4 『宿はなし』
ランドセルを背負っている子どもが夜遅く帰ったら普通の親ならまず怒るだろう。どこで何をしていたとか、誰と一緒にいたとか、問い質すだろう。どれだけ心配したか、とかも言うかもしれない。もし僕の母親がそんな人間だったなら、僕はもう少しまともな成長をしていたかもしれない。親の手料理の味さえ知らない子どもが、親の笑顔さえ知らない子どもが、家を自分の家だと思えないのは当たり前と言えた。だから僕がこれまで学校を何度か無断欠席していようとも、母親は何も言わなかった。
そして僕はこれからささやかな家出をする。しかしそれが終わったときも母親は何も言わなかった。本当に何を考えていたのか今でもわからない。なぜ僕を産んだのだろうと首を傾げざるをえない。
僕は翌日も学校をサボり、秘密基地もとい廃墟へ足を運んだ。また明日ねと約束したからだ。約束は守らなくちゃいけない。
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「おはよう少年。いや、でもまさか本当にいるとは」
気さくな感じで笑う彼女。
「まあそれは私も同じか」
僕は昨日の出会いは夢とかじゃなくちゃんと現実の出来事だったんだとあらためて思った。今日も雨が降っていた。彼女はすぐ僕が全身びしょ濡れなことに気づいた。
「きみ、もしかして傘を差さずにここまで来たの?」
「昨日お姉さんが、雨のときは雨に打たれたほうがいいって言ってたから」
「ううん、まあ言ったけどさあ。何も無理に濡れることはないんだよ?」
「いい。僕が雨に当たりたいって思ったから」
「きみは将来大物になりそうだね。でも子どもが体を冷やしちゃ駄目。私タオル持ってるから拭いてあげる」
彼女は鞄に手を入れるが「あ、僕持ってるよ」と僕はリュックサックからタオルを出した。
「それは?」
「タオル」
「いやそれくらいわかるよ。それ、その」
「リュックサック? これは僕がちっちゃいときに死んじゃったお姉ちゃんのやつ。押し入れにあったから」
「ううん」彼女は唸った。
僕には昔姉がいたらしい。らしいというのは写真でしかその顔を見たことがないから。しかしなぜ死んでしまったのか、母親はそれを頑なに教えてくれなかった。
姉が死んだことと親が僕をどうでもいいと思っていることに、果たして因果関係があるのかは今となってはわからないが、まったく無関係とは言えないだろう。なぜならその死んだ姉と父親と母親が映っている写真では、家族三人がとても幸せそうな笑顔をカメラに向けていたのだから。
彼女はタオルを取ると僕の頭を拭いた。
「自分で拭けるのに」
「いいから、素直に拭かれときな」
髪や顔、服から水分が消えていく。見ると彼女の制服が透けていた。髪には水滴が付いていた。
「お姉さんだって濡れてるくせに」
「いいの。私は大人だから」
小学生から見れば彼女は明らかに大人に見えた。しかし彼女は本当に大人だったのだろうか。
「大人は濡れてもいいの?」
「そうだよ。大人はね、辛いことや嫌なことを雨と一緒に流しちゃうんだよ」
「なんかお酒みたい」
「ふふ」と彼女は笑った。そして拭き終わると「まあこのリュックサックがきみの死んだお姉さんのものなのはわかったよ」と言った。
「でも、何でそれを背負ってきたのかな?」
僕の目を見た。僕は目を逸らさず、
「家出してきたから」
と言った。
「もうあんな家にいたくないから」
リュックの中身を彼女に見せる。
「ほら、パンとかお菓子とかたくさん持ってきたよ。水筒に麦茶も入れてきたし。だから大丈夫」
何が大丈夫なんだろう。そこは小学生の発想だ。常識では測れない行動をすることもある。家出を遠足と同じくらいにしか思っていなかったのかもしれない。ちょっとした冒険のつもりだったのかもしれない。でもこのときの僕はかなり本気だったと思う。こんな僕と一緒にいてくれる人を見つけたのだから。
「じゃあ、きみはしばらくここにいるの?」
僕はうなずく。
「ここに、一人で?」
「一人じゃないよ」
「え?」
「お姉さんがいるから、一人じゃないよ。二人だよ」
純粋すぎるがゆえに、無知であるがゆえに言える酷な言葉だったのかもしれない。そんなことを言われて放っておける大人なんていないじゃないか。だからそれは僕が無理やり言わせてしまったようなものだけど「そうだね、二人だね」と彼女は笑った。