君へ
当時、私はその恋にあまり自覚的ではなかった。それでも感じるものがやはりあって、私は彼を選んだのだと思う。
その日は、春でもないのに麗か、という言葉がふさわしく感じるような日だったことを覚えている。いや、あの学校はいつもそうだった。いつも、柔らかな光に溢れた場所だった。クリスチャンにとっての聖堂のような、あたたかで神聖な場所だった。
当時私は幼なじみの影響でボーカロイドが好きだった。先生の話によれば、彼もまたボーカロイドが好きだと言うことだった。ならば仲良くなれるだろうか、ぼんやりとそんなことを思いながら教室に入ると、そこに彼がいた。
仲良くなりたい。/仲良くなれる。
強く、本当に強くそう感じた。一体、彼の何処にそう感じたのか。それはわからない。ただ彼を見て、いっそ暴力的な衝撃に襲われたのだ。
私は夢中で話しかけた。その時も、授業の合間の休憩時間も、帰ってからの寮でも。彼はひどく人見知りする質のようだし、無気力で、二言目には「帰りたい」と呟く人だった。普通そんな調子の相手を構い続けるのは苦痛に感じそうなものだが、不思議と私は逆のことを感じていた、彼との会話は、ひたすらに楽しかったのである。私は学校に「行けない」ことはあっても、「行きたくない」と思ったことはほとんどなく、またそれを公言すると言う姿勢が己にはない斬新で面白いものに見えたのだ。人は己にないものに惹かれるというなら、私はまさにそれであったし彼の返答というのは常に私の創造とは違い、なのにそれがひどくしっくりくるものだから、本当に意味が分からないのに楽しかった。次はどんな園児が返ってくるのか楽しみで、ずっとわくわくしていた。彼も、少しずつではあるが打ち解けて笑ってくれるようになって、私はますます彼に話しかけた。
今思い返せばこんなにわかりやすく恋をしていたのに、私はそれが恋だなんて風には思い切れていなかった。これは恐らく、私の中では「恋愛」も「友愛」も「親愛」も、『好き』の名でくくられどうにも近すぎたせいに思える。言ってしまえば、「いいひと」はみんな好きで、愛しているからどれだって恋に変わることができるということだ。そこに二つのしこう(思考と指向)が重なって、「恋をする」か選択するのだろう。
だから私は彼を選んだ。こんな調子だからか、私の周囲は私は別の人を好きだと思い話すくらいだった。まあ私は昔から惚れっぽいというか、「いいな」と思うことが多かったしわからなくもない。ちなみに愛も重い。自分でも「そこまでする?」と後から思うようなことすらしてしまう奉仕体質であるから、周りからは私の好意の質や量は測れなかったのかもしれない。ちなみに周囲に推された人に対する感情は恋情未満の憧れだった。単純に相手が美少年だったというだけであり、中身もまあ面白い奴ではあったから好きだけれど、「恋してるでしょ」と言われて思い浮かべる人ではなかった。そのあたりの問答はあまり覚えていないけれど、結果的に私は彼を好きだと自覚して、ぼそぼそと思いを告げたのだ。
その問答の数日前、暮らす全員で恋バナをした時、彼が「最近好きな人が出来た」と話していて、私は自分のことだ、と恥ずかしくも確信していたことも追記しよう。誰にも特別親しくしていなかった彼であったから、そんな対象を私は私以外思いつかなかったのである。その時私は舞い上がり優越感と達成感でいっぱいになったものだ。今にして、どや顔などを晒していなかったか心配な位である。おそらくしていた。
そんなことも経験していたので、私と彼はお付き合いを始めた。とはいえ、変わったものなど些細なものだ。物理的距離と言葉の甘やかさ、それくらいだろう。おもいかえせば、チョコレート味の綿あめを口に含んでいるような日々だった。だって、ずっとふにゃふにゃした表情だった。会話はずっと軽やかに転がり、跳ね、遊んで。隣にある彼のあたたかさと匂いに、安心と幸福を覚えていた。彼は少しふくよかで、やわらかな体をしていた。そのやわい体に抱き着きたい、と今でも思っていたりする。私は二次元では褐色肌のたくましい男性キャラが好きなのだが、実際に触れるならやわらかいに越したことはないと思うのだ。身長もほとんど一緒であるから、いつでも目が合わせられて好きだ。
