娘は天使でした
恐らく川に落ちて頭を打ったのが原因だろう。死んで性別が変わった誰かになってしまうというのは、ネット小説ではありがちな展開だが、いざ自分がそうなってしまうとどう対処していいか分からないものだ。
「うわーん! お母さん……おかあさーん……」
とりあえず、この泣きじゃくる少女をどうにかしないとな。うーん、お母さんなら泣く娘にどう声をかけるだろう? 俺のリアルの母親が、最愛の娘に声をかけているシーンを思い出す。……心底気分が良くないが、お陰でしっかりと再現できそうだ。よーし!
「……大丈夫よ。心配いらないわ羽奏」
ありゃ、これ俺の声ですか? 可愛らしい。
「……お母さん!? 私の事覚えてくれてたんだね!? 記憶喪失になっちゃったのかと思った!」
実際羽奏のことなんてさっき本人が自ら名乗っていた名前しか分からないので、記憶喪失と大差ないが、ここは誤魔化しておこう。
「ごめんなさい、ちょっとぼーっとしちゃって……でももう大丈夫だから」
大丈夫ではない。大丈夫ではないけれど……。
「よかったぁ……安心したよ」
羽奏の笑顔を見ていたらどうでも良くなった。無性にこの子を悲しませたくないという気持ちが湧き上がってきて……これが母性というやつだろうか。よくわからない。……が
「と、とにかくリビングに降りてきて朝ごはん作ってよ。みんな待ってるよ?」
その言葉に俺の心臓は止まりかけた。
いやいやいや、料理なんて家庭科の授業でしかやった事ないぞ?
――そうか、これを母親は毎日やって、お弁当とかも作らないといけない。だからアラームが朝早くにかけられていたのか――!
「う、うん……」
「下で待ってるね!」
意気揚々と部屋から出ていった羽奏。
部屋に取り残された俺は一人で途方に暮れた。でもやるしかない。羽奏に心配はかけられない。
……とりあえず服を着替えなくては。
そこら辺のタンスをガサゴソと漁っていると、きっちりと畳まれた衣類が出てきた。なるほど、俺が乗っ取ってしまったお母さんはよほど几帳面なキャラらしい。
自分の親とは似ても似つかないお母さんに、心の中で謝りながら、俺はラフなTシャツにエプロンという格好に着替えた。偏見が多分にあるが、お母さんといえばエプロンだろう。
本来ならばこの辺りで、変わり果ててしまった自分の姿に戸惑うような描写が入るのだろうが、今は緊急事態。下で腹を空かせた家族が待っている。お母さんとして、何としても朝食を作らないといけない。というわけで、その描写は後でやらせてくれ。
エプロンなんてつけたのも家庭科の授業以来だったので、苦戦しながらも何とか着替え終わった俺は、部屋から出た。確か下って言ってたよな……? うろうろしながら階段を探すと、あまり苦労せずに下に降りる階段を見つけることが出来た。降りていくと下から何やら話し声が聞こえてきた。
情報収集してからあの中に突っ込まないと、ボロが出そうなので、しばらく会話を聞いていることにする。
「――で、母さんは大丈夫そうなのか?」
「うーん、よくわからないけど、大丈夫じゃないかな? いつも頑張ってくれてるからたまに疲れちゃうんだよ多分」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんなんですー! 男の子には分からないんですー!」
「あぁ、そうか、はいはい。じゃあ俺は行ってくるわ。そろそろ真那斗と弥生が待ってるだろうし」
「高校二年にもなって友達と仲良く登校とか青春ですねぇー!」
「……言ってろ! じゃあ行ってくるわ」
「行ってらっしゃい! お兄ちゃん!」
男の子と女の子の会話だ。女の子の方は先程の羽奏。男の子は……会話からするとお母さんと化した俺の息子にあたる人物のようだ。で、羽奏の兄だと……
「あっ、お母さんっ!」
階段の途中で立ち止まっている俺を発見した羽奏が声をかけてきた。
「あれ、お兄ちゃんは朝ごはん食べなくていいの?」
お兄ちゃんの名前分からないし、『お兄ちゃん』でいいよな?
