178.
朝が来た。すがすがしい朝だった。
アンジェラさんはすっかり体調が回復したと見えて、船はぐんぐんと力強く夜明けの空を登って行った。
目指す目的地は、いよいよ、いよいよマイヤー兄様が待つ東方要塞だ。
堕天使の不安が全くなくなった訳ではないのだが、竜王様から貰ったこの剣があればおそらく大丈夫だろう。今は少しでも早く兄様に逢って、今までの事を話したいだけだった。
あたしはアンジェラさんのすぐ脇に立ち、今更ながらその安定した操船に感心するように見入っていた。
「ねぇ、アンジェラさん」
「はい?なんでしょうか?」
「その・・・アンジェラさんはさ、いつから、その、モノを動かせるようになったのかなぁって」あたしは気になって居た事を遠慮がちに聞いて見た。
だけど、アンジェラさんは意外な事を聞かれちゃったぁ、って感じで、なぜかおどおどしていた。そんな変な事聞いちゃったかなぁ?
「あ ええっとですねぇ、昨夜の竜王様の剣の事・・・ですよねぇ。あれは・・・ええっとですねぇ、聞かれましても困るといいますか・・・あのお・・・私自身も良くわからないのです。あの時はもう必至でして・・・出来たらいいなぁって位の思い付きで、やってみたらできちゃった・・・みたいなぁ?」
「そうなの?」
「ええ、自分でもどうして出来たのかわからないんです。必死に『動けっ』『動けっ』って祈って居たら・・・出来ちゃったみたいでして・・・はぁ」
「咄嗟で出来るなんて、やっぱりアンジェラさんは凄いのねぇ。改めて尊敬しちゃうわ。これからもよろしくね」
その瞬間、船が突然うねり始めて、あたしは脇にあった手摺りに慌ててしがみついて難を逃れたが、甲板のあちこちで悲鳴が上がっていた。
「す すみませーん、まだ操船に慣れていないみたいで、ちょっとした心の動揺が船の安定に直結してしまうみたいなんですぅ」
アンジェラさんも舵輪にしがみついて船を安定させようと必死になっている。
「そ そんなに動揺する様な事聞いちゃった?あたし」
「シャルロッテ様に尊敬などと言われましたら、動揺してしまいますよお」
アンジェラさんは何故か涙目になっている。
航行中に話し掛ける時は、もっと話す内容に気を付けないといけないわね。
「ごめんなさいね、動揺させるつもりはなかったんだけどね。以後気を付けるわ」
「つもりがあろうが無かろうが、結局動揺させてちゃーダメじゃあねーかよー!」
野太い怒声が飛んで来た・・・が、姿が見えない?
「あれ?おかしらの声がしたと思うんだけど、姿が見えない?どこから声がしたんだろう?」
不思議に思い周りを見回していると、舷側の手摺りの向こうから、ぬうっとおかしらが姿を現した。
ん?手摺りの向こう?それって舟の外って事?
驚いて居ると、甲板上に戻って来たおかしらに睨まれてしまった。
「俺だったから良かったものの、他の奴だったら船の外に飛ばされてる所だったぞ!」
「「ごめんなさーい」」
あたしとアンジェラさんは同時に謝っていた。
おかしらは、腰の埃を叩きながら周囲を見渡して一言吠えた。
「落ちた奴はいねーかあ?いたら返事しろやあっ!!」
そんな無茶な。落ちて居たら返事なんか出来ないでしょうに。
「落ちた奴はいねーかー?」
そう叫びながら、おかしらは船室に降りて行った。
「なんなんだ?」あたしはあっけに取られていたのだが、ポーリン達には想定内の事のようで、驚いた風も無かった。
「おかしらはいつもああなんね」
「おかしらなりの気配りなのね」
「不器用なんですよ、あの人は」
「お腹すいた~」
「あのう、この機会に申し上げさせてもらいますが、今後、モノを動かすのは無理と思って下さい。一振りの剣を持ち上げただけで力をほぼ全ての力を使い切ってしまう体たらくでして、ご理解願います」
「えっ?だって、今だって船をしっかりと飛ばせているじゃあ・・・」
「この船は大丈夫なのです。理屈はわかりませんが、この船に関してはほとんど力を消耗せずに問題無く動かせるのです」
アンジェラさんは真面目だから、本当にすまなそうに謝ってくれるが、彼女を責める事は出来ない。
「大丈夫よ。足りない所はみんなで補っていけばいいんだから、気に病む事はないわ」
思わず自分の言葉に酔いしれてしまったが、みんなには内緒だ。
内緒なんだが、何故かアドが怪しい者を見る目でこちらを見ている。見透かされているようで落ち着かないのは、気のせい?
