らしてくれるでしょう」
自殺は仏教では確か罪だったはずだ。梨沙は詳しくないが、それでもあの二人には救われて欲しいと思う。西洋の神でも良い。どこかの神が、あの二人の素晴らしさに感動し、救い上げてくれるだろう。
恵麻たちをよく知る梨沙はそれを確信していた。
もしあの二人が救われないのであれば、世界中の人の殆どは救われないだろう。ならばニーチェのように「神は死んだ」と叫ぶしかない。もしくはホーキング博士のように「神はいない」と言うべきだろうか。
梨沙は恵麻の追悼としてピアノの曲を更に弾いた。その日は夜中まで防音室の中でピアノの音が響き渡っていた。
◇ ◇
「なにこれ」
香織は恵麻の日記をゆっくりと読み進めていた。だんだんと恵麻が篤に惹かれていることが克明に書かれている。だが実際に付き合ったと言う記述はない。お互いに惹かれ合っているのは読んでいるだけでわかる。明らかに篤の記述が多いのだ。
そして康太の言う通り一年生の年末、篤は酷く落ち込んだ。恵麻の日記でもその記述がある。いつ通りに飛び込んで車に轢かれてもおかしくないと思ったと書いてある。
そして恵麻は康太と共に篤を立ち直らせようと必死になっていたようだ。一年時の一月、二月の日記はほぼほぼ篤と康太と梨沙のことで占められている。
その時点で篤と恵麻は恋人ではないが、お互い惹かれ合っていたようだ。だが父の事がある。貧乏人の生まれである篤がいくら優秀であろうと父が許す訳がない。
一代で成り上がった成金すら認めないのだ。篤がどれほど優秀で、稼いでいたとしても父は決して恵麻の伴侶に篤を認めることはないだろう。
「やっぱりパパが原因よね」
恵麻の死には父の教育方針や性格が起因していると香織は断定した。高校生のごっこ遊びのようなお付き合いすら認めることはないだろう。
それがわかっていた恵麻は、康太と付き合ったとしても誰にもバレないように隠した事だろう。
十八歳になれば自分たちで勝手に婚姻届を出すことができる。親の了承など必要ないのだ。
当然恵麻は勘当されるだろう。だがその恵麻は香織が助ける。
祖父や祖母に言えば援助してくれるはずだ。それに篤は例え高卒でも二人で暮らすには十分な収入を得ることができるだろう。
「溟海大学を途中まで通い、国家試験を突破して大学を辞めて働いている同級生もいるものね。多分桐生くんはそのルートを取ろうと思っていたと思うわ。それが一番早いもの」
溟海で首席を取れ、外部生であるのに生徒会長をやっていたのだ。少なくとも香織の時代ではあり得ない事だ。もしかしたら長い溟海の歴史の中でも前代未聞かも知れない。
高卒でも小さな企業なら幾らでも両手を上げて歓迎してくれるだろう。少なくともこの近辺では溟海はブランドだ。高校卒業でもそれなりの待遇で迎えられると香織は考える。
(まぁでも彼なら大学の特待生や奨学金も貰えるでしょう。本命はそっちよね)
当然大学を卒業していた方が大企業などに勤められるだろう。
もしくは大学の四年間で法学や会計学を勉強し、弁護士資格や会計士資格を取ると言う手もある。
溟海で首席を取るのだ。弁護士になるのに法科大学院に通わなくとも予備試験と言う手がある。
弁護士資格の予備試験は国内でも最高難易度だが、康太や篤のような特別な人間ならば通り抜けることもできるだろう。
香織には考えられないことだが、康太と話しているだけでもその教養の深さがわかる。そして篤は康太と同等の教養と勉強能力を持っていた。不可能だとは全く思わない。
実際全国模試で二桁の順位を取る俊英なのだ。彼らが受からなかったら誰が受かると言うのか。どれだけの難関試験でも康太や篤なら突破してしまうだろう。それだけのポテンシャルはある。香織ですら本気を出せば旧帝大ですら一部の学部を除けば受かるだけの学力はあった。
