6話 母性
時刻は深夜一時を回っていた。集中していて気づかなかった。本から顔を上げると、時計が見えた。コタツから足を逃がす。まだ眠れないので、コーヒーを入れることにした。お湯を沸かす。なんてことないインスタントの粉末をおじいちゃんの形見のコップに入れる。端っこが欠けている。でも捨てられない。ティースプーンを用意しているうちに、お湯が沸く。家電は良いものがそろっていた。沸騰したお湯をコップに注ぐ。湯気が顔に当たり熱い。パジャマの上に暖かい半纏という服装だった。
コタツの上にコップを置いた。コタツで食べるかき氷が至高なら、この暖かいインスタントのコーヒーは顔の良い女の子が作るオムライスのようなもので、誰でも思いつくので価値がなくなってしまった普通のものだろう。普通でいいのだよ。深夜の一時だし。
絵都議真司のSF官能小説はそれなりのロジックと壮大な世界観の中でただエロを突き詰めていくのだけど、ここで書かれていることは(まだ半分までしか読めていないけど)初恋を忘れられないやつっていうのは、どうあがいてもロリコンだということ。10歳の少女に恋をしたときの気持ちを大人になっても忘れないことが重要らしい。タイムスリップをするときには哲学的な思想が主人公の頭の中に流れ、それを読んで楽しむというのがこの小説の醍醐味だった。実際、この小説の現実的な部分は、エッチしかないわけだ。そのエッチは十二分にエロいから、期末テストが終わって疲弊した脳の回復に役立つというわけだった。
「あれ。まだ起きてる。悪い子だね」
母さんがリビングに来たから、あわてて本を閉じた。内容に反してこの小説のタイトルは『時溶け流形』という全くエッチではないものだったので、表紙を見られるのは問題なかった。母さんは、同じようにパジャマの上から半纏を着ていた。そのパジャマのボタンが掛け違えている。母さんは機能性を損なわない限りは、見た目というのに拘りがない。だから俺が掛け違えを指摘する必要はなかった。
「これくらいの年の男子は、深夜一時に起きているくらいが健全だよ」
「また難しいことを言う」
母さんは俺の反対側からコタツの中に入った。足がぶつかったけど、気にした様子を見せない。湯気が揺らめいているコップを見てから「夜食作ってあげようか?」と呟く。「いらない」と応える。母さんが作れる夜食っておにぎりだ。お昼もおにぎりなのだから、夜にはいらない。
「父さんは?」
「寝ちゃった」
コタツの上の本を滑らせて膝に落とす。対面にいる母さんからは見えない位置で本を開き、続きを読み始める。
「嫌じゃなかった?」
「なにが」
「清水さんとの婚約」
性格の悪さは母さんに似た。気まずいとかいう感情はないようだ。鈍感そのもの。ニコニコと笑っていて、まるで息子と恋バナをする母親のようだが、その恋というのが自由恋愛でないという問題があった。俺がこれに対して良し悪しを語っても、良いと言えば厳しい家庭事情に配慮しているように聞こえるし、悪いと言えばツンデレに聞こえるのだから、ここは上手く話しを逸らす。
「稲穂の方は嫌がってたけどね」
「そうなの? 見る目がないのね」
親ばかというのだろうけど、息子の自由恋愛は願わないというのは、どういう思考回路なのだろう。
「俺が嫌というより、親の言うことを聞くのが嫌みたい」
「反抗期なのね」
「このくらいの年の女の子は、その方が健全だよ」
「また、難しい」
母さんはアルコールが飲めないし、苦い食べ物が嫌いだ。基本的に、身体が危険だと認識するものを嫌う傾向がある。母さんの言う、難しい話というのも、その実態は自分にとって都合が悪い話という意味だ。そういう都合の悪さを、母さんは受け入れないで生きて来た。それを大人というのだろうか。幼稚で、未熟。だけど、母親。
「母さんは、稲穂が気に食わないの?」
そういうのよく聞く。母さんは稲穂にとっては姑という関係にあたる。窓枠を指でなぞってついた埃を、ため息で吹き飛ばしたりする。新妻をいびったりしているイメージ。
「かわいい女の子には気を付けた方がいいの。毒を持っているから」
「それは自虐?」
「?」
会話にならない。俺に性格が毒々しいよと悪口を言われていることも、かわいいと褒められていることも気づくことができない。父さんは直球な人だから、母さんを落とすのは簡単だっただろう。俺は遠回しで面倒くさい人間だから、母さんと話が弾まない。いちいち、母さんの疑問符が挟まる。そのくせ母さんは、俺と会話をしたがる。俺も息子だから、それを受け入れる。
一桁歳のころの初恋が母親だった場合のマザコンは、どうやったら治るのだろうか。