船は焼け焦げた草原を越え、更に山に向かって東進して行く。
少しづつではあるが、東部の山々が近づいて来ていて東部要塞の一部と思える城壁と思われる構造物もはっきりと見えて来て居る。
問題は着陸地点だ。見た所着水出来そうな場所はなさげだったのだ。
この船は構造上降りる場所を選ぶ。平らな地面に降りると、こてんと横倒しになってしまうのだ。
そうならない為にも、川、池、沼などの水場が必要だった。
さて、どうしようか?
「手前で降りて、歩きで要塞に向かうしかないでしょうね。どのみちこの船で空を飛んで乗り付けたら、見た事の無い物が来たって、向こう側も警戒するでしょうしね」
あたしの考えを読んだアドがそう言って来た。ホント、良くもまああたしの考えを読めるもんだ。
「そうね、撃ち落されはしないだろうけど、無駄に相手に不信感を与えてもいけないしね。それなら早いとこ池か沼を探さないといけないわ」
前方を見た感じ、要塞までに水場はなさそうにも見えるのだが、アドは落ち着いていた。
「大丈夫です。水場はあります」
きっぱりと断言するアド。どこに根拠があるのかあたしにはわからない。
「要塞背後の山々を見て下さいよ」
アドの視線の先、東方要塞の背後には千メートルはゆうに超える山脈が控えていた。
「あの規模の山脈には、必ず山に降った雨を流す為の川が存在するのですよ。その川の流れている場所は、周りとは植生が違ってくるので遠くからでも容易に確認が出来ます。例えば、ほら一時の方向から目の前を横切るように九時の方に向かって、一筋の線のように低木が密集している場所が見えるのがわかります?あれ、おそらく川ですよ」
前方を凝視すると、確かにアドの言うように草原の中に色の濃い筋のような部分が確認出来た。
あたしは、さっとアンジェラさんを見た。彼女も確認できたのだろう、うんうんと頷いている。
船は進路をやや右舷側に変えつつ、静かに高度を落として行った。
いつの間にか甲板上は人口密度が高くなっていた。下船の準備の出来た者から甲板上に上って来て、興味深げに前方を見ながら思い思いに談笑をしている。
上空には堕天使もワイバーンも見えない。地上には蛮族の姿も見えず、穏やかな飛行となっていた。自然と笑い声も出ようというものだった。
やがて、眼下には川が見えて来たのだが、水の流れている部分、要するに川幅はいやに狭かった。だが狭い川幅に対して河原がやけに広かった事から、雨が降ると一気に水量が増えるのだろう事がわかった。
正確には、アドの説明で理解出来たのだが。
さすがに、この川幅と水深では安全に船を停泊させるのは難しいので、川を少し下る事にした。
少し川を下ると、川の脇にぽつんぽつんと小さな池が姿を現わしだした。
アドが言うには、大雨による増水で川が暴れた後に水位が下がった為に取り残されて出来た池なのだろうとの事だった。
あたし達は、その中でも大き目な池に向かって進路を変え、無事着水する事が出来た。そこは東方要塞の手前約三キロほどの距離だった。
大きめの池にしたのは、水が減って船が横倒しになる危険を回避するのと、蛮族の襲撃から船を守る目的があった。
着水後の第一の仕事は、いつやって来るかわからない蛮族達から船を守る事だった。
あたし達は乗組員総出で、池の周囲にぐるっと杭を打った。こんなもので防ぎきれるとは思わないが、何もしないよりはましだろう。
あたしがアド、アウラ、ポーリン、ジェームズさんを連れて東方要塞を訪れて、話を付けて帰って来るまでの間持ち堪えればいいのだから、なんとかなるはずだ。
杭打ち作業で夕方までかかってしまったので、要塞訪問団が出発するのは明日の早朝と決まった。
こちらの事は見えているはずなのだが、今の所、要塞からの動きは無かった。未知の存在に対して慎重になっているのだろうか?
蛮族を火責めにしている所も見ているはずなのだが、敵と認識されてしまったのだろうか?
