010.中間報告書と二度目の会合
「悪いわね、待たせたかしら」
「いえ、全然」
「大丈夫です」
香織が前と同じホテルのラウンジに行くと既に康太と梨沙の二人が待っていた。十分前に着いたのだが、つい先程二人も来たようだ。
十五分前行動が染み付いているのだと康太が言った。なるほど、と香織は納得した。
香織は十分前行動が染み付いている。故におそらく一緒に来たであろう康太と梨沙が先に着いているのだ。まぁ五分程度なら誤差だ。次は彼らに合わせて十五分前行動をしようと香織は心の中で決めた。
「じゃぁ移動しましょう。今日も部屋を取ってあるの。昼食は当然奢らせて貰うわ。だからお昼の時間を指定しているのですしね。今日は良い素材が入っていると聞いているからフレンチにしたわ。フレンチはお好きかしら」
「好きです」
「私はたまにしか食べた事がありません」
康太は普通に頷き、梨沙は少し自信なさげに答えた。
「いいのよ、気取らなくても好きに食べれば。マナーなんて内輪で気にすることないわ。それにちゃんと梨沙ちゃんも前はできていたわ。染み付いてはいなかったけれど及第点よ」
そう香織が指摘すると梨沙の表情が曇った。
「全部恵麻が教えてくれたんです。箸の使い方やフォークやスプーンの使い方。音を出さないスープの啜り方。ナイフの綺麗な使い方。背筋を伸ばして、ゆっくりと味わえば良いって」
「ふふっ、ちゃんとそれが身になっているのね。嬉しいわ。恵麻の残り香が梨沙ちゃんにも宿っているのね」
香織は梨沙の言葉に穏やかに笑った。
中流階級の出である梨沙も、香織などに比べると流石に劣るが所作が綺麗だ。それは溟海で培われた物だと思っていたが恵麻が手取り足取り教えたらしい。
優しい妹である恵麻らしいエピソードだと思った。そして恵麻の所作の癖が梨沙にも残っている。親友だと言うことだけはある。それに気付き、香織は嬉しくなった。
「えぇ、恵麻は色々な事を私に教えてくれました。そして世界を広げてくれました。私はピアノの事しか見えていませんでした。幼い頃は天才と言われて奢っていました。でも恵麻のピアノは当時の私よりずっと素敵だったんです。恵麻よりも私のピアノが優秀なのは一点に集中したからです。恵麻はバレエも書道もやっていましたし、一時期は日本舞踊や華道などもやっていましたからね。恵麻がピアノに集中していたら私なんか敵いませんよ。何せ私は恵麻の三倍はピアノに時間を掛けられたのですから。溟海の勉強時間を考えたらもっとかも知れません」
梨沙が謙遜する。その三倍以上の時間を集中してピアノに費やす努力ができると言うだけで凄いのだ。
更に才能まである。幼少時は普通のピアノ教室に通っていたらしいのだがその時のピアノの先生に「もっと良い先生に習うべき子だ」と言われ、恵麻の通うスクールに通うことになったらしい。
そこで梨沙と恵麻は出会い、意気投合した。当時お互いのピアノの腕は同列で、梨沙は恵麻のピアノに感動し、恵麻は梨沙のピアノを褒め称えた。そして同じクラスを取っていた事により二人の仲は幼馴染と言って良いほど発展した。
(良い子ね。恵麻、いい友達を持っていたのね。こんな良い友達を残して逝くなんて酷い子。残された私たちの気持ちはどこにやれば良いのかしら)
梨沙は恵麻に教えを請い、勉強を習って溟海の特進に進むことにしたのだ。普通クラスでも中等部受験は狭き門だと言うのに同じクラスになりたいが為に特進を選ぶ梨沙は物凄い努力家だ。
幼稚舎から普通にエスカレーターで上がった香織にはわからない努力量だが凄いことだけはわかる。何せ中等部の受験の試験問題も当時中等部だった自分が解いてみて全くわからなかったのだから。
「まぁいいわ。ここで話していても仕方がないわ。部屋を前と同じ場所で取っているわ。そこで話しましょう。二人の表情が少し明るくなっているのを見てホッとしたわ。私たちが悲嘆に暮れていても周囲はどんどんと先に進んでいく。立ち止まっている暇なんてない物ね。取り残されてしまうわ。私はまだ先に進む勇気がないわ。でも貴女たちは拠り所がきちんと合って、向き合ったのね。偉いわね」
「そんな……」
梨沙がそんなことはないという表情をするが明らかに前回よりは表情がすっきりしている。恵麻の死はまだ乗り越えられていないのだろうが、一歩前進したのだ。
香織はまだ足踏みをしている。大学にも通っているし、授業は受けている。だが身が入らない。テストも散々な成績を取った。だが単位は問題なく取れる。評価が悪いだけだ。
サークルもしばらく行って居ない。ただ周囲の友人たちもニュースなどで妹を亡くしていることを知っている者たちが多いので香織にセンシティブな内容の話題は振らないように配慮してくれている。
一部デリカシーのない奴らが大声であの事件の事を話していた時は引っ叩いてやろうかと思ったが友人に止められた。
ああいう馬鹿はどこにでも湧くのだから気にしても仕方ないと諭された。その通りだと思った。
