28.
この戦いの中心に位置し、激戦が繰り広げられるであろうと思われていたディナン盆地は現在、ごうごうと辺り一面に響き渡る轟音と共に周りに有る物を片っ端から飲み込んで行く濁流に変貌していた。
この濁流は、ディナン盆地の北側に連なるマルメディ山地をくり抜いて山全体を地下要塞としたサンビト要塞を護っているカーン伯爵軍が意図的に起こした人工的な自然災害であった。
敵には頭の良いモグラが居る様で一体どうやって行ったのか、ディナン盆地に接して流れる大河、マース川の堤防を一瞬に崩し、その膨大な川の水を一気にディナン盆地に流し込んだのだった。
ディナン盆地には、今現在何を思ってやって来たのか知らないが、ペータース伯爵率いる約十万の軍勢が進出しており、盆地の中央に陣を張ろうとしている最中だった。
あまりの事に茫然と立ち尽くして居る間に、ついさっきまで広大ではないものの、それなりの広さを持っていたディナン盆地は、一面の草原から湖へとその姿を変えていた。大勢の兵をその体内に飲み込みながら。
「堤防を決壊させるなら夜中だと思っていたんだが、真昼間の実施も有りなんだな。と言うよりも壊滅させるなら昼間に限るって事だったんだな。ずる賢いモグラだぜ」
お頭が、感心したというか、呆れた様に言い放った。
「どういう意味?昼間に限るって?寝込みを襲った方が効果があるんじゃないの?奇襲なら寝込みってセオリーじゃない?」
ふっと、片頬で笑ったお頭は子供に言い聞かせる様に説明を始めた。
「この先、長生きしたかったら覚えておくんだ。セオリーが全て正しいとは限らない事をな。現場で自分で見て、感じて、判断した事に勝る事はないんだよ」
いついなく真面目な物言いに、驚いているシャルロッテだったが、ムスケルは続けた。
「お前さ、夜中寝ている時に水に放り込まれたらどうする?」
「へ?そんなの泳いで逃げるわよ、あたりまえじゃない」
「驚きはするが、逃げられるだろ?じゃあ、昼間だったらどうする?」
「昼間だって、泳いで逃げるわよ」
すると、アウラが突然叫んだ。
「あーっ!わかったぁ、着ている物の差だあ」
「着ている物?」
「良く気が付いたな。そうだ着ている物だ。寝ている時は基本見張り当番以外は薄着だろうが」
「うんうん、薄着だから驚きはしても泳いで逃げられる」
「そうだ、昼間だったら?」
「昼間だったら、みんな鎧に兜、盾や剣も装着している~」
「そうだ、水が来るのが見えていても、重くて泳げない。脱いでいる暇も無い。おそらく、ほぼ全滅だろうな。えげつない事しやがるぜ」
「じゃあ無事なのはヴェルダンの丘に向かった一万だけ?」
「そんな感じだな」
そして、ヴェルダンの丘の背後に集結している味方にどうやって指示をだすか悩んでいたそんな時だった。
ふいに現れたのは、人外の力を秘めた好々爺、竜執事のヴィーヴル氏だった。
「あの丘まで大急ぎで行けば宜しいのですね?」
隣の家にお使いに行く様な気軽さで言う竜執事の言葉に一同は一瞬固まってしまった。
どうやら、彼は主人である竜王様からお許しを得て来た様だった。
「いいの?お願いしてしまって」
「はい、お任せ下さいませ。さあ、時間が無いのでございましょう?急いで行きますよ、支度をなさって下さいませ、直ぐ飛び立ちますよ」
「えっ?待って待って、まだ命令書書いてないから・・・」
「その様な物は向こうでお書きなされれば良いかと。さあ、御乗り下さい、直ぐに出発致します」
そう言うと、竜執事の全身からなにやら強力な圧が発せられたと感じたとたん、その華奢な体がみるみる膨らんでいき、あれよあれよと言う間に全長五メートルはあろうかという竜に変身していた。
全身を覆うキラキラと輝くコバルトブルーの綺麗な鱗、こちらを見て居るその顔は精悍で獰猛な、まさに世界を意のままにさえ出来る竜そのものだった。
「さあ、お嬢様方は背中にお乗りください」
そう言うと、姿勢を低くして地面に伏せた。