「桐生くんは何度も木島くんを破ったと聞いているわ。全国模試でも一桁の順位を取ったこともある俊英。抜けられない試験など存在しないわ」
四年も掛けずに試験を突破し、大学を辞めて働き始める。それが金を稼ぐ最も早い手立てだ。特に会計士だ。二年間のインターンはあるとは言え、給料が出る。
大手の会計事務所に入ることができれば将来は明るい。医学部や薬学部のように六年間拘束されることはないのだ。
そして何年か働いたら自身の会計事務所を立ち上げる。もしくは会計事務所で頭角を現し、経営者側に回る。篤が求めていたのはそのルートではないだろうか。
もしくは防衛大学や航空大学と言う手もある。距離の問題があるが、大学に通いながら給料が貰える。そしてパイロットにでもなれればかなりの高収入が約束される。母親に楽をさせてあげたいと言うが、三条家のように莫大な資産を築きたいと言うほどではないだろう。
年収で一千万もあれば十分な筈だ。国際線のパイロットにでもなれば千五百万は固いと聞く。
「ふぅ、惜しいわね。三条グループにでも取り込みたいレベルよ」
彼の取れるルートは幾らでもあった。あとたった数年の我慢だ。二年生ももうほぼ終わっている。推薦で溟海大学に進み、奨学金を貰って通う。
康太が語る篤像を信じるならばそれが可能だ。康太の家ならば個人的に援助をしていてもおかしくはない。
そして探偵に調べさせた報告書にも篤の有能さは書かれている。
中学校の時から常にトップで人当たりが良く、近所の住民たちからも良い少年だと書かれている。
中学校の担任の先生にもインタビューを行ったようだ。そして担任の話では篤は別格だったと語ったと書いてある。溟海の高校編入試験に受からないとは思えない。それだけの努力を彼はしていたと証言している。鬼気迫る表情で机に齧りついていたと証言がある。
康太の語る篤像と報告書で書かれている篤像はそう変わるものではない。
優秀で勤勉。周囲の人間にも人当たりは良く、好かれている。
篤の写真を見て、生きている頃の彼に会いたかったと香織は思った。
篤ならば年上の香織にも新しい知見を齎してくれただろう。大学のコンパで出会う馬鹿男たちや、パーティで成り上がって上流階級に入ったと勘違いしている奴らよりも余程話す価値があると思った。
そしてその篤ももう居ない。残念だと香織は思った。
「高校生なんて狭い世界しか生きていないものね。視野狭窄に陥ってしまったとしても仕方がないわ。恵麻を追い詰めたのは父ね。間違いないわ。パパ、恨むわよ。私の大事な恵麻を死に追いやったのだから。今もきっとのうのうと国外で愛人でも抱いているのでしょう? ふん、父親失格ね。金さえ払って教師さえつけて居れば許されるとでも思っているのかしら。子供に愛情を抱けない単なるクズ人間じゃない。ママもそうだわ。優しく接してくれたけれど、どこか距離が合ったわ。自分のお腹を痛めて産んだ子に対する態度ではなかったわ。ママがもっと強い人で、パパに意見を言える人ならば恵麻たちの結果も変わったでしょう。ふん、三条家も終わりね。婿は自分で選ぶわ。そしてパパの天下も私が終わらせてあげる。見ていなさい。絶対に引きずり下ろしてあげるんだから」
三条家の現当主は祖父だ。そして香織は祖父からとても可愛がられている。そして恵麻もとても可愛がられていた。
故に祖父や祖母、分家の者たちも恵麻の死にとてもショックを受けていた。その原因が父にある。そう伝えれば祖父は父に三条家を継がすなどと考えたりはしないだろう。
香織は自身が次代の三条家当主となり、父を追放することを決心した。
父は三条家の家督を継げる事に確信を抱いているだろう。ほぼ内定しているようなものだ。
