午前中の男 『隠密』
午前中の男
chapter・1
対馬直和は4月のその日、午前3時ちょうどに目覚めた。
ここ3年ほど、直和は目覚まし時計のお世話になった日がない。よって、必要なしと判断し、古い目覚まし時計はタンスの奥にしまわれて、新しいものも購入していない。
布団から起き、布団を畳む。敷き布団、毛布、掛け布団、そしててっぺんに枕。立ちあがりうんと伸びをして、キッチンへ向かう。
ガラス戸をするりと開き、パタンと閉める。キッチンのシンクには洗い物は一切ない。棚から新しいタオルを出し、キッチンの蛇口を半分開けて必要な水量だけ水を出し、顔を洗う。必ず冷水で洗う。タオルで顔を拭き、そのタオルを首にとりあえずかけ、コップ一杯の水を飲む。ふぅ、とひと息つく。
朝食を作る。直和の朝食は毎日、茹でたブロッコリーと納豆と白ご飯なのでまず小鍋に湯を沸かしながら、冷蔵庫からブロッコリーのキレイに切り分けた房の入ったタッパーを取り出して、ブロッコリーの房を2つ取り出し、鍋に入れる。その時、彼は塩を入れない。塩茹でしないのだ。
ブロッコリーを茹でている間に手際よく食器棚から茶碗を取り出し、タイマーで炊きたてとなっている炊飯器をあけ、ざっと炊きたてのご飯を混ぜてから茶碗にほどよくご飯をよそう。
まずそれをダイニングテーブルのいつもの位置へ置き、端置きと箸をセットしたのち、冷蔵庫から納豆のパックをひとつ取り出してそれもテーブルに配置する。
食器棚から小皿を出し、沸騰した小鍋の中でよい色加減になっているブロッコリーをひとつずつ、さっと水きりをして小皿に取る。そうしてブロッコリーの小皿を最後に配置して、
「いただきます」
と手を合わせて朝食を摂る。なるべくよく噛んで食べる。朝食を済ませると、窓を開け、外を眺める。まだ真っ暗なのだが、晴れることが嗅覚と感覚で分かるので、5時になったらスイッチを押すための洗濯機に洗濯物を入れ、小さなリビングへ行く。リビングには小さなテーブルと座布団、テレビ以外に何もない。
そうだ、と思う。珍しく食器を洗うのを忘れた。またキッチンに戻り、洗い物を済ませ、ゴミを捨てる。
そしてまたリビングへ戻り、静かに座布団に座る。座るときはいつも正座で、直和は胡座をかかない。そうして小さなテーブルに置いてあるノートを開く。まだ暗い時間なので部屋も暗いのだが、気にならない。ノートの字もよく読めるし、よく書ける。さっそく、続きから書くことにする。使うのは万年筆で、インクは必ず毎晩チェックしているから書き損じることがない。さらさらさら、と小さな万年筆の走る音と、インクのほのかな香りの他には何もない。
テーブルの上の置き時計は、午前3時50分を示しているからあと20分ほどで、書き終わり、着替えて外へ出ることが分かる。今日はそういう日だ。
10分ほど普段と変わらないペースでノートにしたため、改めて書いたものを確認し、頷いてノートを閉じ、万年筆をペン立てに戻してすっと立ち上がる。寝室へ戻りタンスの中からキレイに洗ってしまってあるパーカーと、黒いパンツを取り出して着替える。同じものがそれぞれ色違いで4着ある。
今日はパジャマを洗おうか、とふと考えて、昨日洗ったばかりであると思い至り、止めておく。そうしてパジャマをキレイに畳み、布団の横に静かに置き、ガラス戸をするりと開けてしめた。
玄関のそばの簡素な靴箱の上段にある小さな引き出しから家のカギを出し、パーカーのポケットへ入れて、玄関から外へ出た。
風が少ないため、いつもより数度鼻をひくつかせて確認をする。昨日と同じ方角であると分かり、アパートの階段へ向かって歩き出した。
持ち物はなるべく少ないほうが良く、そして、今日は余計な拾い物がなるべく少ないと良いなと思うが、そればかりは分からない。暗い坂道を軽くジョギングしながらスピードを上げて駆け降りると、スピードを緩めず、匂いのまま人気のない住宅街を走る。
すでに慣れ親しんだ街だから道に迷うことはない。ただ、細かい匂いの在り処は重要だから直和の鼻はずっと嗅ぎ続ける。音も重要だ。十字路を左、少し走ったら右へ曲がり、どうやらその先の小さな公園の向こうにある私有地内の雑木林の中だと理解した。走るスピードは変わらない。そのほうがいいことは体に染み付いている。距離は関係がない。すべては直和の時間軸の中で起こるからだ。
雑木林は私有地のため、走るのをやめたが、今日の『的人』 は私有地に踏み込む心配もないようだ。なぜなら、そこの所有者男性だからだ。
鼻を頼りにそのまま進むと、目的地に着いた。体感ではものの7、8分であり、洗濯機を回すには十分な時間があると思われる。
