176.
別に何かをしようと思った訳では無いんだよ。ただ、永遠に続くとも思われた、奴とのにらめっこに耐えかねて、右手が自然に動いただけなんだからね。
ちよ~~っと、甲板上に転がって居たあたしの剣を、手持ち無沙汰だった右手が勝手に拾い上げただけなんだからね。
ただそれだけだったんだけど、みんなが思わず声をあげるほど事態が進展したのだった。
奴が、上空に浮いていた奴が、変な顔であたし達を見下ろして居た奴が、すうーっと後退したのだった。
「こ この剣のせい?」
思わず呟きながら、右手に握られた剣を見入ってしまった。
「姐さん、その剣、もしかして『天使殺しの剣』なんて言わへんわよね?あいつ、嫌がっとるでぇ」
恐る恐るポーリンが話し掛けて来たが、あたしはそんな話は一切聞いた事はなかった。
「そんなん、初めて聞いたわ。寝耳にみみず じゃなくって、寝耳に水だわ」
嘘は言っていないはず、うん、間違いなくそんな話は聞いて居ない。あたしは知らないわ。
「でも・・・その剣、竜王様から貰った剣ですよね。もしかしたらまだ知らされていない能力が隠されているのでは?」
アウラも恐る恐る、だけど期待に目をうるうるさせながら聞いて来る。
そんなに期待に満ちた目で見られたら、あたしだって期待しちゃうじゃないのよ。
大きく深呼吸をした後、あたしは剣を両手でしっかりと握り直し、一歩前に踏み出してみた。
「「「「「おおおぉぉ・・・」」」」」
みんなの目にもわかる位に奴は明らかにすすっと後ろに下がった。
思わずあたしはポーリンと顔を見合わせて、にやけてしまった。
いけるっ、これいけるんじゃない?
あたしはさらに一歩前に進んだ。
「「「「「おおおぉぉ・・・」」」」」
更に奴は後ろに下がったではないか。間違いない!これは、いける。あたしはそう確信した。だが、確信したがために調子に乗ってしまった。
まだるっこい事の嫌いなあたしは、一気にケリをつけるべく、一気に前に出てしまったのだ。一歩づつ前進などとちまちました事は好きじゃなかったから。
はい、がさつなあたしの性格のせいで、ほぼ手中に収めていた勝利が・・・ぽろっとあたしの手からこぼれ落ちてしまったのです。
少しづつ圧をかけながら奴を船から遠ざける。今思えば、それが正解でした。
あたしが一気に前に出るなんてことは、きっと誰も想像だにしていなかったのでしょう。当然一番驚いたのは、あたしと相対していた堕天使。奴であろう事は明らかなはずでした。
有頂天になっていたあたしは、その事が想像だに出来なかったのです。
一気にあたしが前に出た事で驚いた、いや驚愕した堕天使は全身の力を振り絞って叫び声を上げ、そのままくるっと踵を返して逃げて行ってしまったのです。
驚かせば、人だろうと魔物だろうと叫び声を上げるなんて事はわかりそうな事だったのに、うかつでした。
堕天使の叫び声は、ただの叫び声ではなく、あたし達の頭の中に直接ねじ込んで来る恐怖の叫び声だという事を、再度あたし達は認識させられたのです。
叫び声を聞いた瞬間、あたし達は全員耳を押さえたまま苦痛の為甲板上を転がっていた。当然あたしもだった。甲板から転がり落ちなくてラッキーだと思った瞬間、唐突にある事に気が付いてしまった。
あたしの両手は、今何をしている?
今・・・あたしの両の耳を・・・全力で押さえている。
じ じゃあ、その手に持っていた物は・・・?竜王様から貰った剣は?