ああ、本当にぼんやりとしていたのだ、今までの彼への好意は。書き綴れば、こんなにも鮮明じゃないか。
進学先で別の人に惹かれたりもしたが(彼とは中学以来進学先は被っていないし、その頃には彼とは疎遠であった)、その人にしても一風変わったところが彼に似ていたからだったし、一度二人で出かけた時点で愛想をつかしてしまった。その後しばらくしてからまた彼と連絡を取り出して、それが今までほとんど毎日やり取りをしている。
これでは私はあの頃から今まで、ずっとずっと彼しか見ていないじゃないか。
少し前から、職場の人に彼の話をしている。そうすると、懐かしさと彼になつっこくひっついていたことを思い出してやはり彼しかいないのだなあなんて。
なので、電話越しではあるが数回目の告白をした。私はきっと、ずっと君が好きだと話した。普通の人なら恥ずかしいとか思うのかもしれないが、私にとっては当たり前のことを当たり前に話しているだけで、また、かつてのように付き合いたいとまで迫る気はなかったので、淡々と、けれど思いを込めて伝えた。つもりだ。
彼は私のいる市から一つ市を越えた先に住んでいるし、中学卒業後の6年間で会ったのは両手で数えられる程度だ。その頻度を増やす余裕は二人ともになく、メッセージと電話ができるだけでも、十分とはいかないが、七八分ではあるのだ。できることなら、手をつないだり、抱擁を交わしたいけれど、そんなことをしたら幸せ過ぎる気がした。
成人済みであるから性知識もあるけれど、そういう欲求よりも言葉を交わしたい。ただ隣で話し合えるだけで十分だから。というのは、その時話していない。
彼は、私のことが好きかわからないと返した。自分のことを把握するのも、自分のことを話すのも苦手なのだ、と教えてくれた。私はちっとも悲しくなかった。私は、彼が私を好きだと知っている。ただ、それが恋と付く愛かは知らない。けれどそれがどうした? 彼が私が語るありのままの私を受け入れてくれるように、私は彼のありのままが好きなのだ。両思いとは何だ? まったく同じ思いでなくたって、好意と好意で、心が触れ合えばいいじゃないか。
私は、彼が気持ちを把握できるまで待つと答えた。私はただ好きなだけだ。彼の気持ちが欲しいとまでは思っていない。そのまま、健やかに穏やかに幸せにいてほしいだけだ。その一部に、私が少しいればいい。そしてそれは今の時点で叶っているように感じている。何せ、自分からは連絡をとらない彼と6年間連絡を取り続けるような私である。大きく言えば、家族の次の次くらいにはいるのでは…とか、想ってしまって、うん。そんな調子だから、もし付き合うとなっても、今と変えるものなんてない。気持ちの確認ができたかできていないかだけである。けど、それがすごい安心感につながると思っている。相手も自分が好きだと知っているだけで、笑顔になれるのだから。
色々書いたけれど、私はもし彼が私に恋をしてくれても、一緒になろうとはまだ言わない。まず私は自分に自信が無いのだ。成長はまだする。それは、彼だってそうだと思う。モラトリアム、というけれど、私達は大人のフリもできない未熟さがある。それを克服できて、自分を自分で支えられる人間に「お互いが」なるまで、一緒にはならない。
だから、今私が胸躍らせる未来夢想は、30とか40とかになってから一緒に笑う、私達の姿だ。本当に、考え方がのんびりで古すぎるのかそれとも新しすぎるのか。だって、私は20年後でも彼と交流があると確信しているのだ。かけがえのないひとだと、きっとあの出会った日から、ずっとずっと知っていた。
君へ。
私の心はずっと、君の隣に居座っています。
ごめーんね。