まぁ拇印でいいじゃろ
その瞬間、私の中からいなくなってしまったのを確かに感じた。温もりの残った座布団だけがそこにある様な、その空間に隙間風が通り抜ける様な。ものすごく寂しい感覚だった。
「おかえり。」
とタマモちゃん。春姫ちゃんに言ったのだろう。タマモちゃんも春姫ちゃんと別れて寂しく思っていたのだろうか。
「うん。うん。そっか、わかった。」
タマモちゃんが春姫ちゃんと会話?している。傍から見ると独り言にしか見えないが、『うん』の時にちゃんと頷いているのが非常に可愛らしい。
独り言、もとい、タマモちゃんと春姫ちゃんの二人の会話が終わるとタマモちゃんは起き上がり私から離れてしまった。残念極まりない。
「ケイよ、まずは社員契約を結びたいのじゃが良いかの?」
「はい、よろしくお願いします。」
タマモちゃんが春姫ちゃんに変わってる。そして名前で呼んでくれた。さっきまで「おぬし」だったから何だか新鮮な感覚である。
と、私もいつまでも寝転んでいないで起き上がらねば。
「書類を持ってくるので暫し待っておれ。」
春姫ちゃんはそう言うと、部屋から出て行ってしまった。
書類を取りに行く先は、この家の中か、それともこの家の前にある建物か、はたまたそれとも別の建物か。
暫しとはどのくらいかわからないけれど、とりあえずお茶をいただいて、少し落ち着こう。
イズナさんにプロポーズする前に就職できるのは非常に有り難い。
……あ、でも、今印鑑とか持ってないじゃん。拇印でもいいのかな?
それに給料とかの振込先とかもどうしよう。こっちの口座を早く作らねば。
ああ、契約か済んだら、いよいよイズナさんにプロポーズである。
緊張する。
あ、でも、今ご飯作ってくれているよね?時間とって貰うのは迷惑だろうか。それとも術を使っているから大丈夫なのかな?
タイミングについて春姫ちゃんに相談したいけど……いろいろ全部終わってからでいいかな。
あれ?よくよく考えたら、そうだ、そうだよ、私は妖精になったわけだし、文字通り「いくらでも待ちます!」が出来るわけだ。数百年単位で可能になったんだ。
イズナさんが私と一緒になることを選んでくれても、イズナさんは夢を諦めなくて良いんだ。
致すことは出来ないけれど、私は未だ童貞であるため、致したいと妄想はしてしまうが、いざ実際にという時はビビってしまうだろう。むしろじっっっくりと心の準備が出来るというものだと考えてしまえば良いのでないだろうか。
そして何より、狐耳や尻尾をもふっても良い間柄になれるということなのだから、そこまで苦もなく待つことが出来るのでないだろうか。
うん。そうだ。
「戻ったぞー!さあ契約じゃ!」
考えがまとまったタイミングで春姫ちゃんが帰って来た。あまり時間経っていないし、書類はこの家の別の部屋にあったのだろう。
「あの、そういえば、印鑑とか持ってきてないんだけど、急いで取りに帰った方が良いかな?」
「いや、霊力紋……ああ!そうじゃ、まだ無いんじゃな。まぁ拇印でいいじゃろ。」
「拇印でいいんだ。……その、霊力紋って何?」
「霊力で作り霊力を使って捺す、印鑑みたいなもんじゃな。本人以外誰も使えないから、個人認証として重宝するのじゃ。おぬしもそのうち作ろうの。」
「そんな物があるんだ。神域では全部それになるのかな?契約時だったり、宅配便の受け取りだったり?」
「そうじゃの、何でもこれじゃの。一度作って固定化してしまえば、後は楽じゃし、持ち運びとかもないしの。」
「持ち運びがないというのがよくわかりませんが、とても便利そうなのは解りました。」
「イメージとしてはアレじゃ、具現化系の念能力じゃ。」
「解りやすい例え!確かに持ち運びとか関係ないし、思った時に出せる。すっごく便利!」
だが、もしかして、印鑑をずっと眺めたり舐めたり嗅いだりしなきゃいけないのかな……?印鑑の夢ばかり見る様になるのかな……?
「いや、そんな事はせぬぞ?霊力紋制作補助の道具があるからもっと簡単に出来るぞ?」
ぬわっ!?
心が読まれている?
……嬉しい!!!
「違うぞ?おぬしの表情から読み取っているだけじゃぞ?わかりて選手権優勝じゃからの。」
それはそれで嬉しい。
「それじゃ、この書類を読むのじゃ。読んで納得したら拇印をこことこことここに頼むのじゃ。って朱肉が必要じゃな。おぬしがそれを読んでいる間に取って来るとするかの。朱肉は普段使わぬから家に無くての、表の建物まで取りに行ってくるのじゃ。じゃ、質問があったら後での。」
春姫ちゃんはそう言うとまた部屋を出て行った。
では今のうちにしっかりと書類を読み込まないと。
とはいえ、紙はたったの三枚だけ。しかも書いてある文章は三枚とも同じだ。いや、同じかどうかもちゃんと確認しないと。
三枚ともしっかりと読む。読み込む。
内容はかなり簡単だ。私がおかしなことをしない宣誓みたいなものと、神域が私を守るというものと、私が何かしてしまった場合神域が最大限保証するというものと、日本政府に積極的に敵対しないでね、年一回の面談も可能な限り受けてね、そんな内容である。
え?こんな簡単でいいのか?とは思わずにはいられない。私がやらかしてしまった場合、神域が保証してくれるってのが特にヤバいと思う。このへんは後で春姫ちゃんに質問してみよう。




