173.
「にげるんやああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
突如甲板上に響き渡ったポーリンの叫び声は、もはや絶叫と言っても良かった。
あの小さな身体のどこにこんな力を秘めていたのかと言うくらいの叫び声だった。
甲板上にいた全員が、ギョッとして前方を指差したまま凝固しているポーリンに注目している。
「あ あれは まさに 人間やあああぁぁぁぁっ!!」
「ぽ ポーリン さん?」
「あかん あかん すぐに逃げなあかん あかんで・・・・」
するとマストの上に登って前方を監視していたボッシュさんの声が頭の上から聞こえて来た。
「本当だあぁっ!!本当に人族みたいなのが飛んで来るぞおぉぉっ!!」
この距離で見えるの?あたしはビックリしてマストを見上げた。
「あいつの視力は、俺達三兄弟の中でもずば抜けているんですよ。あいつなら、この距離でも見えているのかもしれませんねぇ」
長男のジェームズさんが、そう教えてくれた。
信じがたい事ではあるが、彼がそう言うのならそうなのだろう。
「おーい、本当に人族なのかあ?」
「おー、まだ遠いからはっきりは見えないが、明らかに人型をしているぞー。なにやらひらひらした服を着ている感じだなぁ」
「羽は?羽は生えているんかぁ?」
「そうだなぁ、羽ばたいて居るのかなぁ?透明なんだろう?ここからじゃあ羽はわからないよー」
「そうか・・・・」
さすがのボッシュさんでも、透明な羽までは見えないみたいだ。
「アンジェラさん、嫌な感じがします。もう少し高度を上げて下さい。それと、速度も落として万が一に備えて、いつでもダッシュできるように待機していてください」
アドはいつもにも増して冷静に指示をだしている。
「甲板上には最小限の人だけ残って、残りの人は声を出さず船内で静かにしていてください。私達の気を察知されるかもしれません」
みんなは、静かなアドの声に脅威をかんじたのだろう。そろそろと音をたてないように船内に戻って行った。
あたしは船首の所で前方を注視してみたが、あたしの平凡な目じゃ、まだなにも見えるはずもなかった。
本当に人型のものが飛んで来ているのだろうか、多少疑問に思っていると、アドがやってきてあたしの脇で腰を降ろした。
「あくまでも過去の記録から導き出した推測なので、確証はありません。ですが、不幸にも私の推測が万が一合っていた場合、とんでもない事になる可能性は大きいでしょう」
アドの言葉は、今までにない程に暗く沈んだ感じだった。そんなに恐ろしい相手なんだろうか?
「ねぇ、アド。いったい何が来るって思っているの?本当にあたし達じゃあ対応出来ない相手なの?」
あたしの質問がアドにはノー天気に聞こえたのだろうか、アドは大きくため息を吐いてから、ぼつりぼつりと話し始めた。
「んー、そうですねぇ、対応ですかぁ・・・・うん、不可能ですね。まぁ姐さんが百万人もいれば、いい勝負になる可能性が無い事もないでしょうが」
「うそ・・・・そんなにやばい相手だって事なの?」
「だから、さっきからそう言ってますよね?絶対に手を出したらいけない相手だって」
「じ じゃあさ、その恐ろしい相手って、いったい何なの?」
返事を聞くのは本当は怖かったのだが、聞かない訳にもいかなかった。
神妙な面持ちでアドが話し出すのを待ったのだったが・・・・聞かなければよかった。
「先程も言いましたが、過去の記録から推測するしかないのですが、記録内容に当該するのは一種しかありませんでした」
「一種?・・・・それは・・・?」
一瞬の間があって、アドは静かに話し出した。
「・・-ク ・ンジェ・・・・」
「え?聞こえない・・・」
「ダーク・エンジェル です」
「え・・・?だあく?」
「えんじぇるです」
あたしは、思わずアドの顔をまじまじと見つめてしまった。
だが、その名前が頭に入って来ない。無理も無いだろう。
ダークは、まだいい。問題は、その後だ。エンジェルだってえ?
