天上の虹
雨が降っていた。
朝は明るい日差しも陽気も、僕に与えてくれなかった。
身体を起し、伸びをする。7時。早いとはいえない時間。重い身体を震わせると、身体のどこかでギアが入る。僕はふとんをのけてベッドを下り、洗面所へと向かう。
歯を磨き、髪を整え、顔にぬるま湯をぶちまける。鏡を見ると、そこにはぼんやりした瞳の、一人の男性が映っている。20歳にもならない、幼さの残る少年・・・なにかを失い、渇望している男性・・・
その鏡の中の人物は、僕の方をじっと見つめ、ときどきわからない、とでもいうふうに首をかしげる。これは、去年あたりからはじまった僕の習慣だった。鏡の中に映るのは、僕の知らない誰かだ。僕はぬるま湯をほほにしたたらせながら、鏡の中の人物に、かぎりない疑問と不可解を置き去りにする。
ぴこん、と傍らのスマフォが鳴った。その音が、せわしない時間の流れへと僕を引き戻した。かわいた、朝の挨拶。たん、たんと僕が画面を指先でたたく音の向こうで、さー・・・と、かすれる雨の音が横たわる。
着替え、荷物をまとめて、出発の準備をする。散らばっていた自分の私物を片付けていると、ふと胸がとくとくと高鳴る。
胃がちくちくと痛んでいた。
テレビをつけると、ニュース番組で男性アナウンサーがなにかを話していた。戦争のニュースだ。ある国とある国の国境地帯で武力衝突があり、何人もの人が亡くなったらしい。薄暗闇の中で、ぱしゅん、ぱしゅん、という絶え間ない銃声がテレビから響く。この戦争が現実のものなのだとしたら、今僕がいるのは非現実の世界なのかもしれない。僕はベッドの上にうずくまりながら、眠たげで深い悦楽が胸に湧き上がってくるのを感じた。
荷物を小さめのバッグに詰めて、チェックアウトを済ませる。外に出ると、しとしとと静かに降る雨の中で、車がそのライトを朦朧と、しかし強く輝かせながら、どこを見つめるでもなく走り抜けていった。雨の向こうに見えるのは、灰色の空、灰色の雲、灰色の霧、灰色、灰色・・・。
傘をさして、腕時計を見れば、8時10分。ゆっくりもしていられない。ばしゃばしゃと水たまりを踏みつけながら、地下鉄の駅へと滑り込む。
「もう一回、虹を見られたら良いよね」
そう言って微笑んだ彼女の顔は、朗らかで純粋で、残酷だった。
もう、僕は彼女の顔をはっきりと思い出すことはできなくなった。彼女は僕を離れていった。どこに行くともしれず。そんなに前のことではないけれど、日常のこまごまとした瑣事が彼女を埋もれさせ、消してしまう。それなのに胸の奥にたまった泥の山は、ちょうど今日この曇天の下でさまよう僕のように、行き場を失って滞っていたのだ。
地下鉄に乗って西へと向かう。いったんこの路線の終点となっている西の端の駅に到着し、僕は起きてから引きずっていたわずかな眠気からハッと目を覚まし、あわてて立ち上がって駅のホームへと降り立つ。
乗客はほとんどいなかった。今日は休日だが、天気は雨だし、しかも西の端っこにあるこの駅までわざわざ行こうなどという人はいないのだろう。反対方向にあるH駅の人ごみと充満した人いきれを想像すると、清清とした、しかしどこか孤独にも似た寂寥が胸の中をすっと駆け抜けた。
見覚えのある駅の改札を出て、駅前で待ち構えていたタクシーを素通りして、路上へと出る。まだ雨は降り続いていた。息はよく冷えた空気の中にはき出されると、白い氷になって消えていく。携帯で気温を調べると、「4℃」という表示があった。
さまざまなお店が並ぶ市街。そこを歩くのはもう何年ぶりかのことであったが、その様子なり雰囲気はあまり変わっていないように思われた。いや、あるいは単に僕が忘れてしまっただけということなのかもしれない・・・そう思うと僕の身体はいくらか軽くなったように感じられて、すっすっと、水たまりをかわしながら、北へ北へと向かっていく。
ちょうど、N島へのフェリーが出ている、港の方角へと。
潮の香りがだいぶ近くなってきて、湾には漁船らしき船がゆらゆらと海面で揺れている光景が見られるようになった。
僕は道ばたにあった小さな商店でパンをいくらか買い、軒先に立って雨を眺めながらそれをかじった。香ばしい、ほのかに甘い生地の味が口に広がる。ノスタルジックな味だ。雨の音にかき消されながら、ぱしゃぱしゃというパンの袋の音だけが冗談みたいに空気の間隙を縫う。こんなにパンの生地の味をかみしめるのなんて、初めてのことかもしれない、と思うと新鮮で滑稽だった。
その商店を出て、再び北へと向かう。ここは、僕の記憶にはっきりと残っていた。僕は左腕の腕時計で時間を見る。8時50分。港はもうすぐだ。