『的人』を見上げると、まだじだばたと足が動いている。それがぶら下がった太い幹をよじ登り、本人ではきつく巻いたと思われる白いロープをすべての重さと共にアッサリ解いていく。高さとして無事だと考えて、そのままロープごと落とす。ドサッ、という音と共に、うめき声がした。
幹から滑るように降りた地面は乾いていて、『的人』はその地面の上で転がり、ごほごほと咳をして少しの間呻いていたが、呼吸が落ち着くと、直和を見て、ただただ目を見開いている。
と、その瞳からみるみる大粒の涙が溢れ出てきた。よくあることだ。どっちつかずの心理状態。体に無駄なものばかりを纏い、姿が見えなくなってしまっている。
「ど、どうして・・・、あなたは、誰」
質問には答えない。直和はただ突っ立って男を見ていた。まとわり着いた欲と失望の塊が、男の周りから徐々に薄れていくのが見える。なるほど、と思う。
直和は静かに男のそばにしゃがんだ。男は怯んで、後ずさった。
「このことは、必ず忘れる。いいか」
どのみちこいつはまだ死なない。
「は、はい、あ、あの、ご、ごめんなさいぃぃぃ」
男は決まり文句のように謝り始めた。
「今はその時じゃない。いいか」
「は、はい!はい!」
直和は立ち上がった。とたんに、周囲に渦巻いていたドス黒いものが一斉に向かってくる。それらが
自分の周りにまとわりつくのを確認し、その場を去ろうとすると、再び男が呻いた。
「あの、このご恩を・・・!」
「もうもらった」
吐き捨てて、雑木林を出た。
確認すると、株式証券やら、下らない遺言書、女の恨み辛みが塊の中にはためいているのがかろうじて分かった。いちいちポケットに突っ込んで、もと来た道を再び走り走り出した。荷物は軽いほうだった。 洗濯機のスイッチを押す時間にピッタリだろうと思った。
chapter・2
洗濯機の中に、着ていた衣類を放り込み、洗剤を入れてスイッチを押す。いい時代になった。
直和は自分の年齢を知らない。たぶん、200歳にはなっていないがそもそも年齢が繋がっているのかも知らない。知る術もなければ興味も大してない。
正真正銘にこの世に生を受けたのは、大正時代初期のことで、それから4回ほど『死んで』いるらしいから、肉体の年齢と記憶の年齢に差があるのかが分からない上に、教えてくれる人間がもう一人もいないからだ。
洗濯機の中で洗われると、大概の「持ち物」は流され消滅する。
昔はもっと面倒だった記憶がある。わざわざ川まで行き、衣服もろとも冷たい流れに体ごと洗われなければならなかった。次の肉体の時代では、風呂で汚れが落ちなかった。水に流れがなかったからだ。
水に流れがあり、空気が淀まないことが最高の条件であり今は簡単にそれが実現できる。
リビングの窓を開けて空気を入れ替える。再びノートに向かうと、さらさらさら、と小さな万年筆の走る音のする空間に戻った。
実は直和は排泄をしない。食欲もどんどんなくなっていく。食べたはずのものは呼気と共に排出されるようで、それはこの新しい体になってからのようだった。
死んでも、また赤子からやり直すのではなく、すでに肉体が用意されていて、意識がそこで生まれるようだ、と知ったのは2回目に生まれた時だ。器となる肉体は、毎回若い男で、世間では仮死状態だったり、つまりはは生をなくしたばかりの肉体で、だからはじめはひどく辛い思いをする。共通するのが、国籍もあり、住居にも困らず、そして天涯孤独であるということだった。
日本人意外に生まれ変わったことはない。
直和は孤独という感覚を知らない。知らないというより、忘れたのかもしれなかった。
『的人』の多くは孤独に苛まれているし、彼らが選ぶ行為に至る原因のおおきなひとつとして確かに存在し、理解できるのだが、それを自分の感覚に置き換えることができない。
必要もない。
リビングのテーブルの置き時計は午前5時50分を示していて、この時期ならもうじき夜明けとなる。だから6時半にはまた外に出る。それまでに洗濯が終わるだろうから洗濯物を干す時間がある。
ヤカンで湯を沸かしながらお茶の葉を用意する。関東地方ではまず売っていない茶葉で、直和の嗅覚はこれを嗅ぐと非常によく回復するのだ。だから茶葉だけ嗅げばよいのだが、昔から、ちゃんと飲めと言われて育った記憶がある。
食べて飲んで味わうのは眠るのと同じくらい大事なことである。肉体は常に健全に維持しておかねばならない。滅多な病気はしないが体に厄を溜めるな。人が食べる物を味わい、飲む物を味わえ。常に姿勢を正し目と耳と鼻で理解したものだけを信じることだ。
