第7話 Nightmare 5
昼食を終えた後、ぼくは病院の中庭でベンチに座っていた。膝の上に置いたベゴベゴになった文庫本の表紙を軽くなでた。
刑事さんが帰ったあと、結局ぼくはその文庫本を読んでみることにした。しおりが挟んであった場所までをざっと目を通す形で。
そしたら、ほんとに怖い刑事さんの言ったとおりだった。その内容は、多少の脚色はあるもののぼくの体験したことと似ていた……似すぎていた。
この本はぼくが書きましたってウソをついてもいいくらいだ。
こんなのを見てしまったら、警察がぼくをウソつき呼ばわりするのも理解できてしまう。
「はぁ……」
ため息を付いた。
ぼくはこれからどうなってしまうのか、不安でしょうがなかった。
体の方は問題なく、お医者さんの話ではすぐにでも退院できるということだけど、問題は警察の方だ。
「逮捕は嫌だな……」
自然とつぶやいていた。
「逮捕? 何かあったのかい?」
顔を上げると、偶然目の前を通りかかったおじさんと目が合った。
「あぁ、いや。話したくないならいいんだ。――だけど、悩みってのは人に話して楽になることもあるよ」
そう言って、おじさんはぼくの隣りに座った。完全に話を聞く体勢だ。
「悩み。――別に悩みってわけじゃないんですけど……」
見ず知らずの人に話していいことなのかどうか迷った。だけど誰かに助けを求めたいと思う自分がいるのも確かだった。物は試しと思って話してみることにした。
「じつは――……」
スーツのおじさんは親身になってぼくの話に耳を傾けてくれた。
「なるほど。本来正義の味方であるはずの警察が敵に回ったわけか……君の気持ちは理解できるよ」
「それで……ぼくは、どうしたらいいかわからなくて……このまま退院してもずっと警察に追い回されるのかなって、そしたらお母さんに迷惑になっちゃうし」
「君はお母さんが好きなんだね」
「は、はい」
思わず正直に応えてしまった。ちょっと恥ずかしくなって、慌てて顔をそらした。
「恥ずかしがることはない。君くらいの年齢の子はみんなお母さんが好きになるものさ。まあ、それはそれとして、気休めを言っても仕方ないからはっきりと言うよ。おそらく君は警察に逮捕される」
「え!?」
顔を上げておじさんを見る。その表情はとても真剣だった。
「なぜですか? ぼくは誰も殺してないんですよ?」
「私は君の言葉を信じるよ。だけど警察にはメンツというものがありプライドも無駄に高いときてる。彼らは自分たちが間違っていたことを認めるのがとても苦手なんだ。だから一度疑った人に『実はほかに犯人がいました。疑ってごめんなさい』というのができないんだよ、彼らは……。しかも、ことが公になっていれば謝罪する姿が世間にも及ぶ。それはつまり警察の失態が露呈することを意味し、信頼を損なうことになるからね」
「そんな理由でなんて! ――あ、すいません」
この人は警察じゃない。こに人に怒るのは間違いだ。
「君の怒りは最もだ――」おじさんが真面目なトーンで話しを続ける。「だが覚えておくといい、警察の仕事というのは真犯人をあげることではない。事件を解決することだ。君は間違いなく犯人にされる」
言い終わると、じっとぼくのことを見つめてくる。
おじさんの真面目な雰囲気に飲まれ、「ぼくは……どうすれば……」そう絞り出すように言うのが精一杯だった。
「方法がないこともない。聞きたいかい?」
「は、はい!」
ぼくが返事をすると「逃げることだ」とおじさんはきっぱりと言ってみせた。
「逃げる? ってそんな事したら余計に疑われるんじゃ――」
「逃げたあとで捕まればそうなるだろう。だが逃げ続けることができれば別だ」
逃げ……続ける……
「私は今“リドル”という組織にいてね。もし私と一緒に来れば君を匿ってあげることができる」
かくまうってことはつまり人目につかないようにするってことだ。当然、お母さんや友だちとも会えなくなる。でも何もしなかったらぼくは警察に捕まって、お母さんは犯罪者の親になってしまって、そしたらいっぱい迷惑がかかってしまう。
――それだけは絶対に嫌だ!