ぐしゃぐしゃと港の手前の砂利道を踏みしめながら、僕は歩いた。ぶぅぅぅん、といういつもより元気のないエンジン音を立てて、市バスが僕の横を通り過ぎていく。見たところ、乗客はほとんどいなかった。今日は太陽の下でピクニックを楽しむような日ではないのだ。
いや、そうでなくちゃいけない。虹を見るためには、すくなくとも雨が降っていないといけないのだから。
浜辺の突き当たりの道を左に曲がると、小さな事務所のような建物が目につく。「フェリー乗り場」と書いた古めかしい看板が見えた。
僕はそのすぐそば、ちょうど雨が当たらないビニールの屋根のついたところでじっと虚空を見つめている女性に目がとまる。
一歩一歩、胸の音を確かめるように、彼女の方へと歩いて行く。彼女の方も僕に気がついて、はっと気づいたような顔をしてみせて、ゆっくりと数歩、前に出た。
「…清樹くん?」
白い顔に、ふわふわとしたベージュ色のマフラーと、黒いコートに黒いスカート、タイツにブーツをはいたキャラメル色の髪の女性が、僕の名前を呼ぶ。
「はい、そうです。・・・理花さん、ですよね」
「うん」
理花さんは、「あ、そんなところ立ってたら雨に濡れちゃうよ。中入って」と、あわただしくそばに置いてあった傘をたたんで、中へと入っていった。続いて、僕も傘をたたんで水を払い、理花さんについて中へと入っていく。
「フェリーあとちょっとで出ちゃうから、切符買おうか」
理花さんはそんなことを一人ごちながら、ふと僕の方を振り向いて、目を丸くしてにっこり笑った。
「大きくなったね、清樹くん」
ふわりと、あまい香水の香りが鼻をくすぐった。あるいはそれは、夢想みたいな一瞬のために用意される、雨のにおいだったかもしれない。理花さんは1000円札を二枚券売機に入れ、二人分の往復切符のボタンを押した。
東京を出発したのが、おとといの夜のことだっただろうか。
大学生として一人暮らしをはじめて、二年になる。アルバイトをしながらとはいえ、つねにお金には困っている僕にとって、もともとの生まれ故郷であるこの街に帰るのにも、夜行バスに乗らなければならなかった。
昨日の朝にH駅のバスターミナルに着いた。冬休みなので、時間はあるのだが、バイトやサークルの関係でまたすぐに東京に戻らなければならない。そういう意味では、長期休暇の間とはいえ比較的忙しくはあった。
今回わざわざ地元に帰ってきたのは、親に会うためではなかった。一つ大事な事情があった。それについて、理花さんが案内してくれるというので、約束をして港で待ち合わせすることになっていたのである。
雨は小降りになって、こまかい水の粒がひらひらと霧のように飛んでいた。
フェリーのデッキに上がったが、人はまばらである。せいぜい15分程度の航路だが、だからといってせっかく海上を走るフェリーの感覚を肌で感じないのは損だろう。そう思って上がってきたはいいが、ほとんど人がおらず、またフェリーの轟音で周りの声もほとんど聞こえないこともあり、僕はひどくプライベートな場所にいる気分になった。
「久しぶりですねえ、N島に行くのも…」
僕はデッキの手すりにもたれかかりながら、ちょうど進行方向――僕の見つめる先にあるN島を眺めながら言った。
理花さんは、手すりに軽く手を添えて、まっすぐな身体で島を見つめていた。
「そっか、清樹くんが来たの、もう何年も前のことになるもんね。私も街の方の大学通うようになってから、そんなに帰ってないなあ…」
そこまで言って理花さんは、「あ、でも月一回は絶対帰ってるんだけどね。」と照れたように付け足した。
理花さんは、話に聞いたところによると、H市内の大学に通っていて、この4月から就職が決まっていて、大阪で一人暮らしを始めるとのことだ。僕からすれば、理花さんはちょうどお姉さんのような…いや、先輩のような感じといえる。まだまだ就職なんて先の話だ、とタカをくくりつつ漠然とした不安も感じていた自分からしたら、それを先に乗り越えた理花さんは、大きく、たくましく見えていた。
理花さんは、強く冷たい海風に髪をばさばさと揺られながら、手でそれをおさえていた。島を見つめる目つきはすこし険しげで、そこは理花さんにとっては故郷のはずなのに、あたかも知らない何かへと向かっていくような、また行くのもためらわれるような場所へ行くかのような、そんな硬さを感じさせた。
「あいにくの天気、っていうんだよねー、こういうの」
理花さんは語尾をすこしおどけた調子で伸ばして言った。
