七、たそがれどきにひとり
途中の襲撃に怯えながら、重い書類の山を抱えて再度職員室へ。
今日中に終わると思っていなかったのか、驚きの表情を浮かべる担任にそれを押し付け、一人帰路へ。
もうほとんどの生徒が部活へ向かったか帰宅したか。
がらんと寂しくなった玄関で靴を履き替え……ようとして、先に取り出した靴を逆様にして振る。
「……はぁ」
ばらばらと零れ落ちる画鋲。ついでに下駄箱の中に入れられた紙屑を取り除き、塵箱に入れる。
いつもの事だ。今朝も同じ事をした。
数えるのも億劫なほどに繰り返した所為で、日課のようになっている……その度に思う、暇すぎやしないだろうか。
「飽きたならやめればいいのに、こんな事繰り返して……馬鹿みたい」
誰も見ていないし聞いていないから、好きにぼやける。
以前は汚された靴を見て涙ぐんだり、画鋲が手に刺さって呻く様を遠目から眺めて、くすくす笑う女子生徒の姿が見えた。
だが、今や準備だけしてさっさと姿を消している。
向こうにとってもただのルーチンになっているのかもしれない。
だがそんな事はどうでもいい。
野球部の掛け声と、球を打つ甲高い音が聞こえる。部活も終盤が近そうだ、早く帰らねば。
学校の門をくぐり、生徒に目をつけられないうちにと早足で歩き出した瞬間。
【うおっ、あの子乳でかっ】
【何カップあるんだ、あれ……しゃぶりつきてぇ】
【最近の餓鬼は良いもん食ってるからな…】
【くっそ…ぶるぶる揺れて誘惑しやがって、触らせろよどうせビッチのくせに】
怒涛の勢いで流れ込んでくる〝声〟に顔を顰める。
ちらりと視線をやれば、帰宅途中の中年男性や塾帰りらしき小学生、その他大勢の男性の視線が集中する……気がした。
【あの姉ちゃん、おっぱいでっか!】
【あれ触ったら気持ちいいかなぁ~、触りたいな~】
【あんな姉ちゃんと結婚したら好き放題できんだよな? 最高じゃん】
【母ちゃんもあれぐらいあればよかったのに、マジで使えねぇよあのくそばばあ】
【いい乳してんなぁ……誘ったらヤれねぇかな】
【……三次元の女も、いいな】
どいつもこいつも、伝わってくるのは色欲に塗れた下卑た〝声〟ばかり。
形を持った視線が自分の胸に突き刺さってくるようで、つい鞄を抱えて身を隠したくなる。
同性の悪意にはそれなりに耐性が付いたつもりが、これには何年経っても慣れない。吐き気が凄い。
「うぷ……」
実際に催しそうになり、咄嗟に口を押さえて歩く速度を上げる。
視線から逃れたかったし、こんな往来で吐こうものなら大騒ぎになる。さらに注目され、母に心配をかける事になろう。
【顔もいいな】
【あの不安げな顔、グズグズの泣き顔にしてやりてぇ】
【拐えばいけるか、気が弱そうだし脅せば何回もヤらせてくれそうだな……いやいや、流石にな】
【……もう少し人混みが多ければ触っても気づかれんか。なに、騒いでも怒鳴りつければ黙るだろう、あの手の餓鬼は】
……本格的に身の危険を感じてきた。
時たまある事だが、この時間帯の男達は特に危ない事を考える者が多いようだ。
人混みは駄目、人気のない場所も駄目。
もう、他人と一定の距離を保ったまま歩き続ける他に、自分にできる事はない。
「……最悪」
口癖となってしまった、悪態。
小さく呟き、只管に足を動かす。
そうして、安全地帯である自宅を目指していた時だった。
《 美 味 ソ ウ 》
ぞわり、と全身が凍りつく。
思わずがばっと振り向き、その〝声〟の主を探す。
だらだらと冷や汗をかき、瞬きも忘れて辺りを見渡す。
#それ__・__#は何かが違った。明らかに他の〝声〟とは異なる……何か、圧のようなものを感じた。
【何だ? 何してんだあの子?】
【急にきょろきょろし出して、なんか気持ち悪いな……】
【俺の視線に気づいたか…? 目ぇ逸らしとこう】
【うへへ……すげぇおっぱい揺れてる、うへへへ】
恐怖に顔を引攣らせ、探す。
胸を凝視していたハゲ頭のサラリーマンか……違う。
何事かとこちらを見つめてくる若者か……違う。
鼻の下を伸ばすいかにも猿な顔の小学生か……違う。
視界に映る誰も彼もが怪しく見えて、しかし何故か全員が違うと直感する。根拠はないが、そう強く感じる。
《 美 味 ソ ウ 喰 イ タ イ 》
「~~~~~~っ!!」
鞄を胸に抱き、深月は走り出した。
得体の知れない何か……人ではない何か、などと我ながら頭の可笑しな雰囲気を醸し出す〝誰か〟から逃れる為に。
今もなお感じる視線から逃れる為に、只管に走った。