これから始める異世界転生
「なあ、異世界に行きたいんだけど、タスケなら行き方知ってるよな?」
カナトは突然おれの部屋に入って来るなり、わけのわからないことを言い出した。
「何言ってんだよ?」
「だから、異世界に行きたいんだよ」
そこまでいって、おれが異世界という単語をわかっていないと思ったのだろう、カナトは説明口調で話を続ける。
「異世界っていうのはな、この世界じゃないどこか別の世界のことを言うんだ。ドラゴンとか、ウイザードとか、獣人とか、勇者とか、魔王がうろうろしている世界のことをいうんだよ」
「魔王がうろうろしてんのかよッ。それに説明口調で言われなくったって、それくらい知ってるよ」
おれは痛い人でも見るような目を兄に向ける。
「なんだよ。そんな目でお兄ちゃんをみるなよ。お兄ちゃん泣いちゃうぞ……」
「泣けば」
「本当に泣いちゃうからなッ! お兄ちゃんが泣くとどうなるか、知ってるよな!」
カナトは少女のように目を潤ませて、おれに訴えてくる。
十七歳の男子高校生にそんな顔されても、なんとも思わない、てか気持ち悪い。
「泣いたら、ご近所中を走り回って弟にいじめられたって言いふらしてやるからな!」
「何歳だよ……」
こんな奴がどうしておれの兄なんだ……。おれは鼻の奥がツンとするのを感じ、目頭を押さえた。
「わかったよ……話だけでも聞いてやるよ」
「そう来なくっちゃなッ!」
兄の眼は純真無垢な少年のものだった。
「で、なんで異世界に行きたいの? ハーレムしたいのか? だけど、諦めろ兄貴がハーレムできるわけないから」
兄はチチチチ言い指をふりながら、いう。
「わかってないな。僕のことをおまえは何もわかってない」
「わかりたくねえよ」
「僕はね」
「話聞けよ……」
「ハーレムものよりどちらかと言うと一途で、惚れた女のためなら世界をも敵に回すくらいのボーイミーツガールものの方が好きなんだよ」
「はあ、さようで。――ボーイミーツガールなんて、フィクションだけの話しだつぅ~の。じゃあ、チート使って異世界無双でもしたいのか?」
兄はチチチチと言いながら、顔の前で指をふった。
「わかってない。弟のくせに僕のことをおまえは何もわかっていない」
「わかりたくねえよ」
「僕はね」
「だから、話聞けってッ!」
「チートを使ってはじめから無双なんてするよりも、ジャンクの少年漫画見たいに、“友情„“努力„“勝利„“お色気„ ものの方が好きなんだよ。はじめから無敵なんて邪道だね。
ドラゴンキューブのゴチーしかり、カーディーガンのルピィーしかり、ブローチの白鷺リンゴしかり、モヤシのモヤシしかり、強敵と戦っていく中で、強くなって行くのがいいんじゃないか。
あ、でもツゥーパンマンは好きだよ」
「最後のお色気はジャンクの三原則に入ってないぞ」
とそこまでいってから、(いや、お色気ってジャンクの原則に入っているのか?)と思いもした。男受けを狙った雑誌だから、お色気要素もそれなりにあるし……?
「じゃあ、なんなんだよ?」
「僕は黒魔術師になって魔法を使ってみたいんだよッ!」
「はあ、さようで。じゃあ、とっとと異世界に言って二度と帰ってくんな」
「ああ、だから、どうやったら異世界に行けるのかタスケにアドバイスして欲しくてやってきたんじゃないか」
このクソ兄は本気なのか……?
