五、うしろのしょうねんだあれ
「ん~、これかぁ。困るね~、提出期限はきちんと守ってくれないと。しかもこんなにくしゃくしゃ、大変なのは先生の方なんだからね? 不動君は優等生なんだから、責任はしっかり果たしてくれないと……ねぇ?」
「……すみません」
職員室に入り、担任の男性教師に書類を渡して頭を下げると、予想通りねちっこく嫌味ったらしい口調で説教をされる。
本来の委員が誰か把握していなければおかしいのに、彼の目は全面的に深月を責めていた。
「ん~、まぁいいや。ちゃんとしてよね、次から。不動君は真面目だから、何回も言わなくていいと信じてるし」
「本当に……すみません」
「期待してるよ~、優秀な君には期待してるんだからねぇ」
少し肥えた、大柄な男性教師は腫れぼったい瞼と分厚い唇をにんまりと歪めて深月を見つめる。
細まっていて分かりにくいが、間違いなく彼の視線は深月の胸に向けられていた。
【H……いや、もうIくらいあるか? 揉みてぇ~、俺のクラスにこんな爆乳美少女が入ってくるとかラッキー、超ラッキー♪ 揉みてぇ~、こういうおどおどしてる子を組み伏せて泣かせながら思いっきりヤったら気持ちいだろうな~♡ どうせ本人も夜には誰かと遊んでるだろうしなぁ、武宮の糞野郎とか。あの野郎顔がいいからって俺の深月ちゃんにべたべたしやがって、その上女子にちやほやされてむかつくんだよ! 適当に内申点下げて追い出してやりてぇけど、無駄に気遣いできる所為で中々手を出しづらいんだよなぁ。正直今すぐぶっ殺してやりたいぐらいに嫌いだけど……あぁ、揉みてぇ~】
顔こそ真面目を取り繕っているが、聞こえてくるのは色欲にまみれた〝声〟ばかり。
よくこんな思考の持ち主が教師になれたと思ったが、外面を取り繕う巧さでここまでやってきたのだろうと、深月は内心感嘆する。
「……書類はすぐに提出し直します。すみませんでした」
「んん、気をつけてね」
【俺の手を煩わせた詫びとしてヤらせろ……なんちゃって。でも弱みを握ればそれもありかぁ?】
悍ましい欲望を胸の内に隠す教師。
彼の視界から逃れようと、深月は慌てて頭を下げて踵を返す―――今度は自身の臀部と太腿に視線が集中しているのを感じながら。
物心ついた時には、それは聞こえ出していた。
他者が発する、内なる声。本音、と呼ぶべき悪意に満ちた声が、幼き頃から深月の心を責め苛んでいた。
これがあって便利だと思った事はない。
例えばごく普通に友達と遊んでいる時、ふざけあっている時に不意にそれは聞こえてくるのだ。
深月は唐突な悪意に戸惑い怯え、彼女の友達は口にしていない本音を悟られた事で恐れ慄き、互いに恐怖を抱いて距離を取るようになる。
口から放つ声と勝手に聞こえてくる〝声〟の区別のつかない幼い深月には、周囲の全てが敵としか思えなくなり、一時は不登校になりかけた。
それでも母に心配をかけたくない深月は状況に耐え、悪意ある〝声〟が聞こえないふりをするようになった。
これはただの幻聴、勘違い、そう思って自らの心を守ろうとした。
だが成長し、体が女らしくなってくるとそうはいかなくなってくる。
元から可愛らしかった深月がいち早く女らしい外見を持ち始めると、男子達の性的な視線は露骨に、それにより女子達の嫉妬の感情も大きく膨れ上がってきた。
それらを全て気の所為だと誤魔化し続ける事は、もはや深月には不可能だった。
これがもし、他人の本音を自由に聞く事ができる『能力』であったのなら、深月もここまで苦しまなかっただろう。
だが、この〝声〟は遮る事ができない。
望む望まないに関わらず、そして何よりも、他者の有する〝負〟の感情というべき悪意に満ちた声しか聞こえてこないのだ。
それ故に〝能力〟などと自慢できるものではなく。
自由の効かない厄介な代物―――〝体質〟としか言いようがなかった。
(嫌だなぁ……教室に戻ったら、また聞こえちゃう)
とぼとぼと弱々しい足取りで、本鈴ぎりぎりの時機を見計らって教室の扉を開く。なるべく同級生達と顔を合わせないようにしなければ、また陰口と〝声〟に苛まれ針の筵となる。
がらがらと引き戸を開けると、案の定いくつもの視線が自分に向き、深月は溢れそうになる溜息を押し殺す。
そんな時だった―――ある違和感に気付いたのは。
一人分、人影の数に比べて、自身に向けられる視線が足りない事に、ほんの一瞬気付く。
隙間のような何かが空いたその場所を振り向き、その人物―――窓際の席で一人ぼんやりと空を眺めている男子生徒の姿を視界に入れる。
(あの人は……えっと、確か、御堂環くん、だっけ)
敵意と色欲に満ちた教室の中で、何の感情も、視線すら向けてこない少年。
大して特筆する所のない、平々凡々とした容姿の彼は、まるで前衛芸術的に彩られた絵画に一箇所だけ残された白地のように目立って見える。
しかし、気になっているのは自分だけのようで、他の同級生達は誰一人として彼に注目していない。
彼がいる場所だけ、別の世界にあるようだ……そう、ふと感じた。
初めて感じた―――否、初めて何も感じなかった相手に、深月は逆に意識を奪われる。
しかし直後に本鈴が鳴り響き、我に返った深月はすぐさま自分の席に着く。
机の中を見ると、またしてもくしゃくしゃになった何らかの重要書類の存在に気付き、驚愕で鎮まっていた気持ちがずんと沈み込む。
だが、普段よりもずっとましだったそれを押し退け、隣の席で黄昏ている少年・環を……隣であった事にも今気が付いた……ちらりと見やる。
(……えっちな事に興味ないのかな)
ふと浮かんだそんな感想に、深月は自分で羞恥を覚えて首を横に振る。
それから数秒後、次の教科の担当教師がやってくるまでの間、深月はちらちらと視線を横に逸らし、名前以外何も知らない少年を覗き見し続けるのだった。