お母さん大パニック
が、俺のフリーズは突如として解除された。なぜなら、ズボンのポケットの中で突然スマホが震え始めたからだ。あれ、誰かから電話かな?
取り出してチラッと確認してみると、アラームだった。そういえば授業参観のちょうど中間くらいの時間でアラームをかけていたんだった。祐士のクラスにいると時間を忘れそうだったから。
そして、子供が二人いる俺は、もう一人の子供――つまり羽奏の授業も見に行かないといけない。彼女はいい子だから俺が見に行かなくてもちゃんとやってるだろうけど、多分そういうことは気にするタイプの子なので、親が見にこなかったと分かったら、絶対にヤンデレモードに突入してしまう。それは何としても避けないと。
俺は傍らに立っていた愛美さんと康子さんに小さく右手を上げて「ごめんね」のポーズをすると、小声で告げた。
「ごめんなさい私、羽奏のクラスに行かないと」
「あ、そうだったね。行ってあげて」
「ここはあたしたちに任せて先にいけっ紗衣!」
「ありがとうございますっ!」
謎のテンションで力こぶのポーズをする愛美さんに少し困惑しながらも、俺のために教室の出口までの道を開けてくれた愛美さん、康子さんに感謝しつつ、俺は高校二年生の祐士の教室を後にしたのだった。
*
えーっと、案内図によるとここが羽奏の教室かな?
見た目こそ祐士の教室と同じだが、こっちは外からだと男教師が話す声しか聞こえない。静かなものだ。祐士のクラスも見習っていただきたい。
しかし入りにくいぞこれは……。
教室の後ろの方に保護者が固まっているのが見えるので、授業参観中だということは確実なのだが、俺が入ると物音で注目の的になりかねない。おまけにまずいことに、俺は今日正装を忘れて、Tシャツにジーパンというラフすぎる格好なので、恥を晒しに来たようなものだ。さらにさらに、ここでは愛美さんや康子さんみたいに庇ってくれる保護者さんもいない。
うーん、やばい。一気に足が重くなったぞ……。でも入らないわけにはいかない。可愛い娘が俺を待っているのだから……!
「えーい、なるようになれっ!」
俺は自分のほっぺたを叩いて気合を入れると、意を決して教室の後ろの引き戸を開けて中に入った。
――ガラガラガラ!!
なーんでこんな大きな音が出るのぉぉぉ!?
一斉にこちらに向く保護者の視線。そして振り返ってこちらを覗う生徒たち。さらに、授業を止めてこちらに注目する体育会系の男教師。俺は心の中で絶叫した。やばいやばい、ちょー恥ずかしい!
やがてヒソヒソと、保護者の間から小声で話すような声が聞こえ始めた。
『まあ、嫌だわあの人、授業参観なのにあの格好は……』
『恥ずかしいわねぇ、どの子の親かしら?』
みたいなことを話してるんだろ! 分かるぞ! オバサンってのはそういうやつらだからな!
と、勝手な偏見と、羽奏への申し訳なさで俺はパニックを起こしてしまった。その場から動けずに、徐々に頭に血が上って顔が熱くなってきた。
すると、視線を逸らした先で、教室の隅に座っていた羽奏と目が合ってしまった。――ごめん羽奏、恥ずかしいお母さんでごめんなさい! ――でも、当の羽奏は俺の姿を見つけるととても嬉しそうに手を振ってきた。
あぁぁぁぁぁぁ!!!! や、やめるんだ! そんなことしたら俺が羽奏の親だってことが他の保護者にばれ……。
俺は咄嗟に羽奏を無視してそっぽを向いた。
――が、その時
――思いもよらぬことが起こった
「わぁっ、おかあさん! 見に来てくれたんですね! 嬉しいですぅ!」
「誰!?」
俺が慌てて声のした教室の真ん中の方に視線を向けると、そこにはふわふわのピンク髪の美少女がこちらを向いて手を振っていた。――いや誰だよ! 可愛いけど知らない子だよ!? なんでそんな子が俺のことをお母さんとか呼ぶわけ? ちょっとアレな子なのかな?
そして、ピンク髪の美少女の声に、またしてもざわつき始める保護者達。
ほらぁ、なんかよくわかんない雰囲気になってきた! 俺、この子の母親だと思われてるよ! いや確かに、羽奏には迷惑はかからないけど……けど!