「兄貴の頭はすでにファンタジーだな……ハハ」
「そうさ、僕はいつまでも少年の心を忘れない、穢れなき子供なのさ」
「はあ、さようで……。じゃあ、絶対に異世界に行ける方法を教えてやるよ」
「本当かッ! 持つべきものは弟だなぁ~。小さいころは妹じゃないのか、って嘆いたもんだけど、今となっては弟で良かったと思うよ」
「兄貴はそんなこと思ってたのかよ」
怒るのも馬鹿らしく思え、おれはさっさと異世界へ行く方法を教えてやることにした。
「異世界に行く方法は――」
「異世界に行く方法は?」
「異世界に行く方法は――」
おれは腹いせに、間をとる。
「では、CMのあとっで、ってノリか?」
「ちげーよッ!」
たく……ペースが狂うな……。
「――異世界に行く方法はトラックに轢かれることだ」
おれは冗談のつもりで言ったのだが、兄貴の眼は穢れを知らない少年のような満天の星をたたえて輝いた。
「トラックに轢かれるんだなッ! ありがとう。やっぱり持つべきものは妹じゃなくて、弟だよ。ちょっと、トラックに轢かれに行ってくる――」
そう言い残して、兄貴はおれの部屋から飛び出していった。
ふう~、やっと出ていったか。これで、ゆっくり小説が読める。
けれど、文字を追っても内容が頭に入って来ない……。
「まさか……だよな……。いくら、あの兄貴でもそこまで馬鹿じゃないよな……」
そうは思っていても、悪い想像ばかりが頭に浮かびじっとしていられなかった。
「ないないないない……あの兄貴でも異世界に行くためにトラックに轢かれようとは思わないって……」
そう考えるが(あの兄貴ならやりかねない……)のを、おれは嫌というほど知っている……。
「まあ……様子を見に行くだけだしぃ~……。それに兄貴は別に轢かれても良いけど、轢いたトラックの運転手が可哀想だしぃ~」
おれは慌てて、身支度を整え家を飛び出した。
いったい、どこに行ったんだよ……。なんでおれがこんな馬鹿みたいなことに付き合わされているんだよ……。そんなことを考えながら道を小走りで走っていると、目の前にとなりのおばさんがあらわれた。
「おばさん……」
「あんらまぁ~、タスケくんじゃない。久しぶりね。ちょっと見ない間に一段と男前になったわねぇ~」
となりのおばさんは買い物帰りだったようで、右肩にはエコバッグをかけていた。
「ちょっと待ってね。アメちゃんあげるから」
「あ、ありがとう。でもちょっとおれ急いでるんだ……兄貴見なかった……?」
「カナトくん? カナトくんなら、今さっきすれ違ったわよ。すごく楽しそうに走って行ったわ」
「どっちッ?」
「え、スーパーの近くだけど……いったい、どうしたの?」
となりのおばさんは興味津々に訊く。
となりのおばさんに知られたら、噂は地球の裏まで知れ渡るというのが、漫画でもアニメでもお約束の展開なのだ。
もし、異世界に行くためにトラックに轢かれに行ったなんて知られたら、どうなることやら……。だから、話をはぐらかす。
「え……ああ、ちょっとね。兄貴、買い物に行ったのはいいんだけど、財布を忘れちゃってね……」
「あら、そうだったの。男の子なのにおてんばね」
「ああ、そうなんだよ。お魚加えたドラ猫追いかけて、裸足で出かけていくぐらいおてんばで困ってるんだよ……ははは。それじゃあ、おれは財布を届けなきゃならないから、行くね」
「ええ、元気でね」
「ありがと」
手を振り返しながら、おれは先を急ぐ。
スーパーまでの一本道を全力で走り抜けて、おれは目的地に到着した。
「いた!」
兄貴はガードレールの裂け目の間に突っ立って、道行く車を目で追っていた。おれが兄を発見したのと、奥の方からトラックが走ってくるのがほぼ同時だった。
兄貴の顔が輝くのもスローモーションで見えた。
そして兄貴は足を踏み出したのだッ!
「おまえはそこまでのバカだったのかッ!」
おれは無意識に体が動いていた。
(あれ……おれ何やってんだよ……)
兄貴を歩道の方に突き飛ばし、その反動でおれはトラックの前に飛び出してしまった。世界がスローモーションに流れて行く。
鳥が群れをなして自由に空を飛んで行く。
歩道を歩く人々は不思議そうにおれを見ている。
兄貴は驚きに口を開けて、トラックの運転手は驚きの余り目玉が飛び出した。
(ああ、目の前に川を挟んでお花畑が見えるよ……。向こうの岸で白い衣をまとったおばあさんが手招きしてる……。ドラゴンが花畑で蜷局を巻き、魔王感を全身から醸し出している人が花畑を歩いている。