「要塞の動きが全くないですね。堕天使を見ちまったから、恐ろしくなって亀のように首を引っ込めて守りに徹しているんですかね?」
額の汗を腕で拭いつつ、ウェイドさんが呟いた。
「そりゃあ怖ぇーだろうよ。俺だってまだ足が震えてるぜ」
そう言う割に、おかしらの表情はリラックスして見えるのは気のせいではないだろう。おかしらが震えるなんて想像が出来ないもん。
「なぁ兄貴よう。このまま全員で要塞とやらに押し掛けちゃだめなんかい?その方が一回で済むんじゃないかい?」
ボッシュさんがジェームズさんに意見具申をしているが、ジェームズさんの答えはそっけなかった。
「シャルロッテ殿が決めた事だ。俺達は決定に従えば良いのだ」
「ちぇ~」
つまらなそうにボッシュさんは離れて行った。
そのまま警戒を厳重にしたまま夜を迎えたあたし達だったが、危惧していた通り夜半過ぎに蛮族が寄せて来た。
奇襲にならなかったのは、池の周囲に立てた杭に紐を張り巡らしてあったからだった。
紐には木の板が何枚もぶら下がっていて、触れるとカラカラと音を出すようになっていたのだ。もちろんアドの指示なんだけどね。
接近して来るのがわかれば後は楽だった。とは言え、寄せて来た蛮族の数が半端なく多いので、その始末には苦労した事は言うまでもなかった。
蛮族の奇襲に備えて船は池の真ん中に停泊させていたので、湖畔に達した彼らは次々に池に飛び込み泳いであたし達の元迄やって来た。
だが、幸いな事にこの船は舷側が高いので、乗船用にロープを降ろして居ないと上がってくる事が出来ないのだった。
船に上がって来れない蛮族達は、水面にびっしりと浮かびながら何やら思い思いに騒ぐだけで何も出来ずにいた。
そういうあたし達も、そんな蛮族を高みから見ている事しか出来なかったのだが、退屈したおかしらが何やら変な事を始めた。
甲板上に保管していた大人の太ももほどもある太い竹を、湖水に水平になるように舷側から伸ばしたのだ。そして、その竹の先端にはロープが結び付けてあって、湖面にまで垂らされていた。
「へっ、へっ、へっ、奴らに多少でも知恵があるなら、ロープを登って来るんじゃねーか?」
おかしらはどこか嬉しそうなのだが、あたしには何がしたいのかわからなかった。
他のみんなは、おかしらの考えが理解出来たのか槍を片手にワイワイと舷側に集まって来た。
「多少の知恵、と言うところがミソですね。全くのアホでは登ってはこれないし、賢かったら登って来ようとはしないですからね」
例によってアドが冷静に評価をしてくれたので、あたしにもおかしらが何をしたいのかが理解できた。
ロープまでの距離は約二メートル。槍が余裕で届く距離だった。すなわち登って来た蛮族を一方的にかつ安全に仕留められるという事だったのだ。
そんな見え見えの罠に誰が引っかかるんだと思ってはいたのだけど、これがまあ見事に引っかかるもので、ロープには蛮族がびっしりとじゅづ繋ぎにぶら下がって来たのには唖然としてしまった。
いったいあたしは、何を見せられているのだと思いはしたのだが、その時のあたしはいい加減精神が疲弊していたのだろうか、それとも要塞に向かう事で頭が一杯だったので気が回らなかったのだろう。彼らの愚行を咎める事も止める事も出来なかった。かといって参加する事も、見ている事も出来なくて、そのまま階下に降りて寝てしまった。
異常な興奮状態にあった彼らは、蛮族落としを朝迄繰り返していたらしかった。朝、起きて甲板に上がってみると、竹の罠は三か所に増やされて設置されており、押し寄せて居た蛮族はほぼ退治されたとみえて、水面は静かになっていた。
あたし達五人は、この蛮族がいなくなった隙を突いて、殺戮の池を後にして、夜明けの草原を東方要塞に向かって歩き出していた。
昨夜の惨劇は、もうすっかりあたしの頭から消え去っていた。
今のあたしは、目の前に見えている東方要塞に行きマイヤー兄様に逢う事以外は何も考えられなくなっていた。
一歩一歩、歩を進める度に近づいて来る要塞の城壁に、あたしの歩く速度は知らず知らずの内に早くなっていたが、あたしはその事に全く気が付いて居なかった。
気が付くと、あたし達は城壁の真下に到着していた。
そこまで来て、ふとあたしは違和感を感じた。
「???」
アドを見ると、彼女も違和感を感じたのだろう、軽く頷いていた。
「これは・・・どういう事?」