4話 おにぎり おむすび
母さんが何もできない人だから、父さんはハウスキーパーを雇った。家はいつも綺麗だったし、服からは良い匂いがした。何もできないなら、何もしなくてよかったのだけど、母さんはキッチンだけは譲らなかった。初めは困っていたハウスキーパーさんも、そんなこと仕事には含まれないのに、母さんに料理を教えた。そもそも親切なおばさんだった。俺にも優しかった。母さんはおっかなびっくり包丁を握った。何度も指を怪我するから、ピーラーに握り替えた。それでも母さんの指は、いつも傷だらけ。俺の家の料理は味が薄かったり、じゃがいもが崩れていたりするけど、おにぎりが美味しい。それで十分だった。
「包丁が怖かったり、火が苦手でも料理はできるから」
「……うん」
調理実習で同じ班になった長谷川 凛は、理科の実験でマッチが擦れず、算数の時間にはコンパスで怪我をした。今日の家庭科にもビクビクおびえ、それでもエプロンと三角巾は似合っていた。長谷川の特徴は低身長だけど、小学生だと背の低さはそこまで目立ってはいなかった。
「どうしても無理なものは任せて」
「……ありがとう」
そもそもおにぎりに包丁はいらない。
精米された米がビニール袋に入れられて各班に配られる。おにぎり四つ分。
自分たちで作ったお米で、おにぎりを握りましょうと先生は言う。
「家で見るのと変わらないな」
この白米が本当にあの日左手で掴んでいた稲穂なのかは分からない。
あれから清水とは会話をしていない。廊下ですれ違い、教室で薄っすらと手が触れ合い、そのくらい。よくあるクラスメイトの話。友人も違えば、住んでる地域も違う。すれ違っても、交わらない。はずだったけど。
長谷川はジャコジャコと米を洗う。水を流して、また入れて、白く濁らなくなるまで繰り返す。綺麗になった米を鍋に移し替えて、新しい水を適切な量まで入れ、蓋を閉めたら、コンロで火にかける。
火を着ける瞬間、長谷川がピクっと跳んだ。
「大丈夫?」
「……ちょっと危ないくらいが料理は美味しいんだと思う」
「よく分かってんじゃん」
生牡蠣を食べて腹を下したことを思い出す。
思い出しながらあとは待つ。
待っている間に洗い物をする。
それも終わったら、ゆらゆら揺れるガスコンロの火を眺めながら、壁に背中を預ける。
「……普通の鍋でも米って炊けるんだね」
無言を嫌って長谷川が呟いた。
彼女の瞳の中で、火が輪になって踊る。
ブクブクと沸騰している音が聞こえる。
無理のある疑問だった。
「家では炊飯器?」
「うん」
「ウチで母さんが拘って土鍋で炊くこともあるかな」
「あ、そっか」
長谷川は何かを思い出したかのように「カレー」と呟いた。
その呟きで彼女が何を思い出したのか分かる。
「自然教室で飯盒使って炊いたよね」
「うん。おこげ美味しかった」
「今日もできるよ」
「そうなの?」
俺たちの班よりも先に火をかけていた班が蓋を開け、炊き立ての米の匂いが調理室に漂った。「早く開けようぜ」という男子生徒に、赤子泣いても蓋取るなって言葉を教えてあげる。「赤子なんていない」と彼が言うから、赤子は君だと教えてあげる。そしたら泣いてないって返してくるから、泣かせてやろうかと思ったけど、へへっと笑うような社交性をみせる。
ボーっと時計を眺めていた長谷川が「時間だ」と呟く。
コンロの摘みを反転させて、火を消した。
蓋を開けると湯気がぶわっと広がって、長谷川の小さな顔を襲った。
しゃもじを使ってひっくり返すと、やっぱり焦げ茶のおこげができていた。
それを見た長谷川は、お腹の虫が五月蠅い様子。
さっき時間を確認したときには11時半だった。
「もう握っていいの?」
「まだダメ。少し冷ましてからじゃないと火傷する」
火傷なんて怖い言葉を使ったから、それから長谷川はビクビクしながら米と向き合うことになってしまった。
湯気がそれなりに収まって目測で触れそうな温度になったので腕をまくる。
手に水を付け、塩を伸ばし、四等分の米を乗せる。
家庭科の教科書に書いてあった、おにぎりの握り方。
「……あっち」
まだ熱い。でも熱いくらいで良い気もする。
手の中で米を転がし、空気を入れながら形を整える。
そもそも握る意味ってなんだろうか。
手の中にある米の温度に顔を歪ませながら、米を丸める理由について思いを馳せた。
「……うん」
出来上がったのは、丸いか、三角かのおにぎり。
一人一枚、海苔が配られた。
受け取った瞬間、口の中にいれる。
口の中でパリパリと鳴る。
「海苔まかないの?」
長谷川は丸いおにぎりの底辺の、海苔を巻きつけた。
「海苔が濡れてふやけるの、嫌いだから」
「ふーん」
濡れた海苔が妙に嫌い。
ラーメンの中に入っている海苔とか。
パリパリとした海苔が好きだった。
「もともと水の中にあったのにね?」
「……」
長谷川を無視する。
一瞬、確かにと思ってしまった。
でも、濡れた海苔を食べる人はいるけど、海に生えている海苔を直接食うやつなんていない。わざわざ乾燥させているのだから、濡らしてふやかして食べるよりも、パリパリのままの方が正しいのではないだろうか。
「ねえ。乾燥わかめも水で戻さないの?」
「乾燥わかめの名前が、わかめだったら、そうかもね」
目の前のおにぎりと向き合う。正真正銘、しかし少し塩で穢されたおにぎり。
純度100%じゃないけど、自分で握ったおにぎり。
そういえば、と思い出して稲穂を見た。
三角巾を外して、でもエプロンは着けて、長い黒髪を晒し、親友にバカにされながら指摘され、口の横に付いた最後の一粒を舌で拾って口の中に入れる瞬間の、困ったような笑顔が見えた。
「ごちそうさま」
「逆だよね?」
「……いただきます」
指圧で身体が崩れそうになる。海苔を巻いてくれないから、生まれたままの姿で恥ずかしい。少しくらいオシャレをしてみたかった。隣の女の子のおにぎりを見ろ。黒くてカッコいい海苔を巻いている。白い身体を晒したまま、口に近づいていく。まあでも、彼に作られ、彼に炊かれ、彼に握られ、彼に食べられる。彼のセンスに身を任せる。少し照れながら、小さな一口で意識が消える。
「うん。うん」
うんうん言いながら咀嚼をしている俺を、稲穂がこっそり眺めていた。それを気にすることなく、目を合わせてみたけど、稲穂の方から先に視線を逸らした。おにぎりを食べている俺を見て、変な妄想をしてる顔だった。
どんなことを考えていたかは分からないけど、田んぼでの話を思い出していたのかもしれない。
俺の隣でパリっと鳴った。
長谷川はリスのようにほっぺを動かして、おにぎりを頬張っていた。
「ほいひい」
普通にパリパリみたいだ。
そんな簡単にふやけるほど海苔も乾ききっていないらしい。
じゃあ巻けばよかった。
長谷川は口の中の米が減ると、なぜか食レポを始める。
「おにぎりに海苔を巻くのは、塩が海を連想させるからだね」
なぜか得意気に。
「やっぱり海苔を巻いた方が美味しいよ」
彼女があまりにも美味しそうにおにぎりを食べるから、思わず聞いてみたくなる。
「一番美味しいおにぎりってなんだと思う?」
「そんなのは簡単」
長谷川はやっぱり得意気になった。
「好きな人と食べるおにぎり」