「そうですね。天気予報ではあんまり雨は降らない、みたいなこと言っていたんですけど。このあたりの海って、雨降ってて風もけっこう強い今日みたいな日でもあんまり時化ることはないもんなんですね」
「そうだね。このあたりって湾に囲まれてるから。あんまり時化ることはないって、よくうちのおばあちゃんが言いよったよ」
考えてみれば、雨模様のこの街を見るのは今日が初めてかもしれない。なにかの皮肉か、ひょっとしたら単に運が良かっただけなのだろうか。答えが出るでもない退屈な問いが、胸の中を堂々巡りする。
前にこのフェリーに乗ってN島へ行ったとき、天気は明るい陽光が充満していて、無邪気な笑い声と、愉快な期待でいっぱいだった。透きとおった空は、僕と彼女の笑い声を、叫び声を、一滴も濁らせることなく、宇宙へと伝えた。
しかし今回は、それとはこんなにも正反対なのだ。悪戯にせよ気遣いにせよ、僕はこの偶然になにか秘められた意味があるように思われてならなかった。
どんより曇った空は、まだこまかい雨をちらつかせながら、重く僕たちの上にのしかかっていた。
この空は、いつ晴れるのだろう。
懐かしい港が眼前に近づくにつれて、フェリーのボンボンという音が聞こえてくるようになって、ゆっくりと、ゆっくりと、記憶の端邊へとその足を踏み入れる。がくん、とフェリーが揺れたかと思うと、船内の放送でN島のフェリー乗り場に到着したことが告げられた。理花さんは「着いたね。降りよう」と僕に軽く声をかけて、階段を降りて出口へと向かっていく。そのしぐさはひどくせっかちなものに見えた。
僕の記憶の中のあの場所。
そこは春の風が甘く、豊富多彩な花が咲き誇る場所だった。
「なんだか、虹を見ているみたいだね」
彼女はかるい足取りで花畑の中をぴょんぴょんと飛びながら、前へと進んでいく。
「おい、待てってば!もうちょっとゆっくり歩こうぜ」
彼女はそんな僕の言葉を聞いてか聞いていないか、自分勝手に百花繚乱の中を進む。金色、白色、赤色、桃色、青色…描写する言葉さえ足りなくなるような絵の中を、自由奔放に、まるでこの世界には自分しかいないかのように踊る。
僕は声を枯らして叫んだ。彼女は笑い、ときどき花のすぐそばにしゃがんでみて、その花びらに指先を触れてみたり、まじまじと見つめてみたりしていた。
僕もすこししゃがんで、花にそっと指を触れる。芳醇な香りと、ふわふわした手ごたえが身体のすみずみへ流れていく。温柔な空気がそこには充満していた。
立ち上がってふと向こうを見やると、彼女はさらに遠くに行ってしまっていた。仕方ないなぁと思って、僕は彼女のその向こうにまっすぐ横たわる海の水平線に向かって、走る。
彼女に追いつくと、彼女は緑草の芝生に座っていて、すー、すー、と深呼吸をしているところだった。
「気持ちいいなあ…」
彼女は目を閉じて、頭をその重力にまかせるままに芝生へと投げ出し、仰向けに寝転がった。
「私、今虹の真ん中にいる」
「なんだよそれ。メリーさんかよ」
「だってほら、見て、空の向こう側。虹かかってるの見えない?」
「あ、ほんとだ、よく見たら虹かかってるな」
「綺麗!」
彼女が興奮したような――うっとりしたような声をあげた。彼女のほほから開朗としたほほえみがこぼれ、すう、すう、と静かな息をたてた。僕も身体の力を抜いて、ばさりと芝生に身体をあずける。
ちくちくした、しかしやさしい感覚が肌に走る。水彩絵の具で塗ったような青い空が視界いっぱいに広がり、そこに淡い七色の光がかかっているのが見えた。
そうだ、僕たちは虹の中にいるのだ。
周りはどんな色でもあって、見るものすべてが鮮烈で、快楽も傷心も、なにもかもがドラマみたいに大げさだった。僕は寝転んだまま、そっと自分の胸をなでる。虹色に輝いた光の感触が、希望にも似た愉悦を僕に与えた。
僕はそこでしばらく虹を見ていた。距離が必要ないほど、わがままだった。
だが、いつからのことだろう。
雨が降り始めた。
はじめ、雨が好きな僕はささやかな歓喜をもってこの雨を迎えた。
しかし、雨はやむことなく、ますます降り続いた。一日が経ち、二日が経ち、一週間が経ち、一か月が経ち…気づいたら、僕の記憶の中はずっと雨で、あの明るい毎日と、プリズムみたいな虹を再び望むすべすら失くしてしまった。
雨を恨むことはなかった。天気は天気だ、僕にとってどうこうなるものではないし、希望通りになるものでもない。空気に立ち込める雨のカーテンは、僕と外界のすべてを遮断していたが、いつの間にか僕はその状態に慣れきってしまって、晴れた日を待ち望む気持ちさえ、ぼんやりした朝の雨の中に置き去りにしてしまったのである。