リビングに座りゆっくりと茶を啜る。うまい、と思う。
そして、寝室へ行き、タンスから新しいパーカーとズボンを出して閉める。着替えたら終わった洗濯物をベランダに干す。日の光で干すことはとても重要だ。大概の『存在してはならないもの』は、最終的に日の光でほぼ消滅する。
6時半に、再び玄関の横にある小さな引き出しから家のカギと、今度は小さく畳んだリュックサックをひとつ取り出して広げ、ぺたんこのまま背負って外に出た。
アパートから最寄り駅までは徒歩で30分あるが直和が走って行くと10分で着く。今朝の匂いは強烈で、午前4時10分の男の倍は匂った。感覚通りだった。
平日なのでポツポツと通勤途中の人間や、たまに学生服の子どもも見かける。直和は走って通り過ぎる。誰も彼を気に留めない。
現代の人間は本気で人を気に留める者が全然いない。
駅の改札が近くなり、走るのを止めてリュックからケースを出す。駅の中に入るために交通カードを使い、改札を抜けると階段を上る。この時間帯から徐々に人が増えていく。匂いは目の前に広がっている。
上り電車のホームを真っ直ぐ進むと、『的人』を発見した。その若い女の周りだけ空気が蠢き揺らめいている。白線の内側にいるのはフェイクであり、まもなく特急列車が通過するというアナウンスにぴくりと反応する。
躊躇なく近づき腕を取る。左腕を掴んだだけで、折れそうなほど細いことが分かる。ビクッと体を震わせて女は直和を見、そして腕を振りほどいて後ずさった。視線が直和の後ろに流れる。列車の汽笛がホームに響き渡る。女がさらにホームの奥へ走ろうとし、直和が通せんぼのように先を越す。ホームの側から守るように腕を広げて立ちはだかる。彼らの周囲に人はいない。ここまでの匂いの『的人』は、ほとんど人が無意識に近づかなくなっているし、それが見ず知らずの他人であれば尚更で、こういう状態の『的人』に気づく人間には二種類しかいない。自分も『的人』になりかけている人間か、恐ろしく善良な人間かの二種類だ。後者は瘴気にやられやすい性質を持ち、個人的に危険さはある。
一瞬、女の目にひどい憎しみが浮かび、直和のほうに一歩足を踏み出した。やれ。やってくれと思う次の瞬間には、直和の後ろを特急列車が通過し、風が勢いよく舞い上がった。仁王立ちする直和の前で、女が泣きながらへたり込む。風と共に女から舞い上がったヘドロのようなひどいものが一斉にまとわりついてくる。直和はゆっくりと背中のリュックをおろしてチャックを開けると、それらをリュックに押し込んだ。リュックはパンパンに膨らみ、一気に重くなるが気にならない。
「お前はオレのことを忘れる。まだその時じゃない」
言って、立ち去ろうとすると、女がすがり付いてきた。
「ま、待って、行かないで、話しを・・・・・」
女の声を遮り、振り返りながら、ゆっくりと言った。
「そんなことだからこうなる。人をあてにするな」
女は目を見開き、そして俯いた。あとのことは知らない。
次の上り電車に直和はそのまま乗り、人がまばらな車両でドアにもたれた。リュックをドアに押し付け、黙って乗る。これからこのまま仕事に行く。
chapter・3
世の理を履き違えた者は自らを罰してはならない。自らを罰しようとする者は風に残る『存在してはならないもの』を纏っている。そのものたちは誰かが始末しなくてはならない。存在してはならないものを生み出した者は自らを罰することなく生の最後に正しく罰せられねば次はない。
存在してはならないものを生み出してはならない。
製造ラインの仕事は全く苦痛ではなかった。毎日朝7時半から昼まで直和はずっと立ち続けて自動車の部品を作り、検品をする。昼からあとは別の仕事に行く。
リュックはパンパンのままロッカーに入っている。
この肉体の前の持ち主は、本社から左遷されて、この工場の工場長に任命されたことが主な苦痛で自らを罰して居なくなった、ということを体が回復してから知った。
工場長というのは名ばかりで他の人間と同じようにただ自動車の部品を作り、検品をし、そして工場内の人間を監視するのが仕事らしかったが、一時仮死状態になったので工場長は他の者が代わりになった。そして今のところ、3年間に渡りその工場長は他の作業員を「的」にしていじめのようなことをやることがあった。下らない。
然るに下らない人間の周りには下らない人間が集まるのが生の理であり、当然ながら工場の中には似たような人間がたくさんいて、特に寮から直接来る作業員の中に多かった。