感情に振り回されて暴行事件などを起こしてはいけない。そんなことで人生を棒に振るわけにはいかない。
だが決して許さない。人には触れては行けない部分と言うのがあるのだ。
香織はその男たちの顔をしっかりと覚え、何かあれば必ず陥れてやると誓っていた。
◇ ◇
「さて、今日の本題はこれよ。探偵に調べさせた中間報告書ね。主に桐生くんの事に焦点を絞られているわ。恵麻の事はうちが厳しいので調べられなかったんでしょう。表向きのことしか書いていないわ」
梨沙は相変わらず豪華な部屋だなと思いながら部屋の中を見渡した。
今回食べたフレンチも美味しかった。二人は拙い梨沙のマナーを丁寧に教えてくれた。
フランスに留学する可能性もあるのだ。どこの国に留学するにせよ、食事マナーは覚えておいて損はない。
梨沙は二人に頭を下げて教えを請うた。そして二人は優しく教えてくれた。康太などお勧めのマナー本があるから今度学校に持ってきてくれると言う。ありがたい事だ。
香織が取り出した中間報告書は写真などがいくつも貼ってある本格的な物だった。恵麻よりも篤に焦点が当てられているのが軽く見ただけでわかる。
「これはデータもあるから後で送るわね。気付いた事があれば教えて頂戴」
「はい」
「わかりました」
香織はぺしんと報告書を叩いた。
「と、言ってもこれまだ私もちゃんと読んでいないの。三人で読んだ方が良いと思ってね。探偵も悪くないわ。軽く見ただけでよく調べてあるわね。桐生くんはなかなか格好いいじゃないの。溟海の制服が似合っているわ。背も高いし筋肉もついている。骨格があまり筋肉質にならない骨格をしているわね。でもそれですらりとした体型を維持している。特に運動部などには入っていないのでしょう。ふむ、朝夕に毎日ジョギングをしている、ね。なるほどね」
香織がペラペラとめくりながら中間報告書を読んでいる。梨沙はその速さに追いつけない。
だが後でデータをくれると言うし大事な所はしっかりとテーブルに置いて、指で示して解説してくれている。
(桐生くんのおうちって大変だったのね。早くから父親を亡くして女手一つで桐生くんを育てた母親は凄いわね。以前木島くんが言っていたけれど、こうやって報告書に明確に書かれていると実感が違うわ)
梨沙は篤については詳しくなかったが、こんな生い立ちだったのかと驚いた。康太が語った以上の事が書いてある。母親の元勤務先の情報や、同じ職場の人間から聞いた母親像や、近隣の住民たちから聞いた篤の印象などが綺麗に纏められている。
(はぁ、恵麻の情報は少ないわね。私の知っている事ばかり。まぁ三条家はマスコミが殺到できる家ではないわ。セキュリティがしっかりしているもの。何せ学校への通学も車で送り迎えしていたものね。そういう生徒は少なくないから目立たなかったけれど、中等部に入って送迎の車列を初めて見た時は冗談かと思ったわ)
彼の家の映像はTVで見たことがある。どこかのTV局が特定して突撃取材をしたのだ。大家の娘だと言うおばちゃんは困ったようにインタビューに答えていた。他にも同じアパートの隣人にもインタビューをしていた。かなり強引だったように梨沙は感じられた。だがマスコミなどああいうものだ。
(この前見た番組は酷かったわ。二人の死をまるでエンターテイメントのように扱って居たものね。でもTVなんてそんなものだわ。センセーショナルな事件が起きると必ずエンターテイメントにしてしまう。溟海の高校生男女が心中するなんて格好のネタでしょうね。私たち当事者の気持ちなんて考えていないのだわ。実際他の普通クラスでは他人事のようだもの。恵麻や桐生くんのファンはかなり落ち込んでいたけれどね)
梨沙もインタビューを受ける立場なのでよくわかる。
国外のコンクールで賞を取った時など空港から出ただけでフラッシュが山程焚かれたほどだ。
プライベートな内容でも強引にぐいぐいと聞いてくる。梨沙の気持ちなど全く無視だ。しかしそれが梨沙の知るマスコミと言う物だ。両親などは梨沙が出たニュース番組などを全て録画していた。今も残っているはずだ。
(私なんて恵麻に比べれば大したことはないのに)
天才少女などと騒がれているが他の人間よりちょっと努力しているに過ぎない。父も母もピアノの才能などないのだ。梨沙が突然変異的に音楽の才能があった。絶対音感もある。そして梨沙の家系で絶対音感を持った者は他には居ない。
隔世遺伝なのだろう。どこかで音楽の才能があった血が三宅家に入り、それが梨沙に受け継がれた。
有り難いと思っている。そして両親も応援してくれている。感謝しかない。音楽は金が掛かるのだ。両親は共働きで梨沙専用の防音室まで作り、グランドピアノまで買ってくれた。部屋には電子ピアノが置いてある。ふと思いついたフレーズで作曲するのに便利なのだ。
三人は探偵が調べたと言う中間報告書を回し読みし、微に入り際に穿ち何か手掛かりはないかと話し合ったが、あまり得られる事はなかった。