「え……あ、うん。朝ごはんは私が作っちゃった。お母さん疲れてそうだったし」
照れくさそうに頭の後ろに手を回しながら言う羽奏。
て、天使かーっ! ピンチを救ってくれた羽奏天使に感謝! 申し訳ないけれど、俺が料理をしたら悲惨なことになることは間違いない。絶対羽奏の方が上手いはずだ。
「そう……ごめんね?」
「ううん、いいのいいの! ほら、お母さんの分もあるから食べて?」
羽奏がダイニングに置いてあったテーブルを示すと、そこにはトーストとサラダと目玉焼きという典型的なモーニングセットが用意されていた。が、この子が俺のために作ってくれたというだけでもありがたい。よし、娘だし褒めてやるか。
「これ、羽奏が作ったの? すごいじゃない!」
「ううん、いつもこんなのより100倍美味しいごはんをお母さんは作ってくれるんだから、少しくらいはね?」
泣けてくる。羽奏もそうだが『お母さん』。めちゃくちゃいい人っぽい。うちのクソババアとは大違いだ。
「あー、やっぱり疲れてるね? 髪の毛結うの忘れてる!」
「えっ?」
羽奏の言葉でハッとした。そうだ。髪の長い女の人って結わないといけないんだった。でもやり方が分からない。やったことないしな。
「もーうしょうがないなー。座って? 私がやってあげる」
「あ、ありがとう……」
またしても天使モードを発動した羽奏に、髪の毛は任せることにした。ダイニングテーブルの椅子に座ると、羽奏は俺の後ろに立って、手ぐしで俺の髪をスルスルと梳く。……なんかくすぐったいな。
「……覚えてる? お母さんよくこうやって私の髪を梳いてくれてたの……」
「え、あ、うん……」
本当は覚えてるわけないんだけど、雰囲気ぶち壊したくないので、適当に同意しておく。
「嬉しかったんだぁ……お母さんの手が優しくて……ちょっとくすぐったくて」
喋りながら、羽奏の手が目まぐるしく動いているのがわかる。さすが女子、手際がいい。
「いろんな結い方教えてくれたよね。でも、お母さんに似合うのはやっぱり……できた! 三つ編み!」
「ありがとう……」
俺は頭の横に垂らされた綺麗な三つ編みを見て泣きそうになった。手が優しくてちょっとくすぐったくて……っていうのは羽奏のことだろっ!
「私こそ、いつもありがとう、お母さん」
「羽奏……」
感動シーンだ。俺はこの子の実の母親ではないが、思わずウルっときてしまった。そして……こんな娘を育ててくれた『お母さん』に感謝し、娘の役に立てない自分を恥じた。
……こうしちゃいられない。俺も『お母さん』に負けないように家事を頑張らないとな!
「体調悪いならゆっくり休んでね? 家事は私が帰ってきてからやるから! 行ってきまーす!」
俺が朝食をとっていると、しばらくして羽奏も学校へ出かけたようだ。
時刻は8時過ぎ。
羽奏の言い方から考えると、『お母さん』はどうやら専業主婦のようだ。
さて、どうしたものか。羽奏はああ言っていたけれど、家事を何から何まで任せてしまうのは気が引けるし、なにより『お母さん』に失礼だ。
よし、まずは家族について知らないとな。なにか手がかりないかな?
朝食が乗っていた食器を慣れない手つきで洗うと、俺は二階の『お母さん』の自室に戻った。
「スマホが使えればいいんだけどな……」
どっかにパスワード書いてないかなー。と、何気なく鏡台に取り付けられた化粧品を入れるものと思われる棚を漁ってみる。見たこともない化粧品がたくさん。ここには手がかりがないか……とすると。
俺は衣装箪笥の上の10センチメートル四方の木造りの棚に視線を向けた。あれが一番怪しい。きっと財布とか大事なものが入っているに違いない。
背徳感をおぼえながらも棚を開けてみると、案の定中には財布や通帳や印鑑といった大事なものが詰まっていた……が、それらの上に一枚の紙の束が乗っている。
黒っぽい重厚な財布や通帳に混じって、その白さが一段と目を引く。
俺は恐る恐るその紙束を手に取った。メモ帳のようだ。
その表紙を見て俺は驚愕した。
まさかこのような事があっていいのだろうか?
……こんな。
メモ帳の表紙にはこう書かれていた。
――記憶を失った〝私〟へ