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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

健やかな甘爪

作者: サブロー

 



 部屋に呼ばれる、という意味を深く考えてしまうのは、俺に下心があるせいなのだろうか。


「北條さん」


 午後一時。昼休みの終わりを告げるチャイムに被せるようにして、右隣に座る佐伯さんから声を掛けられた。佐伯さんの声は大きくないが、どういうわけか俺の耳にはよく届く。


「金曜の夜、空いてますか」

「へっ」


 その言葉もばっちり聞こえた。でも、予想もしていない問いだったので変な声が出た。

 佐伯さんはパソコンの画面に視線を向けたまま、またうっすらと唇を開く。その隙間から「空いてなければ結構です」とつれない続きがこぼれそうな気配を察して、俺は慌てて身を乗り出し答えた。


「空いてます。すっげぇ空いてます」

「すっげぇ空いてるんですか」

「はい。ガラ空きです」


 言葉遣いのきれいな佐伯さんが「すっげぇ」なんてくだけた言い方をしたことが嬉しくて、にやけながら何度も頷く。そんな俺とは対照的に、佐伯さんはつんと澄ました顔をして眼鏡を押し上げ、「分かりました」と頷いた。

 俺は身体を佐伯さんの方へ乗り出したまま、次の言葉を待ってみる。が、その後はなかった。俺の穏やかな上司はまばたくこともしない。キーボードに指が乗り、動き出した。「さて、仕事ですよ」と言外に告げられた気がした。


「…………」


 湧き上がる不満な気持ちを慎重に隠しながら、俺はゆっくりと身体を戻した。手持ち無沙汰になって、ネクタイを意味もなく胸ポケットにぎゅうぎゅうに詰めてみる。もちろん意味はない。

 てっきり、何かのお誘いかと思った。文字通り前のめりになってしまったのでばつが悪い。何のことはない、ただの予定確認だった。

 気まずさをごまかすようにして席を立ち、そのままのそのそとトイレへ向かった。心の中で「なんだぁ」をくり返す。

 だってそうだろう。恋人から金曜日の予定を聞かれたら、誰だって期待してしまう。


 佐伯さんと「お付き合い」を始めたのは、ひと月前のことだ。理解のある優しい上司、そして白髪混じりの一見冴えないおじさん、それが佐伯さん。

 営業課でヘマをやらかして総務課にやってきた俺の面倒を、もう一年近く見てくれている。


 男を好きになるなんて初めてだったから、初めのうちは自分で自分に引いた。どこがどうねじ曲がったらそうなるんだ。俺のタイプは、髪が長くて小柄な女の子のはずだった。憧れや尊敬を好意と履き違えているのかも、と思い込もうとしたこともある。

 けれど、毎日隣に座って仕事をしていると、思い込みは効かなくなる。佐伯さんの纏う雰囲気も、声も、よく見れば顔にも惹かれる。右目が二重で、左目が一重。わけもなく話しかけたくなるし、話しかけられると嬉しい。物を手渡しするとき、指先が当たるとどきりとする。


 触ってみたいな、と考え出したあたりで、いよいよ自分が重症なことに気が付いた。憧れや尊敬だったら、「触りたい」にはならない。

 肌の手触りとか、そのときの反応とか、そういうのを全部知りたい。休みの日も会いたいし、俺のことを「北條さん」じゃなくて、名前で呼んでほしい。


 誰かを好きになる、というのは、それまでの俺にとっては意識的にする好意だった。この子いいな、と思ったら自分で気持ちを盛り上げて「好き」まで持っていくような。

 でも、佐伯さんに向かう想いは違う。やめた方がいいとブレーキをかける自分がいるのに、速度は落ちずに、むしろどんどん加速していく。理性ではどうにもならない。自分でも自分の心を持て余していた。


 思い立ったらすぐ行動、が俺の信条なので、想いを確信してすぐに佐伯さんを口説いた。やるかやらないか迷ったら、とりあえず「やる」を選んだ方がいい。俺はそのやり方しか知らない。「迷惑かも」とか「嫌われてるかも」とか、そんな自分の力ではどうにもならないことは、まとめて後で悩んだらいい。