「ご、ごめんなさい! 教室間違えましたぁ!」
空気に耐えきれなくなった俺はそれだけ叫ぶと、そそくさと教室を後にしたのだった。
「……はぁ……はぁ……さすがに肝が冷えた」
俺は手近なお手洗いに駆け込むと、個室にこもって気持ちを落ち着けた。とりあえずどこでもいいから静かな場所で一人になりたかったのだ。それがトイレっていうのはなんというか……前世の俺に染み付いていた習慣というか……そんなやつだ。
ちょうど用も足したかったし。
「しかし羽奏には悪いことをしてしまったな……」
変な格好で授業参観に来てしまい、恥をかかせてしまった挙句、逃げ出してくるなんて……俺はなんてバカな母親なんだ……。羽奏……紗衣さんもごめんなさい。
「――帰ったらしっかり謝らないとな!」
そして、次からは授業参観の時は絶対正装していくぞ!
俺が決意を新たにしていると……。
――キーンコーンカーンコーン
お、懐かしいチャイムだ。もう授業終わりか。授業とホームルームが終われば、保護者はそのまま『保護者会』なるものをやるらしい。早く祐士のクラスに戻らないとな。
用を足し終えた俺は水を流して便座から立ち上がるとズボンをはいて個室から出た。すると、見慣れたとある人物と鉢合わせてしまった。――そう、そいつは俺の息子の――祐士だった。
「???」
「??????」
俺と祐士は見つめあったまましばらく硬直していた。なんでお互いがここにいるのか、わからない。あれ……ここって。
俺がふと視線を逸らすと、そこには白い小便器があって――ってことは――まさか――
「あっ、ここ男子トイレかぁ!」
しまった! やってしまった! ついいつもの癖で男子トイレに駆け込んでしまったけど、今の俺はお母さんだったんだった! だから祐士がトイレに入ってきて呆然としてるのか! ごめん! これは完全に俺が悪い!
「当たり前だろ。アホなのか?」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?!? ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
祐士の苛立ちを通り越して呆れたような声に、俺は完全にパニックに陥ってしまい、そのまま祐士の脇を駆け抜けて男子トイレを後にした。
*
どのくらい走り回っただろうか。人のいない所を探して、俺は校舎の裏庭にやってきた。とにかく、とにかく気持ちを落ち着けないと……! パニックのダブルパンチで俺のメンタルは砕け散りそうだった。
「ふぅ……ふぅ……ここなら大丈……ん?」
大きく息をついた俺だったが、裏庭の奥の方で何やら声がしたので、慌てて声を殺してそちらに意識を集中させた。
「……が、……んだよなぁ」
「……だって、……じゃないですか」
んー、なんだろう? 女の子二人が話しているような声がする。俺はもう少し良く聞こうと、裏庭に生えている木に隠れながら少しずつ声のする方に近づいた。
「今からでも遅くないから辞退しろって、悪いこと言わないからさ」
「いやです。祐士さんと仲良くするように、紗衣さんにお願いされたのです」
「……誰だよ紗衣って」
「祐士さんのお母さんです」
話しているのはどうやら、祐士のクラスの菜心ちゃんと明日菜ちゃんだ。恐らく、学園祭の役決めの件で争っているのだろう。場外乱闘というやつだろうか、一触即発の雰囲気だ。女の子は怖いな。
「明日菜お前さぁ、今まで祐士には何も興味を示さなかったじゃねぇか。一体どういう風の吹き回しなんだ?」
「紗衣さんはわたしのヒーローなのです」
「はぁ? 意味わかんねぇよ。なんでそれで祐士に手ぇ出すんだよ」
うん、俺にもちょっと意味がわからない。明日菜ちゃんは俺の言葉を必要以上に重く受け止めて、暴走気味になってしまっている。……と思う。誤解を解きたいが、今はのこのこと出ていける空気ではない。
タイミングを見極めなければ。
「祐士さんと仲良くと言わr――」
「いいか? 怪我したくなかったら祐士から手を引け。分かったな?」
いや脅迫じゃんそれ。
「いやです」
「あそ、後で泣いても知らないからな」
首を振る明日菜ちゃんに捨て台詞を吐くと、菜心ちゃんは俺のすぐそばを通り過ぎて、校舎に戻っていってしまった。