さくらの木
「まさきは何かしたいことはないの?」
食堂でコーヒーを飲みながら休憩しているときに、突然あゆはそう言った。
「いきなり何?」
「まさきって、これがしたいとか、あれが欲しいとか、そういうこと全く言わないじゃない」
そうだろうか。
そもそも、ぼくとあゆの関係は仕事の同僚で、友人でもましてや恋人でもない。そんな話はしないのが普通じゃないかな。
でも、あゆ自身はよく引退後は動物を飼いたいとか、居住スペースを倍の広さにしたいといった話をぼくにしていた。
したいこと、欲しいもの。
何かあるだろうか。
「思い付かないの?」
「うん……特にないかな」
「何でもいいのよ、何かない?」
そう言われてもぼくの頭の中に浮かぶものはなかった。
来週期限の報告資料を別の人に任せたいなあとか、直属の上司が異動してくれないかなあ、という些細な願いはある。けれど、多分そういうことを言って欲しいのではないことは、ぼくにもわかった。
こういうときのあゆはしつこい。彼女自身がある程度納得できる答えが引き出されるまでは、しつこく尋ね続けることが予測される。
何か、何かないか。
ぼくは意味もなく周りを見渡す。何か思い付きやしないかと。
そのとき、あゆの細い手首についているブレスレットが目に入った。それはピンク色の花を模したものだった。
「さくら」
「え?」
「本物のさくらの木が見てみたいな」
大分昔に地球は滅んだ。
地球で人類が生きていけなくなることはその遥か昔からわかっていたことだから、他の惑星への移住計画は進んでいた。
でも、それが軌道に乗る前に地球は駄目になってしまった。
人々は宇宙船と、植民予定の惑星軌道上に設置された居住区を新たな住み処とした。
そして、長いこと再び星に住むための活動をしている。
ぼくやあゆがいるのは、とある惑星の軌道上にある居住区の研究施設だ。
ぼくは、地球が滅びてから生まれた世代だ。
地球のことは資料でしか知らない。
けれど、あゆは地球で生まれた。
24歳のぼくとあゆの外見年齢はそう変わらない。けれど、あゆはコールドスリープを何度か繰り返し、老化抑制の手術も受けている。彼女の実年齢をぼくは知らない。
ぼくはただの平の研究員だが、あゆは研究所の幹部の一人だ。しかしぼくとこうして話しているようにあゆはひどく気さくだ。
そんなあゆはよく、彼女自身が知る地球の話をする。特に地球の自然の話を。
彼女は、自然保護区で生まれ育ったという。
マスクや防護服なしで外を出歩ける、その当時ですら貴重な場所だった。そこには山があり、川があり、四季がきちんと訪れた。
あゆは地球を知らないぼくに、その故郷の話を何度もしてくれた。
特に、一本だけあったさくらの木の話を。
小高い丘の上にあるそのさくらが満開になった光景が彼女の一番好きなものだったという。
ぼくらの住む、居住区域にも植物が植えられている区画はある。
勿論、そこにさくらはない。空間も資源も何もかも限られている。
代わりにあゆはさくらがモチーフのものを好んで身に付けていた。そのほとんどは彼女自身が作ったものだ。
あゆがそこまでこだわるさくらというものにぼくは強い印象を抱いていた。
だから、思いつくままに、そう答えた。
あゆは驚いた表情をしてから、静かにそう、とだけ言った。
その日から、ぼくは時間ができると、ぼく自身がしたいこと、というものについてぼんやり考えるようになった。
さくらの木が見たい、と思ったことは本当だ。
でも、それはほぼ確実に実現することのできない願いだ。
まず、どこかの星でぼくたちが暮らせるようにならなければ。
そうできるようにぼくたちは働いているが、ぼくたちの子供の世代でもそれが叶うかは怪しいところだ。
そんな絵に描いた餅ではなく、もっと実現できそうなしたいことがないかと、自分に問いかけた。
でもそれを考える度に、どこかの星に植えられた満開の桜とその下で微笑むあゆ、という光景がなぜか頭をよぎった。
日々はそれまでと同様変わり映えなく、過ぎていった。