「…清樹くん」
「…はい」
理花さんは僕の顔をけげんそうに眺めて、「…そっか」と小さい声で漏らした。
時刻はもう12時前になっていた。
フェリーでこの島についてから、ぶらぶらと海岸や、やくざなお土産屋さんなどをめぐっているうちに、こんな時間になってしまったのだ。僕は朝ごはんはパンしか食べていないので歩き回るうちにおなかがすいてしまい、それを察した理花さんが、私が昔よく行ってた洋食屋さんがあるから、と連れて行ってくれたのが、ここである。
僕の目の前には、海鮮をふんだんに使ったスパゲッティ・ペスカトーレが置かれていた。おそらくこのあたりの海でとれたものなのだろう、エビや貝、イカなどがごろごろと入っており、それをトマトソースにからめたものだ。
理花さんのスパゲッティは僕よりも早く届いていて、すこし前に食べ始めていた。あまり食欲が無いのか、小さめのきのこクリームスパゲッティを少しずつつまんでいる。
「…あの」
僕は理花さんを見て――しかしすぐにすこし下に視線をずらして、聞いた。
「うん?どうしたの?」
「…実はここ、前にも来たことあるんです」
「あら」
理花さんはフォークに巻き付けた少量のパスタを口元に運びながら、目を見開いて僕を見た。
「そうやったんね。…そっか。ここ、この島ではけっこう有名だから、あたしも家族とかとよく来てたんよ。…あんまりこのお店、好かん?」
「そんなことありませんよ。ただ、懐かしいなぁ、って」
時間が経てば、辛い思い出はすべて消えて、明るい、輝いた記憶だけが残る。これは誰かが言っていた言葉だけれど、僕はある一方では正しく、またある一方では正しくないものだと思う。ただ、「懐かしい」という言葉を言ってしまえば、内容がどうなっていようとそれらはすべて集約されるから、結局は記憶は記憶で変わらないものなのかもしれない。
理花さんは、黙ってパスタをつまみながら、「あ、いいよいいよ。私のこと気にしないでゆっくり食べて」と言ってくれた。
「いただきます」
寒さでかじかむ手で銀のフォークを手に取り、スパゲッティを口に入れる。よくこなれたトマトがパスタになじんで悪くない食感だった。しかし、おそらくテーブルにも置いてあるトスカーナ製のオリーブオイルを使いすぎているのだろう、個性の強すぎる苦みと辛みがしんどくて、なかなか食事が進まなかった。
理花さんはそんな僕のようすをちらちらとうかがいながら、ゆっくりと食べている。気を使ってくれているのだろう。しぐさの一つ一つが大人っぽくて、ガラスでできた窓辺の席に座っている姿がいかにも社会人女性らしく似つかわしかった。
結局、オリーブオイルのききすぎたスパゲッティ・ペスカトーレは食べきることができなくて、すこし残してしまった。ひょっとして以前食べたときと味が変わったのだろうか。僕の口の中には、トマトと海鮮の消化のよさそうな風味と、オリーブオイル特有のかすかな苦味と辛味が、しばらくの間残って消えなかった。
朝から降り続いた雨は止んだようだ。外は飴のようなにおいと潮のにおいとが混じって、いつになく甘ったるいにおいを醸していた。
「はー、食べた食べた。今のお店、おいしかったけどちょっとオリーブオイル強すぎたよねー」
理花さんはたたっと軽い足取りで店の前の石でできた階段を降りながら僕に言った。
「そうですね。もうちょっとさっぱりしてたらよかったんですけど」
「うーん、私はここのスパゲッティけっこう好きだったんだけどなー。私の味覚が変わっちゃったのかなあ」
僕も理花さんと同じことを考えていた。以前僕が食べたときはおいしく食べられたし、その風味も、もっと言えばスパゲッティに何が入っているのかもほとんど気にしていなかった。あるいは、あのときの僕がただ鈍感なだけだったのか、さっき食べたスパゲッティに関して言えば、味の合間に見えつ隠れつする微妙な風味ばかりが気になって仕方がなかった。そういえば、さっきのお店にはほとんどお客さんが入っていなかった。
「わかんないですね、こればっかりは」
「清樹くん、東京の大学でおいしいものいっぱい食べてるから、舌が肥えたんよ、多分」
「そんなことないですよ」
理花さんはそんな冗談なのか本音なのかわからないことを言い、ゆっくりと道路へと歩き出す。僕はまだべっとりとした感覚がのどの奥に残っていて、はっきり言って気持ち悪かった。
「ね」
理花さんは道路の端まで行って立ち止まり、僕の方をまっすぐ見つめていった。
「どうする?これから」
やわらかい風が吹き、ひゅうひゅうという寂しげな音が濡れそぼった道の上に響く。理花さんは続けた。