例えば、直和がただ立っているだけで足を蹴る人間がいる。痛くも痒くもないから無視していると、無視するのが面白くないのか手を替え品を替え、何とか痛め付けようとする。そういうことを他の作業員にもやる。当然危ないので、怪我人が出る。
直和には理解できないが、怪我人が出るのが面白いのだろうと思う。生の理に於いて最も良くない状態に常に置かれている自覚がなくなると、これらの人間は最終的に『的』になるか、ある日理の世界から突然淘汰され、魂ごと消滅する。要するに『要らない』と判断されるのだ。それが生の間か、死後かは分からない。
つまり、他の生の明らかな邪魔をしてはならないという、日が上り沈むことと同じくらい生れた時からの人生に於いて無意識に理解していなければならないことが、理由が何であれ理解できていないということは、最も悲劇的なことである。
だから何も気にならない。
「対馬くん、大丈夫?」
レーンの上が一時空き、めいめいがベンチに座ったり床に直に座ったりして束の間休憩している時、佐野さんという60代にはなろうかという女性に声をかけられた。日頃からなぜか、直和を気にかけてくれていた。
「え?」
「足、足」
佐野さんが小声で訴えるように言う。ぼんやり突っ立っていた直和が足元を見ると、白い長靴に釘が刺さっている。
まさか痛みを感じなかったのかと残念に思いながら長靴の釘を抜き、長靴を脱ぐと、足の甲にじんわりと血が滲む部位があった。
「血が出てるじゃない」
「そうですね」
「そうですね、じゃないでしょ。ちょっと待ってて」
佐野さんがポケットから素早く絆創膏を取り出し、靴下を脱ぐように急かしている間、後ろからヤジが上がる。
「おばちゃーん、オレにも手当てしてー」
「痛いよーぅ。ギャハハハ」
佐野さんはため息をつきながら直和の足に絆創膏を張り、
「本当は消毒したほうがいいんだけどねぇ…」
などと言っている。誰かが故意に刺したのであり、仕事中の怪我とは認定されないから怪我をしたということで休憩室で手当てをしたり、休んだり、帰宅したりできそうにないということである。
「ありがとうございます。大丈夫です」
努めて優しい響きになるように心がけているのだが、どうしても暗い響きになる。別に落ち込んでいるからではないのだが。
「大丈夫です、じゃないよ。たまにはやり返したら?」
佐野さんは怒って背後を睨みつけるが、誰がやったのかが分からない。直和は言った。
「佐野さん、絆創膏をありがとうございます。やり返してはいけませんよ。どうか怒らないで」
佐野さんは呆れ顔で、はぁ、と苦笑いをして去った。
直和が、本当は足じゃなく胸を刺してくれていたら良かったのに、と思っていようとは夢にも思っていないだろう。
ラインが稼働するサイレンが鳴る。
頼むから殺してくれ。
作業に戻る。
死なないオレをきちんと死なせてくれないだろうか。
だがそれを誰かに唆すことはできない。
人の怒りや憎しみで死ぬことは許されていない。
昼まで工場で仕事したあとは、近くの老人ホームに寄り、ゴミ出しの作業を2時間ほど手伝ってから帰宅する。大体このような社会的な生活を1週間のうち6日行い、日曜日が社会的な休みとなる。
午後4時を回り、駅のホームへ向かうと、同じ工場で働く中島という男がベンチに座っていた。顔をこちらに向け、なんだ、お前か、と言う。
中島という男はこの時間まで工場で働き、どこかへ帰宅する。直和が同じくらいの時間まで工場で働けないのは、この体の前の持ち主が社会的に自らを罰したからで、社会保険には入り続けてもいいが正社員には戻せないということである。ということも後で知った。特に不足はない。
中島を置き去りにして来た電車に乗ろうとすると、中島が声をかけてきた。
「よう、お前、酒とか飲めないの?」
直和は振り向いた。
「飲めない」
「じゃあ、何飲むわけ」
「茶を飲む」
「茶ぁ?」
鼻で笑う。そのまま電車に乗り、パンパンのリュックをドアに押し付け、もたれた。酒を飲んだのは、一体いつくらい前だろうか、と考えるが思い出せなかった。
夕食の買い物を済ませ、パンパンのリュックを手に玄関を開ける。ようやく、足が痛くなってきたようだが、大したことはなかった。手洗いを済ませて風呂の湯を沸かす。服はパジャマに着替え、脱いだパーカーとズボンを持ち、それらを洗濯機へ入れる。
洗濯物を取り込む。よい具合に乾いていた。60年ほど前の自分なら歓喜するくらいの手軽さだ。
洗濯物をキレイに畳み、しまっているうちに風呂の湯が沸いた。有難いことにユニットバスにも関わらず、ここは風呂の湯が循環する。風呂場で体を洗い、狭い湯に浸かる。湯には、なるべく長く入ったほうが確実だ。