たまに、ぼくたちのやっていることに意味なんかないのではないかと思うことがある。
けれど、ぼくたちはそれ以外、やるべきことがない。
それから一年ほど経った頃、研究施設内で大きなプロジェクトが動き出すという噂が流れた。
興味は持ったが、噂以上の情報は得られなかった。あゆに聞いてもはぐらかされた。
そんなある日、ぼくは突然呼び出しを受けた。
相手はこの研究所の総責任者である所長だ。
ぼくは何かしでかしてしまったのだろうかと怯えながら、彼の執務室を尋ねた。
そこには所長だけでなく、あゆもいた。
あゆは固い表情をしていた。所長もどこか強張った表情だった。
所長はぼくに座るよう促してから、こう言った。
「君に、星の礎になって貰う」
星の礎? 聞いたことのない言葉だった。けれど、不穏なものを感じた。
「すみません……星の礎ってなんでしょうか?」
「それはわたしから説明します」
あゆがぼくを真正面から見つめて、言葉を続けた。
「あなたの脳を生きたまま摘出して、この星の管理システムの中枢に組み込みます」
それから、彼女はその詳細を淡々と話した。
ぼくはその話を聞いていたが、全く話に追いつけなかった。
「どうして、ぼくなんですか……」
何か質問はあるかという問いに、ぼくは絞りだすようにそう言った。
「この居住区の全構成員の中で、あなたの脳が一番管理システムに適合する確率が高いという結果が出たの」
処置は一ヶ月後であり、これ以後全ての仕事を休んでいいと告げられてから、ぼくは解放された。
自分の部屋に戻ったぼくは、ベッドの上に転がった。
ぼくに選択肢はない。
ぼくたちは星で人が生きていけるようにするために存在するのだから。
どれくらいそうしていただろうか。
あゆがぼくの部屋を訪れた。
入ってもいいかと言われ、彼女をぼくは部屋に招いた。
「ちゃんと片付いていてえらいわね」
彼女は関係ないことを言った。
ぼくの部屋は片付いているというか、ものがほとんどないのだ。
彼女は食堂で淹れてきたらしいコーヒーを手渡した。断ろうとしたが、その気力もなく、ぼくはそのまま受け取った。
彼女がコーヒーを飲んだので、ぼくも口に入れた。泥水みたいな味がした。
二人がコーヒーを啜る音だけがした。
しばらくしてから、あゆが口を開いた。
「まさきは何かしたいことはない?」
前と同じ質問だった。
死にたくない、星の礎なんかになりたくない、と言おうとして、とある光景が目に浮かんだ。
どこかの星の、どこかの場所で、花びらが降り積もっていく中、さくらの木を嬉しそうに見上げているあゆ。
「さくらの木が欲しい」
彼女は言葉を失った。
それから、顔を手で覆って、動かなくなった。
ぼくはただコーヒーを飲んでいた。
それからの一ヶ月間、ぼくはいつも通りに過ごした。
自分の仕事をして、普通に生活をして。
それ以外どう過ごしていいかわからなかった。仕事の引継ぎも滞りなく行えた。
ぼくが人間である最後の日、ぼくは自分の足で処置室へ向かった。
処置室の前で、何の感情も見せまいとしているあゆを見て、ぼくはやっと気付いた。
ぼくはただあゆを喜ばせたかったのだ。
それがぼくのしたいことだった。
ぼくがちゃんと星の礎になれば、彼女は少しぐらい喜んでくれるだろうか。
そう思いながら、ぼくは処置室に入った。
そして扉は閉まった。
ぼくがぼくではなく、星の礎になって、長い時間が経った。
ぼくは地道にこの星を人の住めるように手を加えていった。まだ完全ではないが、この星で幾つか人の住む都市が出来上がっていた。
そんなこの星にはさくらの木が一本だけある。
小高い丘の上にあり、年がら年中花を咲かせ、尽きることのない花びらを散らし続ける。
これは本当のさくらの木ではない。
この星を管理するぼくが、唯一自分のためだけに作ったまがいもの。
ぼくはこの星全体に根のようにネットワークを張り巡らしている。そしてそれはこのさくらの木の根と繋がっている。
いつかここを訪れてくれるかもしれない彼女のために。
ぼくは星のネットワークを巡りながら、その日が来ることを願っている。