ぼくは覚悟を決めた。
「ほんとに守ってもらえるんですか?」
「も、もちろんだ。嘘はつかない」
「だったら、ぼくは行きます! 連れて行ってください!!」
「ほ、本気かい?」
おじさんはなぜか驚いた表情でぼくを見ていた。もしかしておじさんは、ぼくが本気でついて行くと言うとは思ってなかったのかもしれない。
「おじさんが助けてくれるって言ったんですよ?」
「そうか……確かにそうだったね。わかった。君を守ると約束しよう」
おじさんがベンチから立ち上がるのを見てぼくも立ち上がる。向かい合っておじさんの顔を見上げる。
「ところで君は何という名前なのかな?」
そう言えば自己紹介がまだだった。
「ぼくは翔って言います。――古井翔です」
ぼくの名を告げた瞬間、おじさんは目を大きく見開いて、「そうか、古井翔君か。――ハッハッハ」と、なぜか笑いだした。
「いや失礼。決して君の名前を笑ったわけじゃないんだ。先程、私のいる組織の名前はリドルだと言ったね。この『リドル』という言葉は『ふるいにかける』という意味の言葉なんだよ」
「ふるいにかける?」
ぼくは首を傾げた。
「そうだ。選ばれた人間とそうでないものを振るいに掛けるという意味を込めて付けた名だ。――どうだい? 『振るいに掛ける』と『古井翔』。とてもよく似ていると思わないかい?」
――ふるいにかける。ふるいかける。
たしかに似ている。
「君はまさにリドルの申し子だ。――今日、私と君がここで出会うことは運命付けられていたのかもしれない」
おじさんは膝を曲げてぼくと視線を合わせてくれる。
「約束しよう。君は私が守る。――必ずね」
小指を立てて差し出してくる。
指切りの合図だ。
ぼくは自分の小指をおじさんの小指に絡め誓いを交わした……
――――
その日からぼくはリドルの一員となった。
リドルに入った人は名前を変えなくちゃいけないというルールがあったけど、おじさんは、ぼくは特別にそのままの名前でいいと言った。その理由は、ぼくの名がリドルを冠する名前だかららしい……
それから、サイン会が行われていた百貨店で聞いた『未来と神化』の話。あれがリドルによる講演だと知ったのはそれからしばらくしてのことだった。
これもある種の運命というやつなのだろうか……
…………
リドルが本拠地とするビルの13階。
僕はイスに座り、窓の外に広がる景色を見ながら人を待っていた。膝の上に置いた文庫本の表紙をひと撫でする。湿気を吸って乾いた紙の感触を感じる。
大人になった今なら、あのときの警察の対応が決して間違いではなかったことは理解できる。
僕は子どもだったのだ――
それ以上でも、それ以下でもない。
リドルに入ったばかりの頃は、当時のことを思い出して、警察に対する怒りが再燃することもあった。だが今ではその警察に感謝している。今の自分があるのは間違いなくあの事件があったからだ。
――僕は必ず理想の世界を実現してみせるさ。
目を閉じ自分に言い聞かせるように胸の内であらためて志を確認する。
すると、扉を叩く音が聞こえてくる。
どうぞと声をかけながらイスを扉の方に向かって回転させる。
部屋の中にひとりの女性が入って来た。
生野君だ。眼鏡の似合う端正な顔立ちの女性。美人だ。
文庫本を机の引き出しにしまいながら「で、話というのは?」と尋ねる。
「実は相談したいことがあって――」
相談したいことと言う彼女は別段悩んでいると言ったふうではない。彼女はあまり感情を表に出す性格ではないので、実際には相当な悩みを抱えている可能性もあるが。
「これを見てほしいんだけど」
そう言って僕に差し出してきたのは一枚の写真。
写っているのは日に焼けた肌が特徴的な女の子で、こちらに向かって笑顔でピースサインをしている。
「彼女がなにか?」
生野君を見上げる。
「彼女は先日のゲームで生き残ったプレイヤーの1人なの。――それで、願いを訊いたら『お金持ちの人と結婚したい』と言われたわ。でも、私の知り合いで未婚のお金持ちってあなたしか思い当たらなくて」
「なるほど……」
僕に彼女と結婚しろと言いたいわけだ。
「どうかしら? ――なにか運命的なものを感じたりしないかしら?」
「運命……? 特には感じないが……」
生野君の口から運命などという不確かな表現が出てきたことに驚く。僕も彼女のすべてを知っているわけではないが、ともに仕事をしてきた感覚では彼女はどちらかと言うとリアリストだ
「そう……。まあ取り敢えず、結婚するしないに関わらずなるべく早く結論を出してほしいのよね」
「なぜ?」
「彼女、ゲームに参加する前、ネットで何かのデモに参加するメンバーを募るバイトをしていたみたいなのよ。それで、そのデモ会場で爆破事件が起こったらしくて、彼女がその犯人に仕立て上げられていて――」
「反対勢力に命を狙われてるってことかい?」
彼女が言い終わる前に結論に思い当たった僕が言うと、彼女は「ええ」うなずいた。
「わかった。今日中に結論を出すよ」
「そう。それを聞いて安心したわ」
そう言って、それじゃあ次の仕事があるからと彼女は部屋を出ていった。
机の上に置かれた写真に視線を落とす。
そこには誰もが想像する“ギャル”を体現したような女の子が写っている。おおよそ僕の人生と交わることのない世界にいる存在だ。
写真を手にし角度を変えながら写真を眺めてみても別段運命的なものを感じることはない。
だけど――
「結婚、か……」
それもいいかもしれないな――そう思っていた。
「……そう言えば」
よくよく考えてみると僕はこの女の子の名前を知らないことに気づいた。
それでも結婚してもいいかもと思えたのは……
「もしかしてこれが“運命”というやつですかね」
なんとなく心が暖かくなったような気がした。