ふと見ると、佐野さんが貼ってくれた絆創膏が剥がれかけ、血が滲んできている。わりと深い傷だったのか。
滲む血を見ていると、奇妙な気持ちがした。この血は、オレのものか。それとも違うのか。循環しない体に流れる血はオレのものではないのではなかろうか。それとも、やはり循環しているのだろうか。
『的』の種類によって、たまに見る彼らの体から流れる血は、彼らのものだ。だから、ほうっておけば死ぬ。そして、肉体も死ぬ。死んだ肉体は日本では焼かれるから再生されない。
そのように、自らを罰して死なずともまともに死ぬ肉体は、必ず本体と数が一致するはずである。ところが、一致しない。
湯から出て、体を拭いたあと、パンパンのリュックを手に風呂場へ戻る。リュックの口を開けつつ、リュックごと風呂の湯の中に沈める。みるみる湯の色と匂いが変わり、濁り、いたたまれない匂いが風呂場に立ち込める。
そのまま風呂場のドアを閉め、換気扇が動いているのを音で確認した。頃合いを見て再び風呂場を開け、渦を巻くように一定の形を定めない黒い濁り湯を、一気に排出させる。空っぽのリュックが空っぽの湯船に張り付いた。
空っぽのリュックを、石鹸でキレイに手洗いし、ハンガーで風呂場に干した。明日の朝、ベランダへ出せばいい。
どうもこの肉体になってから、無駄な考え方が増えたように感じる。血がどうのなど、どうでもいい話だ。
夕食の準備に取りかかる。昼にはコンビニのおにぎりをひとつ食べただけだったが、一向に腹が減らない。が、作る。
ほうれん草を茹で、赤いトマトを一個、洗って切る。魚しか食べないのでいわしを手開きにして焼く。いわしからも血が出た。
奇妙な気持ちが増した。
白米とほうれん草、トマトといわしの夕食をテーブルに並べて食べたあと、寝室へ向かう。今日は確認しなければならない気がした。
タンスの一番下の抽出しの奥の、包みを取り出し、リビングのテーブルの上に置く。白い布の包みをゆっくりと開く。中には、巻物が一本と、麻の紐で綴ってある厚い和紙を束があり、和紙の束を手に取る。約200年弱前のあの日から受け継がれている理である。黙って読む。
テーブルの置き時計を見ると、午後6時をすでに回っていた。仕方がないので綴りは閉じ、巻物と一緒に包み直して抽出しの奥にしまった。
睡眠は食事よりさらに大切だ。
普段より30分遅くなったが、食事の後片付けをして、布団を敷き、布団に入り眠った。だいぶ気持ちが落ち着いたと感じた。
心の迷うとき其すなわち嗅覚の乱れ。
chapter・4
朝の食事を済ませて、昨夜の風呂場で乾かしていたハンガーを取り出し、晴れるであろうベランダに干したとき、すでに鼻が捉えるものがあった。
ひとまず、日の光を無駄にできない。まだ真っ暗な空の下、洗濯物を干した。
テーブルで万年筆によりすらすらと書き綴り、置き時計で午前4時をかくにんし、家のカギを持って外に出ると、鼻腔はふた手に別れた。
まさに右と左であり、右のほうがより強い。すべての『いてはならないもの』を排除するのは無駄である。迷わず右を選んだ。
『的』やその周囲にいた者は、直和の存在を忘れる。だから近いことが別段厄介ではない。アパートの階段を降り、大通りとは逆の方向に向かって走り出した。しばらく真っ直ぐな道を走り、左の路地へ。路上の先は私道が多く、民家が多い。もし入れなければその『的』は中止する。長年培ってきた経験では民家の場合、中にはほとんど入れない。だが、約3割は手段を別として入ることもできた。
私道は緩い右カーブを描き、やがて途切れた。どんつきに洒落たアパートがあり、1階建ての変わりに造りが大きく、部屋が4部屋あるようで、その1番右端の部屋に『的』を感じる。
玄関前で足を止め、インターフォンを鳴らす。誰も出ない。まだ朝の4時を過ぎた時間だから当然だろうか。しかし、出てこられない場合もある。裏へ回る。ベランダと高い柵がある。柵をよじ登る。すぐに窓ガラスに当たる。開けようとしたが、やはり開かない。中を窺う。『的』はいとも簡単に見つかった。手前の布団の中にいる。
躊躇わず窓ガラスを割った。最近の窓ガラスはとても強いが直和にとって素手で静かに割る程度は容易い。割れ目から腕を伸ばしてカギを開ける。すみやかに窓を開けた。
布団の『的』の掛け布団を捲る。そこには老人が眠っていた。頬を数回叩いて起こす。『的』には必ず自分の意識がある。まだそんなに時間も経っていない。枕元の薬袋から多種多量の薬が散乱している。
老人が瞬きを繰り返し、むせかえって目を開けた。驚きもせずに直和を見上げる。
「あんた死神かい?」
掠れ声で言う。