「歩いて行く?それとも、バス乗って行く?…バスっていっても、あそこはバス亭から、近くはないんだけどね」
空は灰色からすこしずつ白みを帯びてきて、わずかではあるが日差しを感じられるくらいになってきた。もうおそらく当分の間、雨は降らないだろう。雨はもうすっかり降りつくして、空が明るさを取り戻してきた。しかし、それは乾いた明るさだった。蛍光灯のような、感情のない明るさだった。光が差しても、僕の周りにある景物は、灰色の延長線上にあるものばかりだった。
「歩いていきましょう。…前も、歩いて行ったので」
愛想笑いを浮かべるでもなくじっと立ち尽くしていた理花さんはこくん、と小さくうなずいて、僕に背中を見せて歩き始めた。
「理花さん、それでも大丈夫ですか?バスに乗って行った方がいいですか?」
僕はあわてて理花さんに話しかけるが、理花さんは「ううん、歩いていこう。たぶん…その方が、いいと思う」と笑顔を見せて言った。空の色のせいか、その顔はどことなく白んで見えた。そして理花さんは再び前を向いて――僕から顔をそらして、歩き出す。その背中はいつの間にか小さく見えて、一瞬誰なのか分からなくなるくらいだった。
目的の場所は、N島の展望台の近くにある、と理花さんは言った。
そしてまずは展望台へ行こう、という流れになったのだが、この島の山頂にある展望台まで歩いていくのは実はわりに骨の折れる行程だった(だから、理花さんにそれで大丈夫か、と確認したのだが)。理花さんは地元の人間なので道に迷うことはないだろうが、体力的にどうなのだろうかという懸念はある。
雨で濡れた坂道を、僕と理花さんはゆっくりと歩く。坂は比較的ゆるやかではあるが、延々と続く。理花さんはときどき疲れたようにふう、と息をついて立ち止まりながら、坂道を登る。
僕と理花さんは無言だった。黙々と、確かめるように、山路を登っていく。そういえば、前回――というのは僕が高校生のときだ――登ったときは、ほとんど整備されていない荒っぽい山道を歩いた気もするが、今日は綺麗に道が整備されていて歩きやすくはある。
「私、展望台まで歩いて登るのなんて何年ぶりだろ」
理花さんが一人ごちた。
「登ったことはあるんですか?」
「うん。たしか中学くらいのときに友達と一緒に登ったんだよね。夏休み中のことだったから、すっごく暑かった」
この島の山道にはときどき民家が見えるが、外に出てきている人は一人もおらず、まるで無人島であるかのような錯覚を受ける。周りはひたすらに静寂なのだ。僕と理花さんのゆっくりした足音は、そのまま山道の木々と、その向こうに広がる水平線の向こうへと吸い込まれる。理花さんが登ったのが夏休みなら、この山道は虫の鳴き声や、子どもたちの歓声であふれていたことだろう。
目の前には、なだらかな坂道が続いていて、その先は山道に立ちこめていた雨霧のせいでひどくぼんやりとしていた。天を仰いで息をついても、何重もの雲にさえぎられた灰色の空があるばかりで、いっこうに色彩をもったものを見ることができない。理花さんは僕の方を顧みるでもなく、ただ一人で重い足取りをつづけていた。
僕は何を話したらいいか分からなくなった。理花さんを笑わせたり、またちょっと興味を惹くような話をしたりすることもできたのだろうが、ただそれは理花さんの沈鬱を増長することにはならないだろうかと、そして僕と理花さんが歩んでいるこの足取り、その意味にふさわしいものなのだろうかと、僕もまた沈鬱とした心をかかえながら、考えていた。
考えがまとまらなかった。
脚にじんわりとした痛みが溜まり、歩きも少しずつ遅くなってくる。それは理花さんも同じだった。2月だというのに僕の首筋にはほろりと汗がにじみ、理花さんも腰に手を当ててしんどそうに歩いていた。
休憩しようよ、とどちらかが言い始めた。ずっと下ばかり向いておそらくお互い異なる種類のことがらを悶々と考えていた僕と理花さんはそのときやっと意志が一致して、しばらく歩いたところに木で出来た屋根つきの休憩所があったので、そこで小休息をとることにした。
「ありがとうございます」
ひんやりした休憩所の椅子に座り、理花さんが近くの自動販売機で買ってきたブラックコーヒーの缶を受け取った。
「清樹くんはコーヒーよく飲むんだ?」
「はい。大学入ってから飲むんですけど、けっこう飲みますね。」
「大人だねー。私、ブラック苦手でさ。いつもカフェオレにしないと飲めないんよ」
理花さんはそう微笑んでカフェオレを口に含む。
僕の胸がとくん、と一瞬高鳴った。
