8話 女の子の濡れた靴下
山瀬は裸足だった。上履きを履き潰し、サンダルのようにして教室に入ってきた。両手に持っている靴下を見て、なんとなく状況は想像できた。苦々しい顔から、どんな言葉が出てくるのか楽しみだった。
「……」
山瀬は無言で俺の前を通り過ぎた。足を上げると踵が浮いて、足を下ろすとペチンと鳴った。不機嫌を振りまくように、わざとらしく歩いている。教室の一番前、ストーブに近い窓際の席から二番目の場所に俺の席はあった。無言で通り過ぎるときに、背負っていたリュックを俺の机に乱雑に置く。灰色の革がちょっと濡れていた。俺よりも後に学校に来た人は、家を出るときの晴れに騙されて、突発的な雪に襲われた。ストーブの近くで立ち止まった山瀬は、両手に持っていた靴下をストーブにかざした。スキーとかの後にやっているやつをよく見るが、実際これで濡れた靴下が乾いたやつを見たことがなかった。
「ディズニーのさ、アリエルの場所あるでしょ?」
「うん? うん。あるね」
「消雪パイプに似てるやつあるじゃん」
広場にある水を飛ばしてくるカメとかイルカとかのやつが頭に思い浮かぶ。
「マーメイドラグーンにあるアリエルのプレイグラウンドのマーメイド・シースプレー」
左隣の席で静かに本を読んでいた長谷川が、正式名称を教えてくれる。
「やらかしたなあ……」
どうやら山瀬は雪の日にずいぶんとはしゃいで登校したみたいだ。消雪パイプは避けられないし、そこに雪が降ってきた。それ以上濡れるのを嫌い急いで学校に向かうと、校門を抜けた先は水浸し。急いでいたら水が深いところに足を突っ込んで、靴に浸水してくるのも想像できる。踏んだり蹴ったりだっただろう。
「掲示板見た?」
長谷川は山瀬に聞いた。窓の外を見るとあの時降り始めた雪は勢いを増して降り続いている。
「見てないよ。なんで?」
「見たら乾くよ」
「はい?」
長谷川はいかれたコミュニケーションをした。本のページを一枚めくる。長谷川は探偵だけど、推理小説が苦手だ。ここ最近、読んでいるのはもっぱら中華風ファンタジーの宮廷成り上がり不遇な女主人公小説。長谷川は強い女の子が好きらしい。自分が怖がりで弱いからって言っていた。
「カラッカラになるよ」
「まあ、生乾きでもいいや」
現実世界が楽しい山瀬は小説を読まない。恋が好きな女の子だから恋愛小説とか読んでみたらハマりそうだけど、たくさんの恋を知っている山瀬には、小説の恋は生ぬるく感じるかもしれない。ストーブにかざしている靴下は、確実に温まっているが、乾くわけではないという、やはり生ぬるい最悪の状態になっていた。
「くさそう」
そう呟くと、最悪の靴下が顔へ飛んできた。後ろの席の生徒に迷惑がかかるから避けられない。湿った布が視界を塞ぎ、不快な温度が脳に刺さった。乾いた身体の表面に山瀬の香りが滲んでいく。言葉は出ない。どんな言葉も相応しくない。でも、表現せずにはいられない。特別な付加価値がある布に唇が触れ、ただただ、口を開かずにはいられない。尊厳と引き換えに、感覚を吐露する。
「右だね」
おそらく飛んでくるであろう左靴下でのビンタを避けるため、俺は身体を逸らした。
見えないから分からないけど、顔の近くでヒュンと風を切る音が鳴り、途端に視界が開けた。教室の天井にはジプトーンのぷつぷつ。濡れて重量が上がり火力の高まった左の靴下が、俺の顔にあった右の靴下を巻き取って回収していた。
山瀬は黒板の前の段差に腰を掛け、生渇きの靴下を履きはじめた。濡れた靴下は滑りが悪いようで、思ったようには履けない。山瀬の裸足に引っ掛かりながら、指からくるぶしを隠していく。水虫とかにならないのだろうか。
長谷川は本を閉じた。ちなみに、長谷川が座っている左側の席は、本来は別の生徒の席だった。
「長靴で来たらよかったのに」
「女子高生が長靴? ちびにしか似合わないよ」
「……小さいって言った?」
山瀬は立ち上がった。それは逃げる準備で、悪口の予兆だった。
「ちび」
長谷川が立ち上がると同時に、山瀬は逃げるから、それを追いかけた。
教室の中をペタペタと、濡れた靴下で山瀬は逃げる。
小さな足でこちらもペタペタと、長谷川は山瀬を追いかける。
教室の前のには安寧が戻った。
「元気だね?」
さっきまで長谷川が座っていた席に、本来の持ち主の佐藤 日和が座る。
ふふって感じの笑顔だった。
女子生徒が男子生徒に話しかけるときは大体こうなる。
「いつも通り」
へへって感じの笑顔になる。
男子生徒が女子生徒に返事するときは大抵こうなる。