「残念だが死神じゃない。寝かせるわけにいかん。起きろ」
老人の頭の周りにまとわるものは、鈍い灰色をしていて独特の異臭を放っている。
致死量の薬を飲んだ想定で、部屋の中を見渡す。電話の子機を見つける。すぐに119番にかけ、薬の袋に書いてある住所を言った。
老人が、むせび泣く。
「もう、どうせ長くないんだ。誰も助けてくれねぇんだ。頼むよ。死なせてくれ』
どのみちもう死なない。手遅れの人間とは匂いが違うのだ。
「あんたは何歳だ」
「はちじゅう、、ななだと思うが」
おきあがらず、すすり泣く。
「なら焦るな。まだ待て」
直和は言い残して、窓から去ろうとした。灰色のものがうごめいて一斉に体にまとわりついてくる。老人が、突然怒り出す。
「あんたみたいな若いのに何がわかるか!毎日のうのうと楽しく暮らして大した苦労もなく大人んなって、よぼよぼのじいさんの気持ちなんかわからんだろ」
直和はゆっくり振り替える。老人が怯えるのがわかる。
「あんたは生まれてからずっと1人だったのか」
「……いんや、だけども…」
「どこにも居る場所すらなかったことがあるのか。働けなくなったことがあるのか。家がなかったことは?家族はどうだ。いないのか」
老人が目を見開いた。
「あ、あんたは…、あんたは、誰だ」
「誰でもいい。質問に答えろ。手足はあるのか。食べ物に困った人生だったか。どうだ」
「…いんや、、、家族はいた…、仕事もしていた!オレが頑張って食わせてやってたんだ!」
「電球の替え方知ってるか。」
老人が、きょとんとする。
「たかだか80年生きたごときでわがままを言うな」
「な、何を…、、」
しかしあとが続かなかった。直和が背負った灰色の影が見えたらしい。何人かに1人は残り香のように見えるようだった。
「だからこうなった。オレのことは忘れろ」
直和は窓から去った。遠くから救急車のサイレンが響いてきた。
走りながら久しぶりに後悔した。喋りすぎた。老人を裁くのはオレの役目ではない。
アパートまですぐに帰ることができたが、左側の匂い、近くのあの匂いは消えていた。間に合わなかったようだ。かすかに残る程度まで消えてしまっていた。
そのまま家に帰り、いつものように服を脱ぎ、洗濯機へ放り込む。
『的』の生死についての責任はないが、はるか昔には間に合わずに自責の念に苛まれたこともあった。しかし。
誰ぞ、これは助け船と言うたか。
古い師の言葉が蘇る。皺だらけの窪みの中にじっと光る小さな瞳。命運には逆らえないのだと教えられた低い声は、地獄の鬼よりも恐ろしかろうと若い直和は思った。
我ら目的は助け船に非ず。生き死にの是非を問う者は別におる。その者が正に生き死にを決める。我ら目的そのものが生き死にを問う者の手中にあると心得。己の自責の情など欺瞞である。
的人を見る目を養い鼻を養うが我ら役割。
的人の命運を自分のせいにするのは人間の考えである。世界にはどんなに努力しても手に入らない変われないものがあり、またいとも容易いものもある。
もとよりそのことにもう興味はないが、若い時分にはよく思いを馳せ、叱られた。ということをぼんやり思い出し、やめた。
テーブルの置き時計が、5時をさしている。ノートを開いてペンを走らせていると、インクの香りが広がる。ふと、雨の匂いを嗅いだ。徐々に明けていく空は晴れているようだがおそらく午後は雨になるだろう。
chapter・5
現代人の世界では曜日の感覚が大部分の社会的生活を司っているのをようやく理解してからの2回目の生、金曜日の今日は工場の職員たちにはそこはかとなく安堵感のようなものが漂う。中には土曜、日曜が休みの者もいて、直和は明日も出勤だが大多数が、今日の午後までを『耐え忍めば』休日となるからだ。
街の人間たちも多くは安堵感を抱いている。
直和には『耐え忍ぶ』感覚が分からない。なぜなら、働くということは生きることだからであり、体が動き、働いて、生活というものを回しているうちが幸せだと考えるからだ。
ところが、現代人は『楽しく休日を過ごすために頑張って働く』ということらしい。つまり、休日には休み、何かしらを楽しみたい。それには金がいる。生活する以外にもいろいろと金がいるのだ、という今の社会の仕組みは勉強したが、とにかくそういうことらしい。彼らは休日には、気晴らしに遊びに行ったり、クルマで出かけたり、ゆっくり映画を観たり、という社会的行動をするに当たり、体を維持するためにだけ働くのではなくて、様々な費用のために働く。
つまり、現代人はやることが増えすぎて貨幣制度を使いこなせていないか、貨幣制度にすっぽり嵌まる生活を満喫しているか、