あたしとアウラは恐る恐るその背中へとよじ登って行った。その鱗は、すべすべとしており、ヒンヤリと冷たかった。
小さな竜だと思っていたのだが、上ってみるとこれが意外と高い。初めての感覚だった。
「おいっ、俺はどこに乗ればいいんだ?」
下の方でお頭が叫んでいる。竜執事氏は長い首を後ろに回すと、お頭と対面した。
「そうですねぇ、わたくしは野郎を背中に乗せる趣味は御座いませんので、一緒に行きたいのでしたら、足にでも掴まってください」
男が男にはそっけないのは、人も竜も一緒なんだ。あたしは、笑いそうになった。
結局、あたし達はその後すぐに飛び立った。人生初の飛行だった。それほど高く上がった訳ではなかったが、遠くのベルクヴェルクの山々やパレス・ブランも小さくではあるが見てとれた。この光景は一生忘れる事はないだろう。
お頭はと言うと、足に掴まったまま悲鳴を上げつつ涙まで流していた(笑)
実際の飛時間はせいぜい十分か十五分だったろうか、空を飛ぶってなんて速いんだろう。そして、なんて楽しいんだろう。
わくわくしながら、空を楽しんでいると、あっという間に目的地に着いてしまった。
下から矢で撃たれないか冷や冷やしていたが、下は下であまりの事態に迎撃どころではなかったらしく、すんなりと接近が出来た。
ヴェルダンの丘から少し南に離れた地点に着地すると、指揮を任せていたデビッド・フォスターをはじめとする公国兵達がわらわらと集まって来て取り囲まれてしまった。
「シャルロッテ殿、これはいったい・・・あの水の音はなんなんですか?戦況はどうなっているんですか?」
指揮官のフォスター氏が顔を真っ赤にして駆け寄って来た。
ここは、ディナン盆地とは丘を挟んだ反対側に位置しているので、事情がわからないのだろう。
「「「「「うおおっ!!竜が人に変身したあああぁぁぁ」」」」」
あたし達を降ろした竜執事氏は、再び竜から人へと変化したのだが、その光景を目の当たりにした兵達は腰を抜かさんばかりに驚いている。
勿論、フォスター氏も例外では無かった。
「こ これは、竜が人になるなどと・・・ありえない」
うん、言いたい事はわかるよ。うんうん。
でも、質問には後でいくらでも答えてあげるから、今はやるべき事をやろうね。
「部隊の編成は終わってる?直ぐに出られる?」
呆けているフォスター氏に矢継ぎ早に質問をする。
そこは歴戦の勇者なのだろう。呆けていても頭の切り替えは早かった。
「編成は終了しております。状況が状況なので正式な編成をしている時間的余裕が無かったので、戦いに即応する事を優先に考え、実戦に耐えられる経験者だけで編成した独立任務部隊を、一部隊百名で十個部隊選りすぐってあります。弓専門の部隊も二百名の部隊を三個部隊編成済みです。残りの約二十万は、固めておいて数で押す戦いに投入すれば、それなりに戦力になると思われます。
「さすがね。見込んだだけあるわね。じゃあ、状況を説明するね」
あたしは、総指揮官のフォスター氏と各部隊の指揮官を集めて説明を始めた。
「まず、今の状況ね。ペータースの軍がディナン盆地に入った所で敵はマース川の堤防を決壊させたの。さっきからしている物凄い水の音は、盆地が湖に変貌しつつある音ね」
「なんと、そんな事が出来るとは。それで、そのペータースとやらの軍は?濁流に巻き込まれたので?」
「正確な所はまだ不明なんだけど、恐らく・・・ほぼ壊滅に近いかもしれないわね」
「「「「「おおーっ!!!」」」」」
誰が発するでもなく驚きのうめき声が漏れ出している。
「でね、唯一無事な部隊は、本隊から離れてヴェルダンの丘攻略にむかった約一万だけなのね。その部隊は今も丘に向かって進撃しているはずなの」
「なるほど、だとすると今がチャンスな訳ですな」
ふと、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、どこかで見た騎士が立って居た。オレンジの鎧に包まれて。あれ?誰だっけ?
