零、結んで繋いで切り刻んで紡いで
「これはなんとも……酷い有り様だな」
目の前に立った〝誰か〟がそんな事を言ってくる。
顔は見えない。相変わらず。
生まれてこのかた真面に見えた事のない視界は真っ黒に塗り潰されたままで、かろうじて自分の前に何かがあるという事しか伝えてくれない。
見えるものは闇、あるいは黒だけ。
白い紙を黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰した絵のような、汚い景色が見えるだけだ。
いつからだっただろうか。自分の周りがこうなったのは。
「現世との縁が切れかけておるのに、悪縁ばかりがひっついて絡まっておる……どこぞの悪戯者の仕業か、いや、単に本人の巡り合わせが悪すぎた所為か。流石に不憫だ」
なんの話をしているのか、特段機にもならなかったのでぼーっと佇む。
知らない間に辿り着いていたここに居て、ようやく鬱陶しい事に遭わずに済んでいる。どこかは知らないが居心地がいい。
痛みが一つもないというこの状況は大変有り難いものだ。できればここでずっとぼーっとしていたい。
「さてどうしたものか。最近の人共が信心が薄れる一方で、斯様な境遇の持ち主がここへ来られたのも何かの縁……放っておくのも後味が悪い。何か手助けでもしてやるべきか……いや、我らがあまり干渉するのも如何なものか」
ここはずいぶん空気が綺麗、いや、そもそも呼吸をしていないのか。楽でいい。
折れた骨も痛くない。割れた肺も痛くない。殴られ蹴られた頭も痛くない。良い事尽くめの場所だ。帰りたくない。
……だが、果たしてこんな所に居続けて良いものか。
また怒鳴られて追い出されるやもしれない。追い出された先がこんな場所とも限らない。最良を知って最悪に叩き落されるのは勘弁願いたいのだが。
「…どうしたどうした、切りの友よ。おや、何故人の子がここに」
「おぉ、来たか結びの友よ。いやなに、ちと奇妙な縁と繋がって悩んでおったのよ。ほれ、見てくれ」
「どれどれ……ほぉ、これは確かに難儀なものよ」
目の前の〝誰か〟が増えた。やはり顔は見えない。
自分を物珍しそうに見ているのはわかるのだが、不思議と不快感はない。これまでにない感覚だ。
これはどう言った気分なのだろう。
疎まれ嫌われ憎まれるというのは毎日毎秒向けられている故に身に染みているが、それ以外のものはまるでわからない。
不思議だ。奇妙だ。不可解だ。だが全く嫌ではない。
「これは人の子では如何にもならんな。悪縁を引き寄せやすい質のようだ。一度切ったところでまたどこぞから絡まれよう。数日もすれば元通りだ」
「前世で如何な事をすればこうなる?」
「いや、おそらくこれは親の業よの。性根の腐り切った縁が束なった末に生まれた子だ。徳を積んでもすぐには清められまい」
何も言われない。何かを話してはいるが、自分に向けて言っているわけではないようだ。
このままここにいて良いのだろうか。追い出されはしないだろうか。
あぁ、何もされない。言われない、なんと心地の良い場所だろうか。もうここで死にたい。
「大神に相談しようか。今の世の人の子でもここまで酷いものは珍しい。多少手を貸してやらねばきっと良くない事が起こるぞ」
「そうだな……見よ、心なしか穏やかな顔をしておる。ここには他に人共はおらんからな」
「悪縁が繋がっていようと、人と関わらなければ何も起こらん。ここにいさせてやれば穏やかに過ごせようが、それはならぬ事だしのぅ」
「返してやるのも心苦しい。ほれ、こんなにも安らかな顔をしておる。これまでが相当に苦痛であったのだろう」
「心が疲れ切っておるな……いや、殆ど壊れている。癒してやりたいがそれは時の仕事。我らの分野ではないな」
「何もない事が何よりの救いとはな。……昨今の人の世は誠に嘆かわしい」
「生の目的と手段が入れ替わっているのだろう。いつから斯様な世になってしまったのやら」
ここで死ぬにはどうするべきだろうか……いや、死んだら目の前の彼ら彼女らが困るだろうか。
母はいつも自分に『死ね!』といっていたが、いざ死のうとすると蹴られて殴られて邪魔をされた。どこか遠くへ行こうとしても、『逃げるな!』と引き摺られたものだ。
どうすれば良いのだろう。どうすれば良かったのだろう。
自分は何であれば良かったのだろう。
自分は……何の為に在ったのだろう。自分はこの先……どうすればいいのだろう。
「……おや、すまぬすまぬ。すっかりおぬしを放置してしまっていた」
「我らも経験のなかった事故な、許せ」
不意に、目の前で話し合っていた者達が自分に声をかけてきた。
この言葉はどういう意味だろうか。いつも聞いている声のようにぶつかってこない。優しく降り注いでくる。
彼ら彼女らは、自分に何を向けているのだろう。
ふと、目の前の景色に白が生まれた。
縦に〝じょきん〟と音を立て、黒を割いた白。傷口のようにまっすぐに走って、それがどんどん広げられていく。
目玉に突き刺さるその白に戸惑っていると、その向こうにあったものーーー人の顔が自分に声をかけてくる。
「ーーーおぉ、こうしてみるとなかなか精悍な顔をしているではないか。どうだろうか、よく見えるか?」
聞こえてきたのは、先ほどの声よりもはっきり聞こえる綺麗な声だ。というか、よく聞くと女の声だった。
ただ、顔はどちらかよくわからない。
母と父らしき男の顔意外真面に見た事がない自分には、男か女かをはっきりとは判断できない。
だが……優しい顔だというのはよくわかった。
母の顔を見るのはもう嫌だったが……この顔なら、ずっと、ずっと、永遠に見ていたい。
「おぬし、名はなんと? ……ないのか? 本当に? はぁ、真に呆れた者共よの。通りで現世との縁が薄いわけだ」
「これはもう、さっさと切ってしまったほうが良くないか?」
「そうだな……無垢な御魂がこれ以上穢れるのは大神も望むまい。あとでいくらでも叱られよう……だが、それだけでは不十分」
目の前の誰かが何やら話し合い、己を見つめてくる。
そしておもむろに、視界の裂け目の中へ手を伸ばして、己の手を取る。
「おぬしに〝力〟をやろう。一度、我が邪魔な縁を切ったところでまた絡まり始めるだけ故にな……本来ならぬ事だが、おぬしにもできるようにしてやろう。今風に言う、ちーとじゃ」
「……意味がわからんと言う顔をしておるぞ」
「おっと、それとも無縁の環境じゃったか」
「にわか知識をひけらかそうとするからだ……若い人間の文化にすぐかぶれおって」
目の前の誰かに手を握られて、己の何かが変わる。触れられた手をはじめとして、自分の何もかもが何かに成り代わっていく。
そうしてようやく、自分の周りの景色が理解できていく。
……これはなんだろうか。糸?
大量の糸が絡まって、自分の顔だけでなく全身を覆っているようだ。
「見えたか? これは全て悪縁……お前に絡まる邪悪な縁だ。中には善いものも混じっておるが、大体は切ってよい。こう、だ」
男達……女達だろうか。変わった格好の彼ら彼女らは自分の前の糸を指差し、指をちょきちょきと動かして見せている。
『切れ』、という事だろうか。そうか、切っていいのかこれ。
ーーーよかった、煩わしくて仕方がなかったんだ。
「あぁ! 待て待てそれを切ってはならーーー!!」
ちょきん。
……なんだかとてもすっきりした。