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弥勒の拳エピソード0  作者: 真桑瓜
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                    1



昨夜から降り続いた激しい雨はおおむね収束し、今は霧の様な小雨が降っているだけだ。

戦闘三日目、三月四日から続いた激戦も、小康状態を保っている。

「伊藤、報告せい!」抜刀隊の隊長無門弁千代むもんべんちよは、最年少の隊員伊藤舞介いとうまいすけに命じた。

「はっ!報告します。生存十名、負傷十五名、死亡・・・二十三名、不明二名であります」

「よし!戦える者を前面に出せ。弾は互いに撃ち尽くした、あとは白兵戦しか無い。これで最後と思え!」

隊員の制服は見る影もなく泥にまみれ、すでに血か泥かの区別もできなくなっている。

負傷者を後方に移し、十名の隊員は三の坂の中腹に集結した。



                     2



明治十年二月、警視庁抜刀隊伊藤舞介は薩南遠征に向かう為の準備に追われていた。

彼は直参三百石取りの旧幕臣であったが、維新後は日々の暮らしにも事欠く有様であった。

抜刀隊に志願すればまとまった支度金が貰える、腕に覚えの居合の技が役に立つかも知れない。

何よりも、母に楽がさせられる。

彼は多摩の田舎に百姓家を借り、母と二人で暮らしていた。

母は、気丈な武士の妻である。夫の死後どんなに貧乏をしても泣き言ひとつ言わないで舞介を育て上げた。

舞介が抜刀隊に志願したと聞いた時も「恥ずかしい死に方だけはするな」と言ったのみだ。


明後日は出発だという日、粗末な藁葺わらぶき家の戸を、ほとほとと叩く者があった。

「伊藤舞介様の御宅はこちらでありましょうや?」外からおとなう声がする。

「こんな夜更けに誰でありましょう、母上?」舞介は針仕事の手を止めた母に尋ねた。

「うむ、声の感じでは怪しい客ではなさそうじゃが・・・舞介出て見なされ、されど油断をするでないぞ」

「はい」舞介は上がりかまちから藁草履を履いて土間に降り、戸から一間の距離を置いて立った。

「どなたですか?今日はもう遅うござる、急ぎの用事で無ければ、明日出直して頂きたい」舞介は戸板越しに外に向かって声を掛けた。

「決して怪しい者ではございません、四谷に住む刀鍛冶でございます。本日はご注文の刀をお届けに参りました」客は舞介にそう告げた。

「それはおかしい。うちはご覧の通りの貧乏暮らし、とても刀匠殿の来訪を受けるいわれはございません」

「いえ、方々探し回ってやっと伊藤様のお宅を見つけたので御座います。どうあっても持参の一振りを見ていただかなくてはなりません。どうぞこの戸をお開け下さい」

刀と聞いて舞介は、武士らしい興味を覚えた。母に目配せして戸にかけていた心張り棒を外す。風で行灯の灯が揺れた。

表に立っていたのは老人であった。或いは顔に刻まれた深い皺が男を老人に見せたのかも知れない。

舞介は警戒をしながらも男を家内に招じ入れた。

男は中に入ると土間にひざまずき、舞介と母に向かって深々と頭を下げた。胸に一振りの刀を大事そうに抱えている。

「やっとお会いできました」その口振りが男の誠実さを物語っていた。

母は疑いを解いた。「そんなところで膝など着くものではありません。貧乏暮らし故、なんのお持て成しも出来ませぬが、熱い白湯なと献じましょうほどに、ささ、どうぞお上りなさいませ」囲炉裏いろりのそばに藁で編んだ円座を置いて男に勧めた。