「エンジェルって、天使?天使の事だよね?そんなモノが実在していたの?って言うか、何でそんなモノがこんな所に来るのよお~」
「ですから、あくまでも過去の記録から導き出した私の推測ですから・・・」
「そりゃあ 天使が相手だったら、あたしが何万人居たって勝てる訳ないじゃない!逃げるしかないじゃない!」
「だから、そう言ってるんですよ。手を出したらいけないと」
「うううう・・・・」
「それにですね。ダーク・エンジェルという呼び名は正しいものではないのですよ。名前がなかったので、後の世の学者が便宜上付けたらしいですよ。そもそも、過去に一度しか現れていなかったのですから、正確な種族名も生態もわかるはずもないんですよ」
「そうなのね」
「ええ、ですからエンジェルとは言っても、本当に天使であるのかは不明です。わかっているのは、前回現れた時は地上に天変地異を起こし、多くの人命を奪ったって事だけなんです」
「じゃあよ、そん時の奴らがどこかに潜んで居て、突然俺らの前に現れたって事なんか?」おかしらが話に割って入って来た。
「その可能性は十分にあるって事ですね。ですので、出来るならば関わり合いにはなりたくないんです。今直ぐに反転する事を進言します」
「で でも・・・要塞には多くの民が・・・」
「おめーよ、このまま向かって行ったって、ただの犬死にだってわかってるんか?あいつら怒らせたら、この大陸自体どうなるかわからねーんだぞ。王都の連中も、山ん中の聖女のねーちゃん達もみーんな全滅してもえーんか?」
「でもぉ、もしかしたら話し合いで帰ってくれるかも・・・」
「おめー、どこまで頭ん中お花畑なんだ?蛮族とだって意思の疎通ができねーのに、得体の知れねー天使なんかと会話が出来るって本当に思っているんか?そんなに話し合いがしたいんなら一人で行けや。俺はごめんだ!おいっ!運転手。反転して高度を下げてくんな。こいつを降ろしたら安全な所まで退避だ」
「姐さん。うちもおかしらの意見に賛成や。意味も無くみんなの命を危険にさらすんはちゃうんやないか?」
ポーリン・・・。
「すみません、私もお嬢の考えには同意しかねます。相手が何者かもわからないのに話し合いだなんて、無謀すぎます」
アウラまで・・・。
なにげにアンジェラさんを見上げたのだけど、目を逸らされてしまった。そして、決定的な一言を貰ってしまった。
「反転、高度を下げます」
誰もわかってはくれないようだ。本当はあたしも言ってはみたものの、対話なんて無理だと思い始めていた。でも、今更前言撤回だなんて・・・。
どうしようと頭をフル回転させたが、船の高度はどんどん下がっていき、地上までは後僅かだった。
その時突然船が左に傾いた。甲板上に居た者は皆揃ってずるずると甲板上を滑っていき、左舷の舷側の手摺りに叩きつけられ、そのまま手摺りにしがみ付く事で辛うじて船から落下せずにすんだのだった。
一体どうしたのかとアンジェラさんを見ると、舵輪を握ったままそのまま舵輪にうつ伏せになっていた。
声を掛けようと口を開けようとしたその瞬間、視界の端をお頭が疾風のように駆け抜けて行った。甲板は大きく左に傾いているのに意に介さないとばかりにだ。
操船台に到達するや、お頭はアンジェラさんの後ろから彼女を挟むようにして舵輪を掴み、船を水平に復元させようと必死に操船してくれたお陰で左に大きく傾いていた船体はゆっくりと水平に戻っていった。
だが、アンジェラさんが気を失っている為、船はどんどん降下を続けていた。
「だめだぁ~っ!降下が止まらんっ!何とかしてくれぇ~っ!」
舵輪を握りしめたままおかしらが叫んでいる。
細腕のアンジェラさんが軽々と操っていた舵輪なのに、大男のおかしらが大汗を流しながら舵輪にしがみ付いて悲鳴を上げている姿がどこか滑稽だった。
その後も船の高度はどんどんと下がっていき、おかしらの悪戦苦闘も虚しく、目の前には例の塩の川がどんどん迫ってきていた。
「おかしらぁ~、はやくっ、はやくっ、はやく引き上げてえぇぇぇぇ」
「あかぁ~ん、あかんでぇぇっっ!!」
「んー、激突の衝撃に船体が耐えられますかねぇ」こんな時にでもアドはマイペースだ。
「お腹、すいた・・・」ん? こいつは・・・。
ここで、歩く不幸と言われているあたしではあったが、なんと天使が微笑んでくれた。
その時一瞬、アンジェラさんが意識を取り戻したのだろうか、船首がぐぐっと持ち上がっていった。
このまま上昇するのかと思ったのだったが、船首が持ち上がったのは一瞬で、船は再び降下していった。
幸運だったのは、一瞬船首が持ち上がったおかげで僅かではあったが飛行距離を稼げた事だった。
そのおかげで、川手前の草原に墜落せずにギリギリ川に着水する事が出来て船体の破壊は免れたのだった。
しかし、降下角度がありすぎた為、水面に激しく突入してしまい、何回もバウンドしながら対岸の岸に突っ込んで停止することになった。
甲板上に居たあたし達は何度もバウンドしては甲板に叩きつけられた末に、ボロボロになって投げ出されていた。
しばらく動く事ができず転がったままだったが、まずおかしらが起き上がって船首の方によろよろと歩いて行くのが見えた。
「おーい、これで大丈夫なんか?船首が岸にずぶずぶめり込んでるぞー」
おかしらの不安げな声が甲板上に響き渡った。
あたしもよろよろと立ち上がって舳先の方に歩いて行って下を見ると、なるほど、確かに舳先がめり込んでるわ。
でも、驚くと同時にこんなに激しくめり込むほど激突したのに、よくもまあ壊れなかったもんだと感心してしまった。
ハッ、そうだ。アンジェラさんは?
