三十二、ひとりで
「……なんか今朝の深月さ、強くない?」
時が経って、休憩時間中。
手洗いに向かうために席を立ち、用を足して個室を出た深月の元に、再度人目を忍んで寄ってきた樹希が、やや驚いた様子で話しかけてくる。
「……そうかな?」
「そうかなって……いや、実際にそうでしょ。いつもの深月らしくないっていうか……別人みたいだったよ?」
「んー…そんなつもりは、なかったん、だけど。……ていうか、見てたの?」
「え、あ、うん。偶然見えて、さ……」
自分自身の変化にあまり自覚のない深月は首を傾げ、ふと気になった事を親友に尋ねる。
妙に歯切れ悪く目をそらした樹希の態度を訝しみながら、廊下の洗面台で手を洗う。
その間、妙に余所余所しく立ち尽くす樹希の姿が不審で、深月は困惑の表情で親友の顔を見やった。
「……噂で聞いたんだけど、昨日喧嘩したんだって? 烏丸って子と。怪我させたとか刃物持ってたとか、物凄い悪く言われてたよ」
ひゅっ、と反射的に息を呑む。
加えて親友の顔を……どこか居心地悪そうに佇む樹希の姿を前にし、胸の奥に大きな氷の塊ができたような錯覚を覚える。
「……あ、えっと、それ、普通に事故で。倒れた拍子に何かで切っちゃったみたいって、昨日先生達に散々確認されたんだけど……」
「そ、そう? そっか……うん、ごめん。疑ってるわけじゃないけど、ちょっと心配になってね」
やがて、不安げに返された樹希の弁解じみた返答に、深月は得心がいったと思わず頷く。
普段からぞんざいに扱われ、見下されている親友がとうとう自棄になったのではないか……烏丸が怪我をした件で、そんな想像に至ったのだろう。
親友がそこまで追い詰められていたのか、と気付けなかった事に申し訳なさを感じたのか。
……あるいは、深月の不満や苛立ちが自分に向いたりはしていないかと不安になったのか。
「っ…! そ、その、ちょっとした、言い合いになって。揉み合ったっていうか、掴まれて、抵抗してる間に、倒れて、それで……」
一瞬、脳裏に浮かんだ不穏な思考を払いのけるように、慌てて事情を説明する。焦ったせいで言い訳じみた勢いになってしまったが、その所為で樹希もはっと慌てた様子で首を横に振った。
「い、いや! 本当に深月の事は疑ってないから! ただその……噂になってるから気をつけた方がいいって、そう伝えたくて……」
「……あ、ありがとう」
「う、うん。じゃあ、伝えたから、私はこれで……」
最初から最後までぎこちなく、目を合わせようとして合わせられなくなった樹希が逃げるようにその場を後にする。
去っていく背中に咄嗟に手を伸ばし……すぐに力無く落ちる。追いかける気には、もうなれなかった。
来るべき時がきた、そう思った。
樹希はもう、これまでのように関わってくる事はないかもしれない。ぎりぎりで保たれていた関係性が、先日の一件で一気に崩れた、そんな感じがする。
先程の樹希は言葉こそ頼もしいが、態度が全てを物語っている……いつか本当になってもおかしくない、と。
「……もう、無理かな。十年くらいか、よく、こんな関係が持ったものだ、って、感心するべき、かなぁ」
親友として何よりも扱いに気をつけていた深月にとっては……樹希の態度の変化は、然程気になるものではなかった。
もっと胸が痛くなったり、足取りが重くなるものと思っていたのだが……思っていたほどの劇的な心情の変化はなかった。
尤も、樹希を責める気は毛頭ない。
元から外側だけを取り繕った歪な関係で、日々を重ねるごとに強くなるどころか気迫で形骸化したものになりつつあったのだ。今更保つ必要もない。
深月の厄介事に巻き込まれないように距離を保ち続けてきたのだから、こうなる事は決まり切っていたのだ。
これで〝声〟が聞こえ出したら確実だ。
自分が細心の注意を払い、味方寄りの中立の立場を保たせていた彼女が向こう側に行くのは、仕方のない事だと思う。
これで、深月の周りには〝敵〟しかいなくなってしまった……人外の彼らを除けば。
「御堂君の楔、か……なれるのかな。必要としてるようには見えないし、行っても、拒まれそうだし……」
深月は洗面台の淵に手を置き、項垂れる。これまでの努力が全て水の泡になった気分で俯き、濡れたタイルを見つめる。
もう、今更親友を作る気にはなれない。作れそうにもない。
卒業まで、大勢の敵に攻められ、不埒な視線と思考に怯え、孤独に通い続けるしかないのだろうか……辞めるという選択肢はない。母に迷惑がかかる。
未来にこれっぽっちも期待を抱けないまま、しかし然程苦しみのない自分の心に戸惑いつつ、深月は目を伏せ、思考をやめて呼吸だけを繰り返す。
そうして、休憩時間終了間際まで同じ体勢のまま佇み……やがて教室に向かって歩き出す。
ほんの一瞬浮かんだ、このままさぼってもいいかもしれない、という考えを胸の奥底に押し込み……只管に今日の苦行が終わる時を待ち望みながら。




