母親嫌い
「うっせぇ、クソババア!」
俺はそう叫ぶと共に家を飛び出した。苛立ちに任せて玄関の扉を後ろ手で叩きつけるように閉める。
――ダンッ!
と自分でもびっくりするような大きな音が夜の住宅街に響き渡ったが、知ったことか。背後で微かに「奏太っ!」と俺の名を呼ぶ女の声が聞こえたが、そちらも知ったことか。俺は夜の街をあてもなく走った。
だいたいあいつは俺の事をなにも理解していない。友人関係や部活、テスト勉強などで俺がどれだけの苦労をしているのか……。母親とはいえ所詮は他人だ。理解できないのは分かっている。それが問題ではない。あいつは理解できないのにさも理解してるかのように接してくるのだ。
「クソが! 部活で結果残してるんだから、一教科くらい補習になってもいいじゃないか!」
そんなことをブツブツと呟きながら走るのは傍から見たらだいぶ異常だと思う。でも、どうしても気が収まらない。
端的に言おう。俺、松野 奏太は――
――母親が嫌いだ
勉強の出来ない俺に対していつも口うるさいあのクソババア。おまけに運動はできないが勉強ができる俺の妹に対しては激甘だ。意味がわからない。親たるもの子供に平等に接するべきじゃないのか?
妹が全国模試で何百位だか知らないがな、俺は部活でやっている空手の全国大会で8位だぞ? おまけに部のエースで副部長だ。どっちが優秀か一目瞭然だろ。……はぁムカつく、ほんとムカつく!
おまけに俺は、あれだけの結果を出しているにも関わらず、驚く程にモテない。
よく、ラブコメもので冴えない主人公の高校生の周りになぜか美少女が集まってきて主人公を奪い合うみたいなものがあるが、冴えてる俺の周りには集まってこないのか? それとも見た目が悪いのか?
お堅い学級委員長も、クラスのムードメーカーも、不思議系ロリも、孤高の美少女も、生意気な後輩も、幼馴染も、俺のことはどうやら眼中にないらしい。話しかけられたことすら稀だ。
唯一、妹だけはやたらと俺に絡んでくるが、あいつは母親に甘やかされてベッタリなので、その威を借りて俺の成績をバカにしてくることしかしない。ほんとに、理不尽な世の中である。
あとな、だいたいラブコメものの主人公には若々しくておっとりした母親(攻略対象外)がいるんだが、あれはまやかしだからな!? 実際はもっと老けててケバケバしていて口うるさいだけのクソババアしかいないはずなんだ……うん。まあ、あれはあくまでもゲームや小説やドラマやアニメといった非現実的な空間での事象であって、それが現実になるわけが無いといったらそれまでなのだけど。
「……ここは?」
気づいたら俺は自宅から徒歩10分くらいの所にある大きな川の上にかかっている橋を渡っていた。通っている高校へ行く道だから、無意識に辿り着いたらしい。等間隔で並べられた街頭に照らされて、歩く毎に俺の影は伸び縮みする。
――ブウンッ!
と勢いよく俺の隣をスーパーカーが走り抜けた。時刻はもう夜の10時を回っているだろうか。橋の上は昼間に比べて人影も、車両の往来も疎らだ。
俺は橋の中央付近で手すりから身を乗り出しながら、下を流れる黒い川を眺めた。川はいいなぁ、なにも悩み事は無さそうで。口うるさい親もいないんだろうなと……
川に感情があればの話だけど。
「……はぁ」
頭に上った血が段々と下りてきた俺は、自分もさすがに大人げなかったなと思い、ため息をつきながら項垂れた。もう少し頭を冷やしたら家に帰ろう。もう少し、大学にさえ入ってしまえば念願の一人暮らしができる! それまでは不本意だがあのクソババアに付き合ってやろう。
と、決意も新たに顔を上げかけたその時……
――ドドドドドッ!
という凄まじい振動とともに、橋を大型トラックが駆け抜けた。
「うわっ!」
手すりから身を乗り出していた俺は、その振動で手を滑らせ、慌てて体勢を立て直そうとするが間に合わず……
――俺は
――黒い水面へと
――真っ逆さまに
――落ちていった