どちらかということだろう、と直和は思っている。
結婚していたり、子どもを育てるために金銭を得るという行為は常人的で理解可能だが、現代世界にはアミューズメント要素、とでも表現するのだろうか。それが多すぎて、すでにそちらのほうは理解不能である。
工場でいつものように立ち続け、ひたすら部品をチェックしている最中から、直和は視線を感じていた。興味と困惑の視線だ。気にせず作業をこなすと、昼になり、ロッカールームで着替えていつものようにコンビニに寄り、老人ホームについてからおにぎりを食べた。外のベンチでは老人が何人かぼんやり座っていたり、ホームの職員のように庭いじりをしていたりする。直和は毎日彼らを見ているが、大昔と違って人は、なんと長生きになったことだろう、という感想しかなかった。
用務室に入り、館内の清掃に就く。すれ違う職員たちと普通に挨拶を交わし、黙々とゴミを片付け、館内の清掃がひと段落したら、次は外の掃除に移る。手すりを拭くための雑巾を洗っているとき、また、視線を感じた。
ホームの清掃が終わり、帰路に就く。下り電車は空いているようで、ホームに上がると人はまばらだった。どこかに飲みに行くような人間が多いのだろう。そのまままっすぐ進むと、例の視線の主が、前日と同じようにベンチに座っていた。
「よう、もう帰りか?」
工場の中島だった。直和は少し考えて、ベンチの隣に腰かけた。自分に用事があるらしい。
「なんだよ、すぐ隣に座るな、気持ち悪い」
と、笑いながら言うので、少し離れた。
「酒は飲まないんだったよな」
「そうだ」
「付き合いとかもしねえの?」
「しない」
お酒に付き合うということらしい。
「へえ」
その時、いつもの時間の電車が間もなく到着するというアナウンスが響いた。直和が立ち上がると、中島が慌てて言う。
「ちょっと、待ってくれないか」
立ち上がって、直和を引き留めた。
「もし、時間があるならオレに付き合ってもらいたい」
「それは、何時までだ」
「・・・・えーと、わからないけど、小1時間ばかし、かな。それでいいや」
「すると、午後5時までだな?」
「まあ、たぶん。いいか?」
1時間くらいなら、「付き合う」ことにした。
「ああ」
中島は、明らかに嬉しそうな顔になって、
「そんじゃ、よろしく。実は、駅前にちょっといいとこがあるんんだ」
「この駅か。降りられんぞ」
直和が真面目に言うと、中島は噴き出した。
「何だか、武士みたいな言い方するなあ。定期で入ったって、降りられるよ」
「そうなのか」
それは初めて知った。
「んじゃ、行こか」
二人は、駅の階段へと向かった。
中島は、「きよ美」という、駅の反対側に出て5分ほど路地を行ったところにある、小さな居酒屋の暖簾をくぐった。午後4時過ぎでも、その店は酒を提供しているようだった。小さな店内に人は2、3人で、それぞれがカウンター席でつまみを食べたりビールを飲んだりしている。
中島は、「2人、テーブル席で」と、女将のような店主に挨拶のように言った。女将は、「奥が空いてるよ」と返し、二人は店の一番奥に二つだけあるテーブル席の、右の座敷に入った。
「とりあえず、適当に頼むよ」
と、中島は、ビールのジョッキ二つと天ぷらや枝豆などのおつまみを注文し、小さなテーブルの上がそれらで埋まると、
「じゃあ」
と、ジョッキを片手に持った。「交わす」ということかと直和はそれに従った。
口の中にいきなり広がる炭酸の感覚に、直和は、あの、口に含んでからじわりと広がる「酒」のことをふと思い出した。確かにあれは旨かった、と思う。
「あー、まだ明るいうちからいいねえ」
中島はご機嫌な様子で、天ぷらを頬張った。
話し方は中年男のようだが、彼はまだ30を超えていない、直和とさして変わりない年代の男だ。毎日ラフな格好をしていて、ひと目ではどのような仕事をしているのかといった情報が分かりにくい。それは直和も同じであるが。
「けっこうイケる口じゃん」
中島は愉快そうに言ってから、ふと思案顔になった。そのとき、直和の鼻に、不思議な匂いを捉えた。『的人』たちとは違う、独特の、深い、海の底のような匂い。
「オレに用事があるのだろう」
直和が言うと、中島はグイッとさらにジョッキのビールを呷り、コトン、と置いて何かを覚悟したかのような顔で、直和を見た。
「ああ、まあ。少しいろいろと聞きたいんだけどな。いいかな」
「どのような要件だ」
「えーっと・・・」
頭を掻く仕草をして、続ける。
「対馬ってさ、いつもそんなそんな感じ?」
「意味がよくわからん」
