2話 およそ主人公
水族館は少し暗くて、男の子と二人で並んで歩くには怪しい雰囲気だった。涼くんはそんな雰囲気を気にせず、水槽で泳いでいる魚たちを指さして、私にたくさんお話をしてくれた。魚が好きなのかなと思ったけど、お昼は回転寿司でたくさん食べていたのを思い出す。どちらかというと雑学が好きなのだろう。あ、でも私、馬が好きだけど、馬肉も美味しく食べるから、あんまり関係ないかも。
「ほら、イソギンチャクに隠れている」
涼くんは、水槽の中に生えている触手を指さした。
その近くには、もにょもにょに隠れている小さなオレンジ色でしましまの魚がいた。
「ニモ?」
「そう。クマノミっていう魚。一番大きなオスがメスに性転換するんだ」
「へー。とれちゃったのは、チンアナゴになるの?」
「模様は、似てるね?」
そんな会話をしながら、水族館を歩いた。
「稲穂は男と二人で水族館に来た事、ある?」
やっぱりこれってデートだと思う。
これがデートだと思えば思うほど、涼くんの背中の女の子が、私たちの娘にも思えてきた。
なんだか生き急いでいるようにも思えるけど、私たちの関係っていうのは、そういうのを肯定するようなものだった。
涼くんがそれを願ったわけでも、私が願ったわけでもない。
私たちの親の問題だ。
「この子たちは、ここで生まれて、ここで生むの?」
「……さあ。でもたぶん、そう」
「みんなは海を知ってるのに、可哀想」
私はこの水族館にある一番大きな水槽を見ていた。日本海を表現した、なんだか田舎のような水槽だった。大きな水槽なのに、田舎に見えるのは、この中の魚が、私に重なるから。涼くんにも見えるけど、彼のことを私が勝手に決めつけるのは、酷いからしない。
「海よりも大切なものがあるかもよ」
「この水槽に?」
「うん」
「例えば?」
「友達とか、恋とか」
涼くんは浮ついたことを言った。
水槽の中にも青春があるのだろうか。青も、春もあるようには思える。
その水槽にヒビが入った。
入れたのは私だ。
「涼くん、青春の危機だよ」
水槽の危機だ。
私はこんな水槽の中で青春なんてしたくない。
広い海に飛び込んでやるんだ。
◇◇◇
清水 稲穂はクラスのマドンナで、アイドル的な人気で、高嶺の花。彼女がクラスにいることで高校生活が華やかに思える。例えばビルゲイツが離婚したときにワシントン州の独身男性の平均資産が500万円増えたらしい。そんなかんじだ。彼女一人で、クラスのかわいい平均が狂ってしまう。そんなにかわいいのかと聞かれたら、小学校、中学校ではそこまでではなかったと思う。少なくともクラスのマドンナではあったけど、アイドル的な人気も、高嶺の花感もなかった。やっぱり高校に入ってからだ。清水のそれを高校デビューと呼んでしまうと、やっぱり高校デビューの平均が跳ね上がってしまうので、やめよう。とにかく、一年生のときは別のクラスだったけど、清水 稲穂の名声は高らかに聞こえてきた。
そんな女の子と付き合えたら、うんぬん。
そんな女の子と恋人になれたら、かんぬん。
あーだこーだと言われていたけど、清水 稲穂に男の噂は一切なし。
どこか存在が神格化されている気がする。
男と水族館なんて来たことないんだろうな。
「ないよ」
俺の目下には魚がいた。泳いでいる魚じゃない。甘い匂いのするタレで煮られた、おそらくタラ。輪切りの生姜と一緒に、立派な皿に盛りつけられている。箸で身を崩すと甘い匂いが広がって鼻を突いた。はしたなく白米にバウンドさせたい庶民の心をグッと抑え、崩れた身を箸で摘んで口まで運び、降る雪を吸い込むように招き入れた。
変な顔になっていたと思う。
だって目の前にいる稲穂も変な顔をしていたから。
お互いに目があって逸らす。
用意された高級な食事を食べる。
美味しすぎて変な顔になる。
またお互いに目が合って逸らす。
そんなことを何度も繰り返している。
「涼君は」
「はい」
稲穂の隣に座っていた男性に声をかけられ、俺は小さく返事をした。
「学校ではどういう子なのかな?」
物腰が柔らかく良い年齢の重ね方をした中年の男性。セミフォーマルな服装で、今日の食事の意味を教えてくれる。格式張っていないけど、ただの食事ではないということ。自分の服装に意味を持たせることができるのは、やっぱり良い大人だ。そして良い大人が、良い親とは限らない。少なくとも稲穂にとっては。
「どう、とは?」