だが家督を継げないと知った時はどう思うだろうか。
有能なのは間違いはないので案外気にせず、自分の信ずる道を突き進む気がした。しかし多少はショックを受けるだろう。生まれて初めて味わう挫折だ。それだけでも十分だと思った。
◇ ◇
「そうですか、ちゃんと開きそうですか」
「えぇ、時間は掛かりますが、必ず開けて見せましょう」
康太は鍵屋と連絡を取っていた。難解な鍵だが金庫ほど厳しくはない。ただ康太が決して壊しては行けないと注文をつけたので鍵屋は困っているようだ。それほど鍵の仕組みが精巧だと言う。
康太は鍵については詳しくない。だがプロが言うのだ。間違いはないだろう。
「その化粧箱は大事なものです。傷一つ付けることは許しません。その代わり相場よりも多く金銭を払いましょう。必ず開けてください」
「畏まりました」
康太は父に頼んで鍵屋を紹介して貰い、近隣で最も優秀だと言う鍵屋を雇った。だがその優秀な鍵屋ですら難儀しているらしい。
どうも日本式の鍵でなく、ヨーロッパなどで使われている特殊な鍵のようだ。調べて見たがかなりの金額がする箱で、ヨーロッパでは富豪たちが愛用しているような信用のある老舗が作った箱のようだ。
どこで篤はそんな物を手に入れたのだろう。もしくは母親の遺産の一つなのだろうか?
母親が死に、生活に困るだろうと市の職員に相談してみてはどうだと篤に言ったことがある。
だが篤の母親はかなり貯蓄をしていたようだ。篤の大学費用なのだろう。篤に聞いていた生活は質素倹約を文字にしたような生活だった。極貧と言うほどはない。無駄な物は買わず、必要なものだけで暮らす。篤の部屋はそれを体現していた。
遺産は一千万を超えていた。贅沢をしなければ一人で暮らすだけなら数年は余裕で賄うことができる金額だ。大学は奨学金を貰えば通える。篤なら問題ないと康太は思った。実際篤はそのルートを狙っていたようだ。
問題集や参考書なども学校から支給されている。勉強にも身を入れる環境が整っている。
篤は料理も自分でできる。小学生の頃から図書館から素人でもできる料理本を借りてきて必死に努力してきたと言う。小さな頃に包丁を扱って切ってしまった傷跡がまだ残っていると笑っていた。
母親は料理を作れなくはないが、過労で倒れるほど忙しかったのだ。料理を作る余裕などないだろう。故に篤は小学生の時から家の家事を全て自身でやっていたのだ。
(あれは美味かったな。そこらのスーパーで買ってきた食材だとは思わなかった)
実際篤の作った料理は素材の質はともかく、普段高級な料理を食べ慣れている康太の舌にも適った。更に栄養学も勉強しており、健康にも配慮されている。彼はなろうと思えば一流の料理人にも成れたかも知れない。
篤が作ったお菓子や料理が食べられないことを、康太はさみしく思った。
そして康太は差し入れとして高級な肉や魚を持っていった事がある。
篤は見事にそれを素晴らしい料理に作り上げ、康太や恵麻、梨沙を唸らせた。それほどの腕前だ。小学生の頃から料理の腕を磨いて来たのだ。康太が勉強に身を入れている時、篤は料理まで研究していた。
勉強一筋だった康太には考えられない。それでいて康太と同レベルの学力を持っているのだ。
「あいつの料理がまた食べたいな」
康太は篤の料理はただ美味いのだけでなく、温かみを感じた。シェフの料理とは方向性が違う。だが素直に美味いと思った。同じ高校生が作ったとは思えない力量だった
当然家のシェフが作った料理の方が美味いのは間違いがない。高級な食材を使い、プロのシェフが栄養士の助言を取り入れながら作りあげているのだ。敵う訳がない。
だが康太はたまに作ってくれた篤の料理が懐かしくなった
もう二度と食べることはできない。それが残念で成らなかった。