「つまりそのー、何考えてるのかさっぱりわからないっていうか、あんま喋らないうえに怒らないっていうか。そもそもあまり感情がないってい・・・、あ、悪い。そういう意味じゃなくて・・・」
「どんな意味でも構わんが」
直和は聞きながら、目の前の天ぷらを夕食とすることにした。中身は魚のようだし、ついでに枝豆もある。
「そうか?ほら、人のことに興味ないっていうかさ、そういう感じっていうのは、その・・、」
言い淀み、目を彷徨わせる。
「例の、ことからだよな?」
「例の、とは」
「だから、対馬、一度ほら・・・」
「飛び込んだことか」
直和が平気な顔をして返したので、中島は眼を見開いて驚いた。少し、ホッとしたようにも見えた。
「そ、そう。それのあとと、前で、まるで別人みたいだ、って誰かが言ってたしさ。オレも、1年ちょっとはあんたのこと見てたけど、いつも青白い顔して、あんな工場のくだらない奴らにもビクビクしてたりしたろ?それが、今じゃ、まるで感情がないみたいだ」
随分と思い切って言ったのだろう、中島は慌てて再びジョッキを手に取った。
生前、つまり前の肉体の持ち主と、今の直和が全くの別人であることは口外できない。かと言って、中身は別人であることは事実である。直和は、静かにゆっくりと言った。
「その通りだ。例のことから、変わった」
「やっぱり、そうか・・・」
中島は、しばらく直和を見ていたが、ようやく話の核心を語る決心がついたようだった。海のような匂いがより一層濃くなる。だが、周りに危険はないようだ。構わず天ぷらをゆっくりといただく。
「実はな、オレの妹のことなんだが・・・」
中島はぽつり、ぽつりと話し始めた。
彼の妹は、彼の二つ年下であり、今は地元に帰り、家業を手伝う生活をしている。家業は農家で、いずれ彼がそこを継ぐ予定のようだったが彼に全くその気はなく、親に反抗して上京した。逆に妹が帰ったのは、都会で社会人として働いている間にひどいストレスにさらされ、ついに耐えられなくなり、海に飛び込んだ、という経緯があったからだという。
「飛び込んだのか」
「・・・そうなんだ。ところが、なぜか助かってな。気が付いたら、近くの浅瀬で寝ていたみたいだ」
「記憶がないのか」
「そう。飛び込んだことは覚えている。でも、そのあとの記憶が抜けてるらしいんだ」
「オレではないが」
この体になってから、海に飛び込んだ女性を助けた記憶はない。
「は?」
「いや。いつ頃のことだ」
「1年ちょっと前だったかな・・・。それで、ここからが本題なんだ」
気が付いたあとの妹は、まるで別人のようになってしまったという。
「大人しくて優しくて、ようするにいい子だったんだよ。なのに、すぐに人に突っかかるようなキツイ性格に変っちゃったっていうか。うちのばあちゃんなんか、『まるで狐憑きだ』なんて言うくらいにさ」
「ほう」
確かにその可能性はあるように思った。ただし、正体は狐ではないだろうが。
「オレがそれをじかに見たのは、今年の正月に実家に帰ったときでさ」
飛び出したはいいが、たまには顔を出していたらしい。おまけに、妹がおかしくなっているから助けてほしい、とまで両親に電話口で頭を下げられた。仕方なく実家に帰ると、確かに彼の妹は、外見は妹であったが、中身は「別人」であった。
「ちょっと変わったとかいうんじゃないんだよ。まるで、中身がほかの誰かと入れ替わっちまったんじゃないかっていうくらいにさ。びっくりしたよ。それで、対馬もそんな感じはするけど、攻撃的になったってわけでもないし、何か理由とか、そういう経験のあとってそんなに変わるもんかって、聞いてみたくてさ・・・」
「なるほど」
直和は、そのままを言った。
「そういった経験のせいではないようだ」
「そ、そうか?」
「そうだ」
強い海の匂い。ゆるゆるとした動き。それはもう、身内にまで及んでいた。まだきちんと形を成していない「それ」は、ゆっくりと「生まれてはならない物」へと変化しつつある初期段階のようだった。しかし、本人がここにおらずとも、この有様では、この中島という男もいずれ『的人』にされる恐れが強い。最も避けねばならぬ事態だと把握した。
「妹殿の件だが」
「殿?!」
「そうだ。妹殿の件は、無関係ではなくなった」
「へ?」
「いつ会える」
「いや、その、まさか、対馬がなんとかしてくれるのか?」
「そうだ」
「でも、なんで?」
「必要だからだ」
「必要?何に?」
「中島にだ」
「オレ・・・に」
直和が黙って枝豆を食べ始めると、なぜか中島が、涙ぐんだ。
「確かに、なんか、こんな話、他に誰にも・・・話せないし。ありがとう」
(つづく)