あたしの両手は・・・何も持ってはおらず、素手のままであたしの耳を押さえていた。
ハッとしたあたしは、四つん這いのまま、どこかに行ってしまった剣を探したのだが、どこにも見当たらなかった。
どこ行ったの?あたしの剣。唯一堕天使に対抗できるかもしれない唯一無二の剣。さっきまでしっかりと持っていたはずなのに・・・。
おろおろしていると、おかしらの野太い声が降って来た。
「甲板上にねーんならよ、川ん中じゃねーのか?おめー、咄嗟に手放しちまったんでねーのか?」
まさか・・・そんな・・・
「ひ ひろいにいかなきゃ・・・あたしのせいなんだから・・・あたしが拾いにいかなくちゃ・・・」
ぶつぶつと呟きながらあたしは舷側の手摺りに手を掛けた。これは、あたしの責任だ・・・。
いざ飛び込もうとしたその瞬間、ふいに襟首を掴まれて体が空中に宙吊りになってしまった。まるで猫のようだった。
「お おかしら、何すんのよお、ちょっと離してっ!」
あたしは手足をぶんぶんと振って抵抗するが、岩の様なおかしらの腕からは逃れる事が出来なかった。わかっちゃいたけど。
「おめー、飛び込むのはいいがよ、泳げんのか?潜れんのか?」
う、確かにそう言われると、潜った事なんかなかったが、今はそんな事言っている場合じゃ無い。
「やってみなきゃわからないでしょ?とにかく探しに行かなきゃ」
「溺れたおめーを誰が救出するんだ?よけーな手間とらせんなよ。潜れる奴ぁ他にも居るだろうがよ」
そう言いながらおかしらが周囲に視線を飛ばすと、手が上がった。ジェームズさん達三兄弟だった。
「潜るんなら任せて下さい。俺ら訓練を積んで居ますんでね。直ぐに探してきますよ」
そう言うと、三人は舷側の手摺りを乗り越えて颯爽と飛び込んで行った。
あたしは、甲板上から無事に見つかる様にと祈る事しか出来なかった。
と、思っていたのだけど、不意におかしらから木の棒を渡された。
「ほれ」
え?なにこの棒?こんなの渡されたって・・・。
それは、一メートルばかりの本当にただの木の棒だった。
「これって・・・?」
「おめー今、武器ねーだろーがよ。そんなんでもねーよりはましだろうが」
「だからって・・・」
「剣が戻って来るまで待っちゃくれないみたいやから、ほんでなんとかしたってな」
ポーリン?いったいなにが?
「別の堕天使が三体、いらしてるみたいですよ。姐さんが脅かしちゃったから敵討ちにでも来たんですかねぇ?」
相変わらず他人事のようなアドなんだけど・・・。
「ど どういう事?」
「さぁ?こっちに飛んで来る気配は察知できても、何故かなんて理由迄はわかりまへんで」
そ そんなぁ、一体でも大変なのに、三体も?なんでぇ?
「お嬢の事が気に入ったのでは?ww」
「こんな時にそんな冗談はやめてちょうだい!」
そんなゆとりなんかないんだから・・・。
「アド、どうしたらいい?何が出来るの?ねえ、ねえ」
もう、困った時のアド頼みだった が、さしものアドも打つ手が無いようで、困った顔をしている。
あたりは真っ暗で、本来ならもう寝ている時間だ。
草原の方を見ると、真っ暗な中に、ぼんやりと光る物体が三つ、飛んで来ているのが見える。
「なんで、三体も・・・。大人しく食事したら帰ればいいのに・・・」
「姐さんが先の一体を脅かしたから、興味を持ったんじゃあないですかねぇ?」
アド、こんな時までなんで冷静なん?