何か黒魔術師っぽい人が黒いローブをまとって、呪文らしき言葉を詠唱している。
綺麗な女の人たちがハーレムを作って、獣耳の少女たちが手招きしているよ……。トラックに轢かれたら異世界に行けるって本当だったんだ……。どうせなら、おれはチート持ちがいいな……)
その日、甲高いブレーキ音が町中に響き渡った。
(目を開けたら、異世界にいるんだ)
おれは本気でそう思った。
固くつぶっていたまぶたをゆっくり開けると、目と鼻の先でトラックが止まっていた。どっと全身から力が抜け、膝がブルブル震え、膝カックンをされたように、おれは崩れ落ちた。
「気を付けろッ! 死にてぇーのかッ!」
窓から身を乗り出し、トラックの運転手が大声でおれを怒鳴る声が聞こえる。しばらく、放心状態が続いたが、やっとおれは実感した。
(生きてる……おれは生きてるよッ! 異世界に行かなくて済んだよ……)
涙で顔をぐちゃぐちゃに汚しながら、おれはトラックの運転手に謝った。
「ごめんなさい……ごめんなさい。そして、ありがとうございました」
トラックの運転手は気味悪そうに、顔を歪めた。
「たく、近頃の若い奴らは。おまえも異世界だか? に行きたくてトラックの前に飛び出したんじゃないだろうな。
最近困ってんだよ、異世界に行くだぁ、なんて訳のわかんねえこと言って、トラックの前に飛び出す、馬鹿野郎が多くて。
俺の仲間が運転するトラックの前に、一日に一回はそんな訳のわからんことを叫びながら飛び出してくる奴らがいるっていうからよ……用心してて良かったぜ」
おれは目が点になった。
兄貴以外にも、そんな馬鹿がこの世にいるのか……それも一日に一回は現れるのか。この世の終わりだ……。
そういうことで、なんとかおれは兄貴を家に連れ帰ることができた。
「このクソ兄貴ッ! 何考えてるんだよッ!」
兄は正座をして、体を固くした。
お母さんの雷が落ちるのを待つ子供のように、しょんぼりと兄は首を垂れた。
「で、どうだった。異世界には行けそうだったか?」
一通り説教を終えてから、兄は真っ先にそのようなことを聞いた。こりゃダメだ、懲りてねえや……。おれは泣きながら、ご近所を走り回りたい気持ちにかられた。
「ああ、綺麗な川が流れている花畑みたいなところが見えて、その川の向こう側には、白い衣をまとったおばあさんがいて、ドラゴンがいて、魔王っぽい人と黒魔術師っぽい人がいたよ。
獣耳の少女や、綺麗な女の人がハーレムをつくっておれを手招きしてた」
「勇者は」
「は?」
「だから、勇者はいなかったか?」
「勇者? そうだな、勇者はいなかったよ」
おれがそう答えると、兄貴はガッツポーズをした。
「どうしたんだよ?」
「あ、いや、勇者がいなかったってことは、勇者の席が空いているってことじゃないか」
「黒魔術師になるんじゃなかったのかよ?」
「いや、黒魔術師はすでにいるみたいだから、おれは勇者になるよ。黒魔術師は二人もいらないだろ」
「なに探偵は二人もいらないみたいなこと言ってんだよッ! おまえは一途じゃなかったのかよ。黒魔術師を捨てんなよ……」
「決めたよ。僕は勇者になるッ!」
「はあ……さようで……勇者になるのは勝手だけど、もうトラックの前に飛び出そうなんて考えんなよ。トラックに轢かれたって、異世界なんかに行けるわけないだろ」
「だよなぁ~、僕もそう思ったんだよ。だって、危険だもんなぁ~。タスケがトラックの前に飛び出したときはビックリしたよ。いや~ホントに。タスケこそトラックの前に飛び出したりすんじゃないぞ」
おれはプチンと心を制御していた何かが切れる音を聞いた。
それからの記憶はない。気が付くと、部屋の壁一面に血しぶきのようなものが点々とシミを作っていた。
「おい、クソ兄貴なに眠ってんだよ。起きろよ。まだ真昼間だぞ」
返事がない、ただの屍のようだ――。
それからしばらくして、兄は目覚めた。兄は何かをぼそぼそとつぶやいている。
「どうしたんだよ。いったい?」
おれはそう言いながら、兄の口に耳を近づける。
「魔王が……魔王が降臨された……」
「は? 魔王? 何言ってんだよ」
「魔王が……魔王が降臨された……」
兄は南極に裸で放り出されたように、ブルブルと震えている。
「しっかりしろよ。何が魔王なんだよ。本当に頭がおかしくなっちまったのか?」
兄は小さな声で何かをまだつぶやいていた。
「え? もっと大きな声でいってくれ」
「僕は……僕は……魔王の部下になるよ……」