この店に入ると、広い玄関に大きな水槽があった。水槽には、アロワナが泳いでいた。食事の匂いは一切しなかった。ステーキ屋ならステーキの香りが、ラーメン屋だったらラーメンの香りがしてくるのが飲食店だと思っていたけど、この店は池に水が落ちる音と、自然の匂い。飲食店に門があるというのも珍しい。靴を脱いで、板間の廊下を通り、障子を開けると広い机に四つの席が用意されていた。正座で案内する店員さんよりも、俺の方が腰を低くしながら、ペラペラの座布団に足を曲げて座った。こういう高級な店の座布団は、ふかふかだと思っていた。天井は高く、壁には上品な虎の絵が描かれ、目の前の料理こそが絶景。景色から匂いの話に戻せば、一人一つ用意された小さな鍋が開かれたときに、すき焼きの匂いがようやく蔓延した。
俺の隣には俺の父親が座り、稲穂の隣には稲穂の父親が座った。
稲穂の周りにガラスの囲いを作っているのは、この人だ。
それなりに広いテーブルには、未完成の食事が用意されていた。食事を始めると、稲穂の父親が足を崩したので、俺もそれに倣う。足を延ばして座りながら、無言で料理を食べていると新しい料理が運ばれてくる。
すき焼きの匂いが消えた頃、甘く煮込んだ魚が運ばれてきた。
水族館では魚を愛でた。魚は裁かれて、目の前に現れた。俺はそれを美味しく食べることができる。
でも思えば、昼も魚だった。
水族館に行く前に稲穂と二人で食べた回転寿司。
「君の学生生活が、娘の婚約者にふさわしいものか、どうか」
足の裏を突かれる。料理が並んだ机の下で行われる交信。稲穂からのメッセージだ。片方が伸ばして届く距離ではない。俺が右足を伸ばして、稲穂は左足を伸ばす。靴下の上からだけど、稲穂の指圧を感じる。トントンと何度か足の裏を突かれる。そしてツーとしばたく足の裏を押される。おそらくモールス信号のつもりなんだろうけど、そもそも俺はモールス信号を日本語に変換できない。ただ足の裏がくすぐったいだけなのに、無駄なスリルを感じる。これじゃあ親戚にバレないようにコタツの下で足を絡め合っているみたいだ。
「普段は生徒会で活動しています」
「ほう。それは良いことだね。稲穂とはどうかな?」
「それは……」
すごい勢いで稲穂に足の裏を突かれる。キツツキみたいだ。
顔を見てみると、机の上では稲穂はすました顔をしている。
そのギャップに思わず笑いそうになる口元を引き締める。
普段、友達といるときの稲穂はよく笑っている。クラスでもケラケラと笑い声が聞こえてくる。その稲穂と俺はあまり話したことがない。小学校、中学校と同じ学校だったのに、同じクラスになったのは高校二年生になって初めてのことだった。
「積極的に話をする関係ではありませんね」
「あまり仲良くはないのかな?」
「そうですね。とはいえ、悪くもないです」
「学生の関係は難しい」
稲穂に二回、足を突かれる。チャンスだよって言われているのに気づいた。
「クラスメイト四十人。個性も能力も違います。稲穂さんは、俺にとってはその四十人のうちの一人というだけです。稲穂さんも同じ気持ちでしょう。しかし、周りはそうは思っていないようで、自分で言うのもあれですが俺は人気者ですし、稲穂さんは有名人なのでいらぬ噂もいくつかあります」
「ふむ」
稲穂のお父さんは学校での俺と稲穂の関係がいまいちピンとこない様子だ。稲穂のお父さんが学生だったのはだいぶ昔の話だから、当時の感覚が思い出せないのも仕方がない。昔の今も教室の形は変わっていないはずだ。俺は教室の左下、ストーブに近いところに集まっているような学生で、稲穂は教室の右上、廊下に近いところで集まっている学生だということ。廊下や教室ですれ違うことはあれど、視線が交わることはない。そんな関係だ。
「例えば、稲穂さんと俺が婚約していることが広まると、一時的な騒ぎになります。嫉妬やからかいの声も多くなるでしょう。もしかしたら、今度の生徒会選挙にも影響があるかもしれません。少なくとも、日常生活に影響は出ます。俺と稲穂さんが修学旅行で同じ班になれるように忖度があったり、学生間で遠慮が生まれます。女子生徒は俺に近づき難くなりますし、男子生徒は稲穂さんに近づき難くなります。少し困りますね」
「なるほど。では婚約の件は君たちが高校を卒業するまで秘密だ。涼君の勉学に影響がでたら私も困る」
稲穂は机の下で俺の足の裏に〇を描いた。
どうやら秘密という言葉が稲穂のお父さんの口から出たことにご満悦のようだ。
少し顔に出ている。
ちょっとだけからかいたくなった。
「ですがそもそも稲穂さんに男子生徒は近づき難いですね」
「どうしてかな?」
「稲穂さんは高嶺の花ですから」
足の裏を思いっきり蹴られた。