 当然ながら、佐伯さんにはあっさり振られた。

 振られたけど、俺は諦めなかった。人目のないときを狙っては、しつこく佐伯さんを口説き続けた。だてに営業で成績を上げてきたわけじゃない。

 脈があるかどうかは、言葉を向けたときの反応で分かる。表面上だけ笑っているか、それとも少しでも好意を向けてくれているのか。

 佐伯さんは後者だった。俺が馬鹿なことを言うと、ふっと雰囲気が和らぐ。元々きつい印象はないけれど、もっと肩から力が抜けたみたいな、無防備な感じになる。目上の人に失礼かもしれないが、かわいい、と思ってしまう。


「俺と会えなくなったら、寂しいか寂しくないか、どっちですか」

「よくそんな狭い選択肢の質問を思いつきますね」

「ありがとうございます。それで、どっちですか」


 俺は営業課への異動が決まっていた。新年度になれば、隣で仕事をすることはできない。課が違えば会うこともほとんどなくなる。俺だって必死だった。だから、たまたま二人だけ残業していたとき、これが最後のチャンスだと思って最後の一押しをした。

 そうですね、と前置きしてから、佐伯さんは答えた。


「寂しいですよ。君と仕事をするのは楽しかったので」

「寂しいって、それはつまり俺を好きってことじゃないですか」

「随分と飛躍するなあ」


 佐伯さんはくすくすと笑っていた。その微笑みを見たとき、「あ、なんかいけそう」と俺の勘が働いた。心の隙間に、するりと入り込めたような感覚。人と話して、自分の方へと気持ちをなびかせようとするとき、時々こんな感覚が胸に降りてくる。

 佐伯さんの昔の恋人が男だ、というのは知っていた。それを有利だと考える自分の浅はかさにこっそり失望する。

 けれど勇気を出して手を伸ばし、佐伯さんの手首を掴んでみた。かさついて細い。うわ、触ってしまった、と中学生の恋愛みたいにどきどきした。


「ためしに付き合ってみましょうよ」


 少し裏返った声で言うと、佐伯さんは口元笑みを消した。蝋燭の火が消えるみたいに、ふっと。今度は違う意味で心臓が跳ねる。俺を値踏みするみたいな視線が痛かった。


「ためしで付き合うのはいやですね」


 言葉は鋭かったが、言い方は柔らかかった。年齢を重ねた人でなければ出せない声だ。縁のない眼鏡レンズの奥に、俺の知らない眼差しがあった。


「お付き合いをするのなら、本気がいいです」


 しばらくその意味を考えて、それから噛み砕き飲み込んで、俺は「え、え」と激しくうろたえた。言葉を理解する能力が一時的に落ちてしまう。

 でも、その言い方は、つまり。


「本気ならいいんですか」

「そうですね」


 また、声を殺して笑われる。佐伯さんの静かな笑い方が好きだと思った。


 それから俺たちは、「お付き合い」をしている。

 お付き合い。古めかしくて清潔な言い回しが、結構気に入っている。ついでに俺とは佐伯さんはいまだ清い関係だ。これについては気に入っていない。でも、自分からガツガツ行くのもガキくさいな、と思って我慢している。俺も少しは成長した。佐伯さんに関すること限定で、自分を抑えられるようになった。


 先々週、飲みに行って佐伯さんの昔のことを聞いた。佐伯さんは「話が重かったですね」と困ったようにしていたけれど、俺は「話してくれてありがとうございます」と頭を下げた。

 心のかさぶたをさらけ出すのは勇気がいる。不恰好な自分を見せなければいけないから。佐伯さんは勇気がある人だ。軽かろうが重かろうが関係なく、俺は佐伯さんという人に寄り添いたいと思った。


 けれどいくら殊勝なことを言ったところで、本能的な欲求については制御しきれない。相手はおじさん、と我ながらひどいことを考えてみるが、毎日毎日飽きもせずにちらちら佐伯さんを見てしまう。

 佐伯さんはどうなんだろう、と考える。四十を過ぎると、そっちの方は枯れてしまうものなのだろうか。残念ながら、四十を過ぎたことがないので俺には分からない。


「あーあ」


 昼休み直後のトイレにはひと気がなかった。それを良いことに、思いきりデカいため息を吐く。お付き合いって、古めかしくて、清潔で、物足りない。あと二週間もすれば、異動がやってくるというのに。