「は? 何言ってんだよ。勇者になるんじゃなかったのかよ?」
兄は目いっぱい見開いた目で天井を仰いだまま、ゆっくりと首をふった。
「いや、あんな圧倒的な力を見せつけられた後じゃ、魔王に勝てるわけないよ……。魔王には勝てない。誰も勝てないんだ……。みんなみんな、魔王のしもべになった方がいいんだよ……」
「何言ってんだよ……気味悪いな。まるで魔王と戦ったみたいな言い方じゃないか? 勇者になろうって奴が、そんなことで折れるなよ。
強い奴と戦って、成長していくジャンクみたいなヒーローが好きじゃなかったのか?」
「ああ、ジャンクみたいなヒーローが好きだよ。だけど、あの魔王の力は異常だよ。宇宙の帝王並みの強さだよ」
「宇宙の帝王ぐらいなら、まだ格下だって……その上にゼロや魔人グッーがいるじゃないか」
おれは何故か気落ちしている兄を励ましている。
けれど、兄はゆっくりと首を振った。
「いや、やっぱり僕じゃ宇宙の帝王には勝てないんだ……。どうせ、ナムチャぐらいの戦闘力しかないのさ……」
「いや、そんなことないって、天津丼ぐらいの戦闘力はあるって……」
「いや、天津丼じゃ……宇宙の帝王には勝てないんだよ……。僕は実際に戦ったんだ……。長いながい、戦いだった。だけど、魔王の戦闘力はけた違いだった……。誰も魔王には勝てないんだ……この世の終わりだよ……」
「天津丼なめんなよッ! あの第二形態のゼロを気道砲 で、フルボッコにしてたじゃないかッ! あの力があれば、宇宙の帝王にだって、勝てるんだよッ!」
なんでおれは天津丼をかばってんだよ……。ということを、もう一人の自分があざ笑っている。
おれがそういうと、兄は今までの落ち込みようが嘘だったように、ぴょんと起き上がった。
「ああっ! たしかに天津丼ぐらいの力があれば、宇宙の帝王に勝てる気がしてきたよッ! ああぁ~良かった。宇宙の帝王に異世界を滅ぼされて、終わりかと思ったよ。ホントに」
「おまえの頭が終わってるよ」
おれは呆れかえって、ものも言えなかったけど、しょんぼりしている兄貴よりは、今の方がいいと思った。けれど、すぐに兄はまたしょんぼりしてしまった。
「ん? どうしたんだよ。また、しょうもないことで悩んでんのかよ」
「ああ……魔王に立ち向かう決心はついたけど、肝心の異世界に行く方法がないんじゃ、どうしようもないじゃないか……。天津丼だって、後半から出番を与えられないんじゃ、活躍しようもないよ……」
「まあなぁ~、たしかに初期のころは天津丼が最強のライバルだったけど……ピロッコやベクータがあらわれてから、出番減ったよな……」
「な、強くたって出番がなければ意味ないんだよ。魔王に立ち向かう決意はしても、異世界に行けないんじゃ意味ないんだよ。
いくら天津丼が強くても、ベクータには敵わないんだ。戦闘民族なんてはじめからチートキャラには敵わないんだよ……」
「そうだよな……」
おれも何故か気落ちしていた。
て、何で天津丼の出番がないことにおれが気落ちしてんだよッ!
「そう気を落とすなってッ! もっと簡単に異世界に行ける方法を教えてやるから、な、元気出せよ」
「本当に? 簡単に異世界に行けるの? トラックに轢かれたりしない……」
「え……ああ、本当本当、この方法が一番簡単だから」
「本当だな? 嘘じゃないな。転生したら、勇者になれるんだな。蜘蛛とかスライムじゃなくて、トラクエみたいな勇者になれるんだな?」
「ああ、トラクエに現れる、トロの勇者みたいな勇者になれるよ」
そういっておれはたぶん一番簡単な、異世界への行き方を教えた。
「これだけで、異世界に行けるのか? 信じられないな……」
トラックに轢かれたら異世界に行けるなんて、信じてた奴が何で疑ってんだよ……。
「ああ、これで(たぶん)異世界に行けるよ。この六芒星に赤い字で飽きたって書いてその夜眠る。朝起きれば、異世界に行けるみたいだぜ。ほら、このサイトを見てみろよ」
そういって、おれはパソコンの画面を兄の方に向けた。
『まさか自分が異世界に行けるとは思っていませんでした』
『こんなに簡単に異世界に行けるとは、ビックリです』
『異世界に行けました』
『異世界は楽しいです』
『勇者になって、楽しく異世界ライフを送っています』
『大魔王アープと戦って勝ちました』
『暗黒黒魔術を極めて、エクスプロージョンを爆撃ちしています』
『これが異世界のハーレム展開か、まじ凄いっすよッ!』
『獣耳美少女たちと、楽しく異世界ライフを送っています』