僕はあわててブラックコーヒーの缶を開けて飲んだ。好きだとは言ったものの、実はそんなに頻繁に飲むわけでもなく、もっぱらコーラやジュースなど清涼飲料のたぐいの方が好きだった。
冷たさのある、かたい苦みがのどを通って、余韻を残しながら身体の奥へとしみわたる。よく見れば、僕が東京で飲んだことのあるブランドのものとは違うもので(ここの地元では飲むブランドが若干違うらしい)、苦みがいつもよりも濃く深い気がした。
ふう、と僕と理花さんは息をついて、身体をのばした。
周りは枯れた白っぽい木がいっぱいで、そばにある狭い道路は人も車も通る気配がなかった。ここは理花さんも来たことのない場所なのだろう、足を伸ばしながら、周りをきょろきょろ見渡してときおりきょとんとした顔をしていた。
「ごめんなさい」
僕の低い声が、妙にクリアに響く。
木でできた休憩所はつめたく、また風も吹き込んできて寒かった。
しかし、白みを帯びていた空気は少しずつ色を帯びてきて、道路の黒っぽい色や、木々の緑色、空の水色などが目につくようになってきた。
「清樹くん、いいよ。大丈夫だから、清樹くんは悪くないよ、自分を責めたり、しないで」
「ごめんなさい」
握りしめたコーヒーの缶。それはあまりにもかたく、僕の力ではとてもつぶせなかった。それなのに、力をいれる。そしてまた、力をいれる。そうしたら、息が切れてしまって、しぼり出したような深いため息が出た。
「大丈夫だよ」
理花さんが、もう一度、言った。
僕はもう一度コーヒーをぐっと飲む。きれいな苦みが再度僕ののどを駆け抜ける。そのとき、僕が東京で飲むあのコーヒーよりも・・・また大学でよく買って飲む清涼飲料水のたぐいよりも、何よりも今飲んだコーヒーの味が勝っているように思えた。
理花さんの声に、音のない悲しみと嗚咽が混じっていたこと、それをはっきりと感じられるくらいに、僕は敏感になりすぎていたのだ。
休憩所をあとにして、僕と理花さんは山道を登る。
「あと少しだよ」
理花さんはそう言って、歩みを速め、僕の前を歩くかっこうになった。そのとき、むろん僕は疲れていたが、すっとその疲れは僕の身体から抜けて――まるで空を歩いているような心地がした。
それにしても、身体がだいぶ温まっていた。そのとき僕はコートを着ていたが、すっかり暑くなって脱ぎたいとさえ覚え始めていた。腕時計を見ると、港の方から歩き始めて、もう一時間半近く経っていた。
もう夕暮れに近づいている。今日中にはフェリーに乗って戻らなければならない。時間はもっぱら大丈夫ではあろうが、あまり暗くなってもお互いによくない。
静寂の山道に、無機質な足音だけが響き渡る。
「着いたよ」
理花さんはそう言って、僕の方を振り返った。その顔は、上気していて、きらきら光って、赤っぽく見えた。
そこは、海がよく見える小高い丘だった。
大海原が広がり、対岸には、都市の夕景が見える。浜辺に立つタワー、球体状のかたちをしたドーム、ビル群・・・
「ここ」
理花さんはさくさくと草のわずかに生えた地面を歩いていき、ある一点を指さす。そこには、こぢんまりとした小さな横長の石が置かれていた。
「ここ、だよ」
横長の石の手前には、花束がいくつも置かれていて、「ありがとう」とか「いつまでも忘れません」といった色紙の端が、さらさらと海風になびいていた。
「うちの妹、海が好きだったから。ここ、海がよく見える場所で、だからここに作ってもらったの」
僕はふらふらと石へと近寄る。そしてすこしひざを曲げて、まっすぐ、その石へと向き合った。
すっかり僕の視界は色を取り戻していた。彼女の名前が白く刻まれた石が、ぼんやりと、誰でもない僕の姿を映し出す。僕はそれが誰か分からなかった。これは僕だ、僕なのだ、しかし、石の向こうの人は、見ることのできない瞳で誰かわからない影を映し出すばかりだった。
僕は石に触れたが、びりっとした痛みが指先に走ったように思った。雨と冬の風にさらされたその石は、氷のように冷たかったのだ。それなのに、僕が石に触れたときに感じた痛みは、火傷の痛みに他ならなかった。
「名前、呼んであげて」
理花さんが僕のすぐ隣でささやいた。
「大丈夫だよ。やっと清樹くんが来てくれて、彩も喜んでるよ」
僕は僕を映さない石に向かって呼びかける。
があ、があ、というカモメの鳴き声が海面上に響き渡り、遠くでぼおおお、というフェリーの汽笛が煙のように流れる。そろそろ夕暮れに近づいて、くたびれたような光の色が、徐徐に赤い、ルビーのような色に変わりつつあった。
「本当に、事故、だったんですか?」
僕はまっすぐ目の前にある石だけをじっと見つめながら、理花さんにきいた。