「こ これはグッドマン大佐!」
ああ、そうだ、そんな名前だったわ。
「グッドマン大佐、アナスタシア様の護衛をお願いしていたはずですが?」
「あはは、ご心配召されるな。充分な護衛をつけてありますよ」
「そうなの?」
「ええ、護衛に一万を貼り付けてあります。その上、山岳兵を五千程マルメディ山地に配置して来ましたよ、モグラ叩きをする際に役に立つでしょう」
「あらら、さすがククルカン要塞の副司令官ね」
「お褒めに頂きまして有難うございます。それで、これからヴェルダンの丘攻略に向かうのですね」
「良くわかりましたねえ」
「なんたら伯爵の一万の兵を湖に追い落とそうと躍起になる今が一気に叩くチャンスなのでは?」
「はい、その通りです」
「あのぉ、折角グッドマン大佐がいらしたのですから、ここの指揮は大佐にお任せして、私は最前線に出たいと思います」
そう申告してきたのは、フォスター氏だった。
「お前、ずるいぞ。俺だって最前線に行きたいぞ」
「まあまあ、ここは先輩にお任せしますって。作戦立案お願いしまーっす♪」
そう言うと、走って行ってしまった。
「申し訳ないですなあ、いつもあんな感じなんですよ。優秀な奴なんですがねぇ」
「ところで、この陣営に竜が居られるとか?人外の力を持っている竜が居られるのなら、前面に押し出せば楽にこの戦いに勝てるのでは?」
確かに、傍から見たらそう見えるのかも知れない。竜と言えば力の象徴だった。空を飛び、高温の炎を吐き、その力は山をも崩すと言われている。
そんな竜が味方になって戦ってくれれば心強い事だろう事はわかる。でも、そもそもそれは無理な話しだった。
「あのね、あたしも詳しい事は知らないんだけど、竜王様が仰るには竜族には世界との理があって、基本的に人の世界には干渉できないそうなんです」
「そ そうなんですね」
「うん、だから彼は今回善意で付き合ってくれているの。だからね、前面に押し出す訳にはいかないのよ。ごめんね」
「ああ、いえいえ。そういう事でしたら大丈夫ですよ。そうですよね、人間界で起こった不祥事ですから、多種族を当てにしたらいけないですよね。自分達の叡智を結集して解決しないといけませんし、あなたがいらっしゃるんですからきっと解決出来ますよ」
「そ そうかなぁ・・・」
「そうですとも。あなた程奇抜な発想をしているお方は見た事がありません。大丈夫、なんとかなりますよ」
面と向かってそんなに褒められると照れるんですけどぉ。
「そうそう、お嬢程特異な人間は世界広しといえども他におらんて」
「お頭ぁ~っ、そんな珍獣みたいに言わないでよね。ぷんぷん」
「珍獣・・・ある意味、言い得て妙で御座いますね。うんうん」
みんんな、あたしをネタに楽しんでるし・・・
「いいわよっ、そんな事言うなら徹底的にこき使ってやるんだからね!」
「おお、期待してるぜお嬢。で?まずはどおするんだ?」
「決まってるでしょ?ヴェルダンの丘守備隊は伯爵の別動隊を湖に追い落とすのに夢中になっているんだから、今がチャンスよ。兵力差を利用して一気に叩くわよ」
「フォスター氏が用意してくれた独立任務部隊と弓部隊を半分に分けて丘の東西に配置。みんなには発火の魔石を持たせてこっそりと敵陣に接近させて頂戴。ああ、油も持たせるのを忘れないでね」
「なるほど、火責めか。火は頂上に向かって燃え広がるからな、敵さんも驚くだろう。だけどな、そんな付け火だけで要塞は燃え落ちないぜ?」
「確かに、かなり大々的にやらないと効き目は無い様に思えますが?」
みんな、不思議そうにこっちを見て居る。
「いいのよ、燃え落ちなくて。驚けばいいのよ」
「驚かしてどうするんだよ」
「心理戦よ。火ってね、人に恐怖を与える作用があるのよ」
「いやいや、巨大な炎なら恐怖も与えるだろうが、そんなちょろちょろの火で恐怖を与えられるのか?」
「いや、驚けばいいのよ。火を点けたら、本隊の二十万を正面をゆっくりと前進させて頂戴」
「おいおい、素人同然の兵に正面攻撃させるのか?」
「んーん、そんな事させないわよ。ただ圧を掛けてくれればいいの。連中の目がこっちの本隊に向いてくれればそれでOK」
「それでいいのか?」
「うん、二十万の大軍が背後から迫って来ていて、陣地の回りから火の手が上がり、更に湖からは一万の兵が押し寄せて来ている。さあ、連中はどう思うだろう?」
みんなは、思い思いに考えている。
「そうだな、周りを囲まれた事に気が付いたなら、、、逃げ出す・・・かな?この戦力差を見たら持ち堪えられないってわかるだろう」
「うん、あの二十万の兵が素人集団だなんてわからないだろうから、あれ見て浮足立って逃げ出してくれると助かるんだけどね」
「なに?」
みんな、呆れた顔であたしの事を見て居る。あたし、そんなに変な事言った?