『チートの力を使って、今日も楽しく無双中』
『レベル9999まで冒険し尽くしました』
『私は悪役令嬢に転生して、悪の道を究めてますッ!』
どうして、異世界に行った奴らがこんなことを書き込めているのかはさておき、「な、みんな異世界に簡単に行けて、楽しんでるだろ」とおれはどうしてこんなアホみたいなことを必死に説いているのか泣きたくなった。
あのトラックの運転手がいっていたように、この世界には頭のおかしな人たちがたくさんいるんだな……うん。この世の終わりだ――。
「やっぱり、持つべきものは妹じゃなくて、弟だな。お兄ちゃんのためにわざわざ調べてくれたのかッ! ありがとう!」
兄はおれの両手をつかみブンブン振り回した。
「ああ……じゃあ、向こうに行っても達者で暮らせよ」
「ああ、勇者になって魔王を倒してくるよ。それじゃあ、今までありがとう。これから始める異世界転生のはじまりだッ!」
「ああ……」
おれは苦笑いを浮かべて、適当に相づちを打った。
「明日の朝、僕がこのベッドにいなかったら異世界転生に成功したと思ってくれ」
「ああ」
「じゃあな。おやすみ。そして、さようなら」
「ああ。じゃあな」
おれはそう言い残して、兄の部屋をあとにした。
「たく、本気であんないんちきショッピングみたいなコメントを信じてるのかよ。やれやれだぜ」
おれは呆れながら、自分の部屋に戻った。
翌日の朝。おれは、「やぁーいやぁーいッ! 異世界に行けなかったぁ!」と兄貴をからかうために、兄の部屋へ向かった。
「よう。どうだったッ! 異世界に行けたかッ!」
おれは扉をバンと乱暴に開けて、兄の部屋に飛び込んだ。けれど、兄の部屋はいつもと違った……。壁紙が変わった訳でも、強盗に荒らされたようになっているわけでもなかった。肝心の兄の姿が消えていたのだ……。
どういうことだ……? いつも遅くまで眠っている兄の姿が、ベッドになかった。部屋のどこにも、兄の姿はない……。
「う……そだろ……」
いつもは遅くまで眠っている兄の姿がなかった。
起こさなければ、夜まででも眠っている兄の姿がなかった……。
「おいおいおいおいおい……マジかよ……。あのいんちき商法みたいな、コメントは本当だったのか……? じゃあ、どうやってコメント書き込んでんだよ……異世界にもインターネットがあるのかよ?」
あれほどいなくなって欲しいと思っていた兄は、やっと自分の前からいなくなった。腹が立つことばかりだった。やっと、あの問題児から解放されたのだ。これで自由になったのだ。
「あれ……何でおれはこんなに悲しんだろう……何でおれは泣いてるんだろう……」
おれは袖で涙をぬぐった。
「やっとあの暴君から解放されたのに……。これで平穏な生活が送れるのに……。何でこんなに悲しんだろう……。向こうでもあんな馬鹿なことを送っているのかな……?」
兄が異世界で本当に魔王を討伐している姿をおれは考えずにはいられなかった。そうさ、きっとあの兄なら魔王に勝てるさ――。天津丼は強いのだから……。
「兄貴……向こうでも達者で暮らせよ」
おれはここではない、違う世界“異世界„に旅立ってしまった、兄を想った。
そのとき、「あれ……ここはどこだ……。異世界に行けるはずじゃなかったの?」と寝ぼけまなこをこすりながら、兄はベッドの裏側からはい出てきた。
おれは目を点にしながら、ベッドの裏側からはい出てくる動く屍を見つめた。
「嘘じゃないか! 異世界になんて行けなかったぞ!」
兄は六芒星と赤い文字で飽きたと書かれた、紙切れをひらひらふってみせる。
「ん? どうしたんだよ? なんで泣いてるんだ?」
兄はおれの顔を見た瞬間不思議そうに、顔をしかめた。
おれは恥ずかしさの余り、頭が真っ白になった。それからの記憶はない――。夢のような世界で、おれは兄の声を聞いた気がした。
「ぎゃぁあああああぁあぁぁッ!」
気が付けば、兄の部屋の壁には血しぶきが飛び散ったような、シミがいたるところにできていた。
そして、ベッドの上に兄が白目をむいて横になっている。
「おい、もう朝だぞ。起きろって。いつまで眠ってんだよ」
返事がない、ただの屍のようだ――。
「たく、楽しそうに笑いやがって。いったい、どんな夢を見てんだよ。夢の中では異世界に転生できたのか?」
おれはせっかく異世界転生できた兄を起こしてやるのはかわいそうだと思い、もう少しだけ“異世界„に浸らせてやることにした――。
めでたしめでたし