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日常シリーズ

雨の誕生日 ~Je te veux~

作者: 釜瑪秋摩

 私の名前は樋口圭子ひぐちけいこ。三十二歳。

 とある企業の営業職についている。


 あれから駅で彼と会うたびに、食事をしたり飲みに行ったりと、一緒に出掛けるようになった。

 とはいえ、話すのはほとんどが仕事のことになってしまう。

 共通の話題が、それしかないんだから、仕方のないことだけれど……。


 半年ほど経っても、プライベートな部分にまで踏み込んでいいか迷い、聞けないことも多い。

 はっきりわかっているのは、勤めている会社と出身地や出身校、私と同じ三十二歳だということ。


 それから、初めて仕事で会ったときも、ピアノを弾いているときも、しっかりした人のようにみえたけれど、意外とぼんやりしていたり、おっちょこちょいなところもあること。

 だんだんと親しくなれていく中、私は彼を「()()()()」と、彼は私を「()()()()()」と呼ぶようにもなった。


 いつも私を誘ってくれるのは、特定の相手がいないからだと思いたいけれど、中には相手がいても関係ない人もいるし……。

 つと、左手に視線を移すと、指輪はないから結婚はしていない気がする。


(あえてつけていない可能性もあるのかも……?)


 そこまで考えると、なにも信じられなくなってしまう。

 今、目の前にいる彼は、そこまで不実な人には見えない。


「――聞いたりする?」


「――えっ?」


 考えごとのせいで、話を聞き洩らしていた。

 カウンター席に並んで座っている彼は、心配そうな表情をみせた。


「もしかして、具合が悪い? 風邪ひいたとか……」


「ううん、そういうのじゃなくて、ちょっと考えごと」


「本当? 心配だから、今日はもう帰ろうか」


「大丈夫なのに……」


 彼はあっという間に会計を済ませ、店を出ると二人で駅へ向かった。

 最初のころは、彼はいつも奢ろうとしてくれたけれど、私は毎回それを断った。

 ときどき、ご馳走になることがあっても、次のときには出すようにして。


「そんなに遠慮しなくてもいいよ」


 と彼はぼやいたけれど。


「出してもらってばかりじゃあ、次に誘われたときに行き辛くなるのよ」


 と答えた。

 実際、負担ばかりかけるのは嫌だし、なんとなく対等じゃあない気がして、後ろめたさが残るから。

 そう伝えたことで、以降、彼は余程でない限りは、無理に出そうとしなくなた。

 今日もいつも通りのつもりでいたのに、あまりにもサラッと会計を済まされてしまって、タイミングを逃してしまった。


「ごめんね、今日はご馳走になっちゃって……次は私に奢らせてね」


「そんなの本当に気にしなくていいのに」


「ダメダメ。やっぱり気になるでしょ。来にくくなるのも嫌だから」


「そう? 来てくれなくなるのは僕も嫌だし……けど、それはまた別の機会で……再来週の金曜日、ケイちゃんの誕生日でしょ? 僕が良く行く、ちょっといいお店があるから、行ってみない? ピアノ、生演奏が聞けるよ」


「ホントに? それは行ってみたいな」


「じゃあ、予約入れておくよ。もしも都合が悪くなったり仕事のときは、前もって連絡くれる?」


「ありがとう、そうする」


 いつものように電車で別れ、家路へと急ぐ。

 誕生日を誰かに祝ってもらうのも久しぶりのことで、翌週から私は仕事を残さないようにしっかりと働いた。

 晴れの日が続き、駅でピアノを弾く姿は見れないけれど、先の予定がこんなにも楽しみなのは、いつ以来だろう?


 年甲斐もなく浮かれた気持ちで当日を迎えるも、なんの因果か、今日も雨。

 あらかじめ聞いておいた店は、私の乗り換え駅にあった。

 大通りから数本奥まった場所にある、雑居ビルの一階。


「いらっしゃいませ」


 中に入るとピアノに一番近い席で、彼が待っていた。


「待たせちゃってごめんね」


「いや、僕もついさっき来たところ」


 まだ若い……少なくとも、私よりは若い女性が、静かな音色を奏でている。

 店内は人もまばらで、良く音が通る。

 食事が済むころにはピアノの生演奏も終わり、女性は店の奥へと消えていった。


「ちょっと席を外すね」


 お手洗いにでも行くのかと思ったら、彼はピアノの椅子に腰をおろした。

 誰もなにも言わないところを見ると、先に弾くことを話してあったんだろう。


 いつものように、彼のピアノが始まる。

 弾き始めたのは、ジムノペディではなかった。


「この曲、知ってる……」


 ジムノペディと同じ、サティの『Je te veux』だ――。


 店員さんがデザートと一緒にメッセージカードを運んできた。

 封を開けて中を見る。


『お誕生日おめでとう。結婚を前提に、僕とお付き合いしてください』


 と、あった。

 結婚なんて、とうの昔に諦めていたし、もう縁などないと思っていたのに……。


 Je te veuxが流れる中で、こんなメッセージ……。

 こんなの、断るわけがないじゃない?


「よろしくお願いいたします」


 曲が終わり、戻ってきた彼に、私はカードを掲げ、ひと言伝えた。




-完-


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