理花さんは何もこたえず黙ったまま、海の対岸にある市街の夕景を眺めていた。
「事故、だよ」
こわれた機械から出たような声だった。
「清樹くんも聞いてると思うけど・・・交通事故で。保険入ってたから、いろいろ調査はされたんだけど、自殺じゃないんだって。だから、交通事故で、彩は」
そこまで言って理花さんはちょっと言葉に詰まって、「だから、仕方ないんだよ。彩も、もっと生きてたかったんだよ、清樹くん」と付け足した。
「でも、それは彩と別れた数ヶ月後のことだった」
僕は胸が詰まる感覚に耐えきれず、ずっと不安に思っていたことを口に出した。
「僕も、いろいろ考えてたんです。彩は僕と別れたくはないみたいだったし、僕も別れたくはなかったです。付き合いはじめたのは市内の高校で一緒になったときで、彩はこの島の出身だったからこの島に来て遊びました。そんな関係がかれこれ二年くらい続いたんです。でも、僕が東京の大学に行くようになって、でも彩はこっちに残るって言って、だから気づいたら疎遠になって・・・信頼できなくなって・・・」
一息にしゃべった。何度も何度も悩んで考えてきたことなのに、うまくしゃべれなかった。まるで目の前の石に映し出された自分のように、ぐちゃぐちゃで曖昧で、どこを見たらいいのかも分からなかった。理花さんは、そんな僕の話を聞いていて、うなずくでも非難するでもなく、胸の底の底まで見通すように、じっと僕を見つめていた。
「確かにね」
理花さんは押し黙っていたが、口をゆっくりとひらいた。
「ほんとはね、彩、寂しいって、言ってた」
その一文字一文字が、僕の胸に刺さった。今まで僕が考えていたことすべてが逆流して、身体の中心が崩れて卒倒してしまいそうになった。
「それで、いきなり交通事故っていう電話が来て・・・清樹くんと別れたっていうことは聞いてたんだけど、それからあんまり彩がどういうこと考えてたのかとかあんまり聞けてなかったから、本当はあたしもダメなんだよね・・・でも、『いつになったら、また虹がかかるのかな』なんて、こぼしてたこともあったよ。なにポエミーなこと言ってんの?って、私笑ってたんだけどね」
理花さんはそこまで言って、また黙ってしまった。その沈黙は重かったが、しばらくして「でも、清樹くんがわざわざ東京から来てくれて、彩は嬉しいと思うよ。だから、今だけでも一緒にいてあげて」と理花さんが先に声を出した。
朝から降り続いた雨は今完全に止んで、空にはふたたび光があふれた。濃く重く立ちこめていた雨雲は清風に吹き散らされて、太陽はそのうすい瞳をゆっくりと開けつつあった。
僕は、もう一度、虹が見たくてここに来たのだ。雨が止んだ今、あのとき僕が見ていた虹が再び眼前にあらわれるのではないかと期待して、僕はここに来たのだ。
今なら、いや、今だからこそ、虹が見られるかもしれない。
「理花さん」
理花さんは黙ってこちらを見た。その目はすこし潤んでいて、星のようなきらめきをたたえていた。
「すみません・・・ちょこっとの間、僕、一人になりたいです」
理花さんは「・・・うん、わかった」と震える声で答えた。そしてさっと後ろを振り向くと同時に、「じゃあ、私すぐ出たところで待ってるから」とせわしげに言って、たたっと小走りで向こうの方へ走って行った。
理花さんを見送って、僕は一人で海と、対岸の夕景を見ていた。
すこしずつ対岸のビル群のネオンがぼんやりと薄暗闇に浮かぶようになってきて、肌寒さが強くしみるようになってきた。
だが、あの七色の光の輪が、空の上にかかることは、望めそうになかった。
それから僕は待った。夕陽の光は徐徐に濃くなったが、結局虹は見られなかったのである。
僕はがっかりして、下を向いた。結局、彼女が何を思っていたのか、彼女が見たかったものは何だったのか、ほとんど何も確かめることもできず、このまま帰ることになってしまうのだ・・・朝からずっと続いていた静かな憂鬱は、底力のある疲労と、何もできなかったという無力感とに収束しようとしていた。
僕は、今日の行程を思い起こす。雨の中を、彼女の姉である理花さんにわざわざ案内してもらって、山を登って、何かをつかみたくてここまで来た。しかし、天気は何も与えてはくれず、ただこの陳腐な夕暮れだけを僕に見せて、今日の一日を終わらせようとしているのだ・・・
軽くため息をついた。
そのとき、あれ?という違和感が、突如として脳裏に光った。
ひょっとしたら。
僕はもう一度顔を上げ、海面を見る。