「いや、お嬢の思いっきりの良さとその度胸に感心しているんだよ」
「そうですね、是非一度うちのオレンジの将軍と一騎打ちさせてみたいものですな。意外といい勝負をするかもしれませんよ」
「あはははは、そりゃあいいな。その時には是非観戦させてもらいたいもんだな、最前列でな」
「ちょ、まってまって、何勝手に決めているのよお。やだよおあんなおっかない人とやり合うのなんて。あたしは平和主義者なんだよ?」
何故か、全員笑っている。周りで聞いていた兵達も笑っている。ぶー!!本当の事なのにぃ。
「とにかくっ!殲滅する必要はないから、逃げ始めたら逃がしちゃってね。まだ、先は長いんだから消耗しない様にしてねー」
ここは、指揮官として先を見越した戦術指南をしてみせないとねぇ。
だが、ここでもしっかりと腰を折ってくれるお方が現れた。これも、ご自身が持っておられるスキルの効果なのだろうか?あたしにとっては、非常にやりずらいのだが。
「おまちください!」
凛とした声があたりに響き渡った。
どうして、いつもいつもいつもいつも誰にも気づかれずに背後を取れるのだろう?
文句を言う訳ではないけど、本当に聖女様なのだろうか?どう見ても影の者にしか見えない。思っても言えないけど。
振り向くまでも無く、そこにはアナスタシア様が両手を胸の前で固く握りしめて立って・・・立って居られた?
えっ???
なぜ?
その全身は鮮やかなオレンジの甲冑に包まれていた。
頭こそ兜を被ってはいないもの、どう見ても帝国騎士の姿だった。
「ア アナスタシア様・・・これは」
すると、背後に居たオレンジの騎士が頭を掻きながら前に出て来た。
そして、小さな声ですまなそうに話すのはオレンジの悪魔のブライアン・ロジャース中佐だった。
「すまない、全力で御止めしたんだがなぁ、押し切られてしまった」
「押し切られたって・・・」
「おじさんは、少女のうるうるした眼差しとお願いには弱いんだよ。勘弁してくれや」
「こんな時ばっかりおじさんだなんて・・・」
「ああ、一応危険なんで、鎧を付けて貰ったから、これで勘弁な」
そう言うと、ぺこぺこ頭を下げている。
アナスタシア様は、初めての鎧姿が気に入ったみたいで、しきりにくるくると自分の姿にうっとりと見入って居た。
「あ あの、アナスタシア様。・・・いったい・・・?」
あたしに声を掛けられて、現実に戻ったアナスタシア様はコホンと咳払いした。
周りを見回すと、みんな膝まずいてうっとりとアナスタシア様を見上げて次のお言葉を待って居た。
「シャルロッテ様、わたくし決心致しました。もう黙っている事は出来ません。これより立ち上がる事に致しました。お力をお貸し下さいませ」
あ あの、仰っている事は立派なのですが、、、仰っている意味理解できていますでしょうか?
あなたが動かれると、周りが迷惑なのですが、、、。
そんなあたしの思いは届くことは無く、アナスタシア様は言葉を続けた。
「わたくしはあの惨劇を目の当たりにして、決心しました。今、この世界は混沌に包まれています」
「は はい」
「シャルロッテ様は、ご存じでしょうか?その昔、この世界に神々がおわしていた時代、闇の一族がこの世界に進出して来て、世界が混沌に包まれた事があったそうです」
「はああぁ」
「その時、神々は基本的に争い事が出来ないので、立ち上がる事が無かったのでした。唯一、聖神マルティシオン様だけが立ち上り闇の一族を一掃したそうです」
「へぇぇ」
「この世界に今広がっている混沌を収める為、わたくしもマルティシオン様に倣って立ち上がる事を決めました」
「ほう」
「ですので、どうかこのわたくしに手をお貸し頂けないでしょうか?この通りで御座います」
深々と頭を下げられたあたしは、ドギマギしてしまった。
困ってしまって、振り返ってお頭に助けを求めたのだが、お頭はそっぽを向いて口笛を吹いている。何て言う奴だ。
アウラは?と、お頭の隣を見ると、、、アウラもそっぽを向いて口笛を吹いていた。さすが似た者同士だと。
困ってしまってアナスタシア様を見ると、両手を組んでウルウルした目で見つめて来ている。
だめだ、この態勢になってしまっては、こちらに勝ち目は無い。無条件降伏一択だった。
「わかりました。元々あたしはアナスタシア様の護衛が主任務ですので、指示に従います。ですが、命の危険を伴う場合は、その限りではありませんのでご了承下さい」
「あらぁ、そうなのですか?」
「当然で御座います。御身に危機が迫りましたら、お身体を引きずってでもお守り致す所存に御座います」
「まぁ、そんなに肩に力が入って居たらいけませんわ。もっと、フランクにいきましょう。言葉使いも、もっと対等でよろしいのですわよ」
あたしは、物凄い脱力感に囚われ、へなへなとへたり込んでしまったのだった。
あー、明日から思いやられるわ、、、。いや、既に思いやられているのかも知れない。
やっぱりあたしは、不幸だ。世界一不幸だ。