 するとそのとき、スラックスに入れていたスマホが軽快な音を立てた。なんだよ、と苛立ちながら取り出してみると、佐伯さんからのメッセージだった。苛立ちは一瞬にして消える。佐伯さんは俺を浮かれさせる天才かもしれない。


『さっきの続きです。よかったら、僕の部屋に来ませんか』


 すっげぇ行きたいです、と返信した先で、佐伯さんが笑った気がした。





 ◆





 佐伯さんの住むアパートは、俺の住んでいるところよりもこじんまりとしていて、けれどきれいで新しかった。


「家賃高そう」

「そうでもないです」

「佐伯さんの給料ならそうなのかも。あ、手取りいくらもらってます?」

「北條さん。そういう繊細なことは、あまり人に聞かない方がいいですよ」


 仕事の帰りに時間をずらして駅で待ち合わせ、定食屋で色気のない食事をした後、俺はうきうきと佐伯さんに付いて行った。辺りはすっかり陽が落ちて、行き交う人の誰も彼もが、金曜の夜という高揚感に酔っているように見えた。


 佐伯さんの部屋は物が少なくて、必要最低限の家具家電しか置いていない。予想していたわけではないけど、しっくりきた。佐伯さんのデスクはいつも整理整頓されていて、その几帳面さがそのまま映し出されているみたいな部屋だった。佐伯さんは、俺みたいにスーツをあちこちに散乱させて、朝になって慌ててアイロンを掛ける、なんてこともしないのだろう。


「さすが片付いてますね」

「昨日がんばって片付けたんです」


 リビングに足を進めると、佐伯さんの匂いがした。匂いというか、空気というか。清潔で透明な、佐伯さんの纏う空気。俺は、佐伯さんだけの場所に入ってしまった。

 意識し始めたら、途端に足の裏がふわふわして落ち着かない。二人きり。誰の邪魔も入らない。急に喉が渇きだした。


「手土産とか、買ってくればよかった」

「どうしてですか」

「いや……なんでもないです」


 恋人の部屋に来るのに、なぜ手土産なのか。

 自分でもよく分からなかったが、多分、上司としての佐伯さんを強く意識したのだろう。これまで付き合ってきて、彼女に土産なんて持っていったことなんて一度もない。冷蔵庫のものを勝手に食って怒られたことなら何度もあるが。


 佐伯さんがジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。当たり前の動作につい視線が惹かれてしまう。部屋に呼ぶ、ということは、佐伯さんの中ではどれくらいの重さを持っているのだろう。


「適当に座ってください」


 木製のハンガーにジャケットを掛けながら、ゆったりとした口調で佐伯さんは言う。自分では彼女を部屋に呼んだら「適当に座って」と簡単に言ってきたのに、いざ言われる側になると「適当」がどこを指すのか分からない。今まで積み重ねてきた男女交際は何だったんだ、と思うくらい、俺は情けない男に成り果てていた。


「失礼します」


 頭を軽く下げて、ダイニングテーブルの下に収まっていた椅子を引き出して座ってみた。本当はグレーのソファが目に付いたけれど、隣に佐伯さんが来ないときのダメージを見越してこちらにした。


「北條さん」

「はい」

「上着、脱がないんですか」

「あ」


 言われて慌ててジャケットを脱ぐ。自然な動作で手を差し出されてそのまま渡すと、無駄のない動きでハンガーに掛けられた。

 自分でも分かるくらいに緊張していた。面接前の就活生のようなぎこちなさだ。佐伯さんから見たら、余計にそう見えるだろう。できるだけ「若くて格好良い北條さん」でいたいのに、佐伯さんの前では全然うまくいかない。

 佐伯さんは軽くシャツの腕をまくると、「お隣失礼します」と椅子を引き、俺の隣に腰掛けた。予想外の近さに、つい身体を揺らしそうになったが、堪えた。


「何か飲みますか」

「いえ……」


 本当は、何でもいいから飲んで舌の回りを良くしたかった。佐伯さんの部屋にはテレビがない。壁に掛けられたシンプルなカレンダー。キッチンには小さな鍋がひとつだけ出ている。視線が次々と移って、安定しない。