「なんでぇ、結局おめーが不幸を呼び込んでるだけじゃあねーかよ。いい迷惑だぜ、ちゃんと呼び寄せた責任はとれよ」
責任とれっていったって、あいてはダーク・エンジェルなんだから、どうしようもないじゃないのよ。
川を見下ろしてみたが、こんな真っ暗な闇の中、潜ってたった一本の剣を探し出すなんて、ハッキリ言って不可能だ。
それでも、諦めずにジェームズさん達は探してくれている。あたしが弱気になっていちゃ駄目だ。何か、何か、考えるんだ、きっと出来る事があるはずだ。あたしに出来る事が。
そんなあたし程度がいくら考えたって、いい案がポンポン浮かぶはずも無く、堕天使の群れは着実にこちらに向かって来ていた。
かすかに光っていたその姿も、今ではくっきりはっきりと見えて来ている。間違いであってくれと願わないでもなかったが、間違いなくさっきのと同じ顔をした堕天使だった。
やがて彼らはあたし達の船を三方向から囲むように浮かぶと無表情に見下ろして来た。
だめだ、もうおしまいだ。激しいプレッシャーのせいで吐き気までもよおして来た。
頭がおかしくなりそうだ。なにもかも投げ出して逃げ出したい誘惑にかられたが、辛うじて耐えられている。
だけど、もう限界だ。叫びたい、叫んだからといって事態が好転するわけもないのだが、何でもいいから力の限り叫びたい衝動に駆られてしまった。
「それは、現実逃避ですね」アドに言われてしまった。
でも、現実逃避でもいい。今は力の限り叫びたい。もうどうなってもいい。叫びたい、叫ぶんだ、叫ぶんだ!あたしの頭の中はその事で一杯になっていたんだもの、しょうがないよ。
あたしは、その時右手に持っていた木の棒を両手で握りしめて、そして大きく息を吸い込んだ。
キッと目の前の堕天使を睨みつけ、奴に向かって木の棒を突き出し・・・叫んだ。
「ぅぅぅぅぅぅううううううわあああああああああっ!!!!」
全身の力を木の棒に込めて力の限り叫んだ。ありったけの力で叫んだ。
木の棒の先端からあたしの全身全霊の力を集約した気が放出・・・されなかった。
木の棒は、やはり只の木の棒だったのだ。どんなに叫ぼうが、木の棒以上でも以下でもなかった。当然だよね、そんなに世の中イージーモードじゃあない。
何の努力もしてこなかった者に、都合のいい現実は訪れる訳が無い。知っていたさ、それでもあたしは叫びたかったんだ。
あたしに出来る事は全てやった。うん、もう満足だよ。
あたしの旅はここまで。みんな、今まで付いて来てくれてありがとう。あたしの旅は、ここで最終回。思い返せば良くもまあ頑張ってきたものだよね。
「さあ、どうするんだい?頭から丸呑みにするのかな?どうせなら、一気に苦しまない様にしてくれるとありがたいわね。もう逃げも隠れもしないよ、ひと思いにやっちゃっておくれよ」
あたしは、もう覚悟を決めたんだけど、まだ覚悟を決められない者もいた。
「ふざけんじゃあないわよ。うちの人生はうちのもんや。おめーみたいなバケモンに好きにされてたまるかいっ!!」
それはポーリンだった。彼女の握りしめている剣の先端からは長い光の剣が上空に向かって伸びていた。
「ポーリン あんた・・・」
「とりゃあああああぁぁぁぁっ!!!」
掛け声と共に彼女は正面の堕天使に斬りかかって行った。
光の剣が堕天使に届いたと思ったその瞬間、堕天使はひらりと身体を翻して光の刃をかわしていた。
「やっぱりだめか・・・」あたしは落胆の声をあげたが、アドは違う見方をしていたみたいだった。
「ほう、かわした?受け止めなかったという事は、少なからず嫌だったのかな?ポーリン、もう一度やってみて」
「はいな」
再び気を溜めたポーリンは今度は剣を横に薙ぎ払った。
「きえええええええええぇぇぇぇいっ!!」
やはり今回も身を翻して直撃を避けていた。
嫌なの?この攻撃、もしかして有効なの?でも、当たらなければ何にもならないわよね。
「二方向から同時に攻める事ができれば少しは違いますかね」こんな時にも冷静に分析しているアドだった。
その言葉を聞いたみんなの視線が一斉にあたしに集中した。
でも、あたしには剣がないし・・・。そんな目で見ないでよお。不可抗力なんだもん、しょうがないじゃない。
その時だった。舷側の川が俄かに明るく光り出した。輝き出したといっても良かった。
いったいなにが・・・そこまで考えた時、いきなりジェームズさん達の事が頭に浮かび、あたしは舷側の手摺りに駆け寄って川を覗き込んだ。
だが、そこに、ジェームズさん達の姿は・・・なかった。
本来真っ暗なはずの水面が光り輝いていたのだ。
やがて、川の表面から音も無くまばゆいくらいに輝きを放ったたあたしの剣が、すーっと出て来たのだった。
そしてあたしの剣は徐々に上昇を始めたのだった。
いったい何が起こっているのだろう。あたし達はみんな声も無く事態の推移に注目するばかりだった。