9話 売店ガール
お腹が鳴った。チョキにすら負けそうなグーの音。三時間目の授業中、すました顔で国語の教科書に目を落としている。こころ。隣の席には聞こえているだろうか。佐藤の反応を見ることはできず、黙って椅子を引きずってかき消すように音を鳴らした。
リュックの中のおにぎり二つに思いを馳せる。それだけじゃ足りないけど、おかずを作ってとはお母さんに頼めない。朝起きたばかりの母さんにお昼のことを考えさせるのは、ちょっとかわいそうだ。
昼休みになると上沢が500円玉を投げた。教室の宙を舞う新しいコインを左手で掴むと上沢からは賞賛の口笛。なに、と尋ねると、コーラと応える。そんなもん売ってない。コーラで500円って意味が分からない。
「あったらな」
ないだろうけど。階段を降りると、すぐに生徒玄関に出る。選挙のポスターが貼ってある掲示板のすぐ横に、購買部が店を出している。図書室の隣のスペースだ。普段は赤字だけど、文化祭の出店で毎年利益を出している。昼休みの客は俺を含めて数名だ。昼休みにわざわざ生徒玄関まで来る生徒はほとんどいない。
ワゴンに入れられた商品を吟味する。おかずになりそうなものは少ない。ラーメンサラダ、サラダチキン、野菜100%ジュース。並んでいるとサラダチキンのサラダ要素ってどこにあるのか分からない。柔らかそうな鶏肉の背景には、レタス風の葉っぱがプリントされている。
ワゴンの端っこには、100円のシールが貼られたクラフトコーラがあった。
あんのかよ。
「んー」
ラーメンサラダは400円。クラフトコーラは100円。こんなにピッタリなことってあるのだろうか。迷いなくラーメンサラダを手に取って、でもクラフトコーラに手を伸ばすのは躊躇っていた。
「ペプシでもコカでもないコーラってどう思う?」
「は?」
突然、話しかけられた店員さんが戸惑いの声を漏らす。布浦だった。客が俺だけだから、暇そうにしていた。そんなに話をしたことはない仲だけど、毎週水曜日はここで見かける。布浦が俺を認識しているかは分からないけど。
「……どれも同じかな。分かんない。炭酸苦手だから」
「どれも同じか。そうだよな」
ヤキソバにコカ、ラーメンにペプシ。そんな拘りを持っているのも俺だけか。変な拘りを持つことは母さんに似た。上沢は雑な男だから、コーラって名前で満足するだろう。端っこに転がっているクラフトコーラを手に取って、ラーメンサラダと一緒に布浦に渡す。
ピ。
「毎週、来てるよね?」
ピ。
「毎日、だけどね」
「500円です」
毎日来てるけど、布浦は毎週水曜日の店員さんだから水曜日以外は知りえない。
ポケットの中のコインを布浦に渡す。左手にラーメンサラダ、右手にクラフトコーラ。下りは楽だった階段も、上りになると気怠い。二年生のクラスは二階にあった。狭い廊下を歩く。小学校から、中学校を経由して、どんどん廊下は狭くなっている気がする。俺たちが大きくなったからだろうか。
「おい」
と声をかけられる。振り返ると、見たことがある顔なのに、名前は出てこない。仕方がないから靴を見ると、紐が緑。三年生の先輩だ。隣にも二人いて、こっちの紐は青。一年生の後輩。右にいる一年生の名前は知っている。クロスカントリーが強い、東くん。冬の時期の彼はノリに乗っている。だから、三人のうち、口を開いたのは彼だった。
「清水 稲穂さんが生徒会選挙に立候補したのを知っていますよね。何か聞いてないですか」
頭の中で考えていたのは、「おい」という呼びかけに対し、「老い」という言葉でなにか洒落た返しができないかということだ。
「先輩も選挙に立候補している」
「俺たちは清水 稲穂のファンクラブなんだ。情報がほしい」
「ぜひ、投票したいんですよ」
「でも彼女が本当に投票を望んでいるのか分からない」
三人が一斉に言うから、話に「追い」ていかれそうになって、心の中で満足した。
「友達に無理矢理、応募させられたみたいですよ。売れっ子アイドルみたいですね」
「本当か。それなら、投票はやめておこう」
「待ってください。彼も生徒会選挙に立候補しています。我々の組織票が清水 稲穂に流れないようにしているに違いありません」
「なに。おい、お前、それは本当か」
「その、本当か、というのは口癖ですか?」
「は?」
「こいつ、話を逸らそうとしています」
面倒くさい人たちに絡まれてしまった。稲穂にファンクラブがあるなんて初耳だ。そんなベタな漫画のような組織がこの学校にあったなんて。生徒会長になったら、真っ先に潰そう。もしくは、俺が組織を牛耳ろうか。そうだ、生徒会の下部組織にしてしまえばいい。
「あの、本人に直接聞けば答えてくれると思いますよ」
「お前は馬鹿か。本人に聞けないから、こうしてお前に聞いているんだ」
「あ、じゃあ、選挙で俺に投票してくれたら教えますよ」
「なに?」
「隊長、聞く相手を間違えました。選挙管理委員会の人に聞きに行きましょう」
三人は挨拶もせずに歩いてどこかへ行ってしまった。
稲穂はああいう頭の悪そうな人間が嫌いだろうな。てか、嫌いであってほしい。
そよ風クラスの台風が去って、二組の教室に戻る。
すでにお弁当を食べ始めていた上沢にクラフトコーラを渡す。山瀬も、長谷川もお弁当だ。三人とも家庭の味付け。何度か食べさせてもらったことがあるけど、同じおかずでも味が異なる。
今日の昼ご飯は、おにぎり二つとラーメンサラダ。机の上に並べたら、十分満足できる食事だ。いつも、四人で食べている。机をくっつけるとか女々しい関係ではない。近くに固まって、スマホに目を落としながら会話も少ない。
幼馴染と呼べるだろうか。
俺は教室の後ろの方で佐藤と一緒に食べている稲穂を見た。いつもは布浦もそこにいた。
「嫌なこと聞くけどさ」
山瀬は口の中のものが残ったまま、もごもごと呟く。
「オブラートに包んでね」
「うん」
「それで?」
「あの子に勝てるの?」
たしかに稲穂は、クラスのマドンナで、アイドル的な人気で、高嶺の花。ファンクラブもあるみたいで組織票も期待できる。選挙で戦うとなったらかなりの強敵。山瀬の懸念もまあ分かる。でも、ぬるい。
「余裕」
決めセリフのように言ってから、塩で味付けされたシンプルなおにぎりを齧る。上沢はおもむろに立ち上がった。咀嚼しながら横目で眺めていると、窓を開けベランダに積もった雪に半分飲んだクラフトコーラを刺した。まるで天然の冷蔵庫。
「余裕って、そんなことはないでしょ」
「かわいいじゃ勝てないよ」
「?」
「なあ」
上沢が話を遮る。
「100円のシールが貼ってあった」
「うん」
「いや、つり銭は?」
どうやら奢りというわけではなかったらしい。
「じゃん、けん。ぽん」
グー。
上沢はパー。
俺は財布から400円を出して、上沢に渡した。
ケチなやつだ。