 どんな反応をするのが正しいのか分からず、俺はテーブルの上で両手の指を組んだ。唇を軽く舐めてしめらせる。佐伯さんがこの状況をどう思っているのか聞きたかった。でも、俺よりも佐伯さんの方が早かった。


「ちょっとすみません」


 いきなり、手を取られた。乾いた肌の感触にどきりとする。佐伯さんの視線が、じっと俺の手に注がれた。それこそ、穴が開きそうなくらいに。

 しばらくそうした後、佐伯さんは俺の顔を見た。


「お節介をひとつ言っていいですか」

「あ、はい」


 何だろう、と首を傾げる。無意識のうちに、何か無礼を働いていたのだろうか。

 恐々と見返すと、佐伯さんのレンズの奥にある、不揃いな両目が細くなった。そして、長い指が俺の親指の爪をなぞる。佐伯さんの爪の先はつるりとまるかった。


「恋人の部屋に呼ばれたら、きちんと整えてくるものですよ」


 ぐらりと目眩がした。

 俺は察しが悪い方だが、その言葉の奥の意味に気付いてしまう。最近の忙しさと動揺にかまけて伸びていた爪は、俺が無頓着なせいで先があちこちギザギザになっていた。実家から持ってきた武骨な爪切りでばちんとやるものだから、いつもこんな調子だ。


 佐伯さんは緩慢なまばたきをしてから、「待っててくださいね」と席を立つ。そして一度奥の部屋に引っ込むと、手に銀色のやすりを持って現れた。蛍光灯が反射して、やすりが鈍く光って見える。


「僕がやってもいいですか」


 頷くよりも早く、佐伯さんはティッシュを下に敷き、俺の手を取った。指の腹は少し硬くて、俺よりも体温が低い。

 親指の爪の先に、やすりが当たった。しゅ、と擦られる感覚に背筋がぞわりと粟立つ。いやな感覚ではなかった。


「痛いのはいやなので」


 そっと呟いて、佐伯さんは俺の爪を研いでいく。ぼうっとした頭のまま、俺はその様子を見守るしかなかった。ナイフの形にも似たそれは、少しずつ、けれど確実に俺の爪の先をまるく整えていく。規則的な振動が俺の手に響いていた。

 痛いのはいや。

 佐伯さんの言葉が鼓膜の奥で何度も跳ね返っている。

 からからの喉で、俺は助けを求めるように「佐伯さん」と呼んだ。


「すみません、て、手汗がすごくて」


 期待と混乱でじわじわと掌に汗が浮く。彼女がいたときはちゃんと気にしてました、なんて馬鹿な言い訳をしそうになって、慌てて飲み込む。それじゃあ、佐伯さんを粗末に扱っているみたいじゃないか。


「いいですよ。それに、震えてますね」


 笑いを含んだ声だった。揶揄われている、と分かったが、それを心地良いと感じている自分がいた。揶揄われるのはなによりも嫌いだったはずなのに、佐伯さんには腹が立たない。その声に、かわいいものを愛でるような温もりを感じるからだと思う。

 佐伯さんがちらりとこちらを見た。


「僕はね、結構意地の悪い男なんです」


 その言葉のとおり、佐伯さんの目は再び細くなった。会社では絶対に見せない顔だ。俺だけが知っている、佐伯さんの顔。慣れた手つきに、腹の底がじわりと蠢く。


「こういうこと、昔もしてあげてたんですか」

「さあ、どうですかね」


 わざとらしく視線を外された。爪だったものは白い粉になって落ちていく。佐伯さんの手は動き続ける。

 意地が悪い。でもその意地の悪さは、俺のためだけに使われている。俺の気を引くためだけに。揶揄いに喜びを感じる俺を見透かして、試している。


「爪、整えるのが終わったら」


 掠れた声で話しかけた。

 佐伯さんの手が止まる。


「触っても、いいですか」


 不揃いな両目が細くなる。

 何度見ても、騙し絵を見ているような気分になる。

 でも俺は、このアンバランスさに、惹かれたのだろう。


 佐伯さんが俺の指をなぞった。

 形を確かめるように。


「ええ。好きなだけ」











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