ハッとして操船台の方を見ると、アンジェラさんの横にはアウラとメイがついてくれている。
アンジェラさんの方は任せても大丈夫ね。後は・・・。
そっとアンジェラさんの後方を見た。川を挟んだ向こう岸にはまだ至る所から煙が立ち昇る広い草原が広がっていた。先程迄蛮族を大量虐殺していた現場だ。
煙が広がる草原の遥か遠方には、謎の飛行体が飛んで来るであろう山々がそびえ立っている。
まだ距離があって肉眼では見る事は出来ないが・・・。
「姐さーん、見えたでぇ。あいつら、真っ直ぐこちらに向こぉて飛んで来よるでぇ」
ポーリン?あなた、あんな遠距離で見えるの?一体どんな目をしているのよお。
どんなに目を凝らしても、あたしには何にも見えなかった。
「えーとねぇ、遠いんでまだ細かくは見えへんけど、いち、に、さん・・・ご、ろく・・・じゅう、じゅういち・・・全部で十二体おるでぇ」
「十二体?そんなにいるの? あ アドぉ、どうしよう」
あたしはさっきまで対話するつもりでいたのだったが、十二体と聞いてすっかり尻込みしてしまっていた。
「そうですね。私達に出来る事は、静かに時が過ぎるのを待つ。それしかないですね。願わくは、その間こちらに来ないでくれる事を祈るだけでしょうか」
「ず 随分と消極的なのね・・・」
「相手が相手ですから、しょうがないですね。いくら何でも天変地異を起こす相手とは戦えませんよ」
事ここに至ってもアドの態度は冷静・・・いや、まるで他人事のように落ち着いていた。
困ったわ、アンジェラさんはまだ動けないから、船で逃げるわけにもいかないし、歩いて逃げるのもなぁ。
黙って見てなきゃならないなんて、苦痛以外の何ものでもないわ。
かといって、戦って追い返す訳にもいかないし・・・。
そんな事をいろいろ考えていると、食いしん坊ミリーが突然へんな事を言い出した。
「ねえねえアドちゃん。あの天使さんて、本当にご飯たべにここに来るのかなぁ?」
「へっ?」
いついかなる時も、常に冷静なあの鉄仮面アドが、思わず変な声をあげた。
それだけ意表を突いた質問だったのだろう。
「それはわからないわね。なにしろ人界に現れたのは今回で二回目なので、彼らに対する情報は皆無なのだから」
「そうなんだ・・・」
「そもそも、彼らが肉食なのか、草食なのか、はたまた雑食なのかもわからないんですからね。もっとも、食事をするものなのかもわからないんですよ」
「ふ~ん」
ミリーは自分から聞いておきながら、もう興味なさげだった。
「あっ、来たでぇ~!まだ豆粒みたいだけど、来たでぇ~」
ポーリンの声に、みんなの視線が一斉に川の向こうでまだくすぶっている大量殺戮のあった草原に集中した。
もちろん、あたしの目には全く見えないのだが・・・。
「連中、高度を下げつつ真っ直ぐ草原にむかっとるでぇ」
「予想通り、蛮族の亡骸がお目当てね。さて、食べたら大人しく帰ってくれるといいのだけど」
やはり、アドはこんな時も無感動なんだねぇ。
「おおっ、見えたぞ!兄者っ、見えるぞっ、女だ、髪の長い女だあっ!」
ほう、ボッシュさんにもみえたんだね。
「おうっ、俺も見えたぞおっ!すげえ美人じゃあねーかっ!!ありゃあ間違いなく女神様だぁ~っ」
ボッシュさんに続いて、ウエイドさんにも見えたらしい。美人なんだぁ、三人共鼻の下が伸びてるぞおおぉ。
三兄弟は、女神だ、天使だとそれぞれに盛り上がっていた。
だが、ある一瞬を境に突然空気が変わってしまい、甲板上に暫し沈黙が訪れた。
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・」
あんなに盛り上がっていたのに、目を見開いたまま三人共固まってしまっている。
「目 目が真っ赤に なった・・・?」
「口が 耳まで裂けてきた・・・?」
「蛮族の遺体に・・・・頭を・・・突っ込んだ・・・?もしかして、むさぼっているのか?」
えっ!?どういう事?何が起こっているの?
見上げると、おかしらまでもが、目を剝いたような驚愕の顔のまま・・・固まっている。その顔、普通に怖いって・・・。
驚愕に固まった仲間を、ただ茫然と見ているしかできない今のこの状況、いったいなんなんだろう、この時間。
そんな状況になって、やっとあたしにも状況が理解出来て来た。やっと、あたしの目にも現場の状況が見えてきたからだ。
「これって・・・アドの推測が合って居たって・・・事? そんな事って・・・」