「では、お言葉に甘えます」男は円座を避け、刀を下ろし床に手をついた。「突然のお尋ね、お許しください。源清人と申す刀鍛冶でございます」

「源・・・あの江戸の名工?」舞介は天才と謳われた刀匠の名を思い出した。

「はい、清麿は私の師で御座います」清人はまるで我が身を恥じるかのように言った。

舞介は目を丸くして驚いた。「その、清麿殿の弟子である貴方がなぜこのような所に?」

「はい、まずはこれをご覧くだされ」そう言って清人は懐から一通の証文を取り出して舞介に渡した。「それは嘉永六年に書かれた借用書の控えで御座います」

「嘉永六年といえば、四十年前・・・」舞介は頭の中で素早く数えた。

「お読みくだされ」清人は舞介を促す。

舞介は色褪せて黄色くなった証文を開き、母に聞かせるため声に出して読んだ。

「金三両、鍛刀前置き金として確かに受領仕り候、源清麿、同心組組頭伊藤仙右衛門殿」

「確かに、仙右衛門は私の父ですが・・・」

黙って聞いていた母が、はたと膝を打った。「思い出しましたぞ!」

「どうしました、母上?」舞介は驚いて母の顔を見た。

「あれは確かに四十年前、旗本の窪田清音くぼたすがね様が屋敷にいらしての、『清麿支援の武器構を作るから三両出さぬか』と仰せられた」

窪田清音は講武所の頭取、田宮流居合の達人である。

「其方の父上は、窪田様から目を掛けられ居合術の免許を許された。そのご縁で喜んで三両を出させて頂いたのじゃ」

舞介はその父親から居合の手解きを受けた。

「そのようなことが・・・」舞介が唸った。

「しかし師は、作刀に悩み酒に溺れ、ついに注文の刀の一振りも打たぬまま世を去りましたので御座います」清人は母の話を引き取った。面には、苦悶の色が滲み出していた。

「私は、前置き金控帳を頼りに、その返済のため鍛刀を続けて参りました。しかしながら私の刀などは師の足元にも及びません。そこで失礼ながら生活道具のなたや包丁なども作って、なんとか三両の価値に見合うようにしてお渡しして来たので御座います」旧幕臣の暮らしは、決して楽では無い、どの家も舞介の家と五十歩百歩だ。鉈や包丁なら有難い。

「ですが今宵は、鉈や包丁の代わりに刀に拵えを施して参りました。こちらの舞介様が抜刀隊に志願なされたというお噂を、耳にしたからで御座います」やっとここまで言い終えてから、清人は徐に刀を風呂敷包みから取り出した。

その拵えは、無骨でなんの飾り気も無い、まるで清人本人の様だった。

「これを、お受け取り下さい。きっとあなた様のお命をお守りするでありましょう」





                    3



舞介は、腰の刀に手をやった。ついこの間持ったばかりなのに、長年使い慣れたもののように手に馴染む。

十人の男たちは、今にも坂の上に姿を現わすであろう敵を待った。皆、ここが死に場所だと決めている。

風向きが変わった。今まで坂ノ下から吹いていた風が、上から吹き下ろしてくる。

僅かに火縄の匂いがした。薩摩軍は旧式の銃しか持っていないはずだ。

舞介は思わず一歩前に出た。

「伊藤!戻れ!」隊長が叫ぶ。

その瞬間舞介は、一直線に自分に向かって来る光を見た。

舞介は弾かれたように刀を抜いた、否、刀が勝手に鞘走った。

「パン!」遅れて銃の音がした。

刀身に衝撃が走り、両の頬が焼けるように熱い。


「なんと!鉄砲の弾を斬りよった」坂の上から訛りのある声がした。見ると男が一人立っている。「お主、名は?」その男が訊いた。

舞介は答えない、自分でもあまりの事に声が出なかった。二つに割れた弾が頬を掠めていったのだ。

「中村っ!中村半次郎ではないかっ!」舞介の背後から声がした。隊長の声だ。

坂の上の男は、暫く霧雨を透かすようにこちらを見下ろしていたが、突然大声で叫んだ。「おお!無門弁千代かっ!」

男の後方に、三十名ほどの薩摩兵が現れた。

「無門、久しぶりの再会じゃが、旧交を温めちょる暇は無か!」半次郎は兵達を返り見た。「位置も人数もこちらが有利、降伏ばせんか?」

「断る!我々は既にここを死に場所と決めた!」弁千代は半次郎を睨んで言った。

「おいは、おまんと指しで勝負のしたかとじゃ。じゃっどん、ここじゃそいはでけもはん」

「構わぬ、情けは無用だ!」

「チッ、頑固な奴じゃ」半次郎は弁千代を見据えて舌打ちをした。「そん男の居合が惜しか、これからの世に残して行かねば後生が悪い!」

弁千代は黙った。それは弁千代も同じ思いだったからだ。

「引き揚げじゃ!」半次郎は振り向いて兵達に言った。「今、ここで見たこつは全て幻じゃっで、他言は無用ぞ!」

「また会おう!」半次郎は、そう言い残して坂の向こう側に姿を消した。



                    4




その後、舞介は転戦を重ねたが、九月二十四日、西郷が自刃して漸く西南戦争が終結した。

九死に一生を得て舞介が家に戻ってみると、母が薄い布団で臥せっていた。

医者の話では、風邪を拗らせたのが原因だが、長年の貧乏暮らしで栄養が不足していた事も容体の悪化に拍車をかけた。

「舞介、よう生きて戻ったな」母は、目に涙を浮かべた。「じゃが、この身はもう長くはない。苦労をかけました。母が死んだら、どこへなりと行くが良い。もうお前は自由の身ぞ」

舞介は、声を殺して泣いた。


その年の暮れ、母が逝った。

舞介は手厚く母を葬った後、忽然と姿を消した。その後舞介の消息を知る者は無い。







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