風に吹かれてちぎれちぎれになった雲、それは曲がり、連なり不規則な模様を現出する。そして血のような夕陽を受けて、赤、オレンジ、水色、紫、金、エメラルドなど、無限の色彩を空に描き出していた。そして、その色彩は、そのまま空の下でごうごうとうごめく海へと映り、水面と水面のはざまで、呼吸しながらその表情を変えていた。
虹だ、ととっさに思った。
この空の下にある海、そこに映し出された光は、天上の虹なのだ。
僕はその虹にそっと触れた。
かつて僕たちが見ていた虹は、おしなべて原色で、なんの疑いもなく、ただ綺麗だった。
それなのに、今僕が見ている天上の虹は、いい知れないしこりがあった。いつから、虹はこんなにも主張したげな手ごたえをもつようになったのだろう。いつから、こんなにもにくにくしいしなやかさをそなえるようになったのだろう。
視線がおぼろげに夕景の中をさまよう。僕はこの手ごたえが怖かった。だから、逃避をしたかった。この手ごたえは、いずれ僕を傷つけるものだと知っているからだ。しかし、おそらく僕はこの手ごたえを忘れることはないのだろう。・・・僕は途方に暮れて、かたわらにあった石にそっと触れる。
虹は、波にもみ砕かれながら、ゆっくりと影のすみへとのみこまれていった。つまらない時間の足音が、ふたたび僕の気持ちを追い立てた。
そうだ、僕はここを、去らなければならないのだ。
「彩も、清樹くんが来てくれて喜んでるよ、絶対」
帰り道。僕と理花さんはバスに乗って山を下った。行きには二時間弱くらいかかったのだが、バスに乗ったら20分程度で済んだから、そのほうが便利といえば便利ではあった。けれど、バスで行っていたらおそらく虹を見ることはできなかっただろう。
理花さんは僕を港まで送る、と言ってくれたので、そうしてもらうことにした。港のすこし前の駅で降りて、港までちょっと歩こう、ということになり、僕と理花さんは海沿いの道を港まで歩くことになった。
「理花さんは、もう卒論とかは書いたんですよね。卒業旅行なんかはされるんですか?」
「うん、するよ。友達とスペインに2週間くらい行ってこようと思ってるの」
卒業旅行。スペイン。かわいた、あかるい言葉が出てきて、理花さんはすこしほぐれた表情になった。僕も、その素敵な響きにうきうきした気持ちがわき上がってくる。
「私、ヨーロッパ行くの初めてだから、緊張するなー」
「いいですね、スペインなんて。世界遺産いっぱいあるとこじゃないですか」
「そうなんだー!私は、町並みとか食べ物とか、自然とかも興味あるんよねー」
そう子どもっぽく言い残した理花さんは浜辺の方へと走っていって、貝がらを探しはじめた。僕から離れて、理花さんの影がぼんやりと不自然に伸びる。
それきり、僕と理花さんは浜辺を歩きながらたわいない話をした。僕も笑ったし、理花さんも笑った。空の雨雲はもうほとんど晴れて、きれいな夕陽が海面に白い宝石をちりばめていた。今夜は、きっと素敵な星空が見えるだろう。フェリーに乗って市街に戻ったら、夜の屋台でも巡ってみるのもおもしろいかもしれない。
・・・しかし、僕はもう二度と原色の、鮮やかな虹を見ることはないだろう。そのかわりに、あの不器用なしこりの感覚が、永遠に指先に残り続けて、誰かのりんかくに触れることを許さなくしてしまうのだ。・・・
港に着いて、僕と理花さんは帰りのフェリーを待った。ほどなくしてフェリーは到着し、いよいよ僕はN島を離れる。
「また、彩に会いに行ってあげてね」
理花さんは僕と握手を交わし、僕の目を見て言った。
「もちろんです。今日は案内してくれて、本当に、ありがとうございました」
「ううん、私こそありがとう。彩も嬉しいと思う」
理花さんはにっこり笑った。光のせいか、その顔はどことなく疲れて見えた。
「じゃあ、ね」
僕が並んでいた列はゆっくりと動きだし、先頭から一人また一人とフェリーの中へと入っていく。理花さんは僕の方をずっと見ていた。その顔は笑顔で、僕がフェリーに入るまで絶えることはなかった。
僕は甲板に出て、港を見た。ひっそりとした島に、小さなかざりのような明かりがぽつりぽつりと浮かんでいる。
がたん、という音とともにフェリーが動き出し、ゆっくりと、ゆっくりと、港を離れる。別離の汽笛が鳴り、N島は僕の視界から遠ざかっていく。港で、手を振っている理花さんが見えた。僕はそれに手を振り返して、理花さんが見えなくなるまでそうしていた。
すべての色は沈黙した。それが、別離だった。
風が針のように僕の肌と胸に刺さる。日はすっかり沈み、夜のとばりが海の上に降りる。――身体中がこの色に染まっていく!虹を見たときに最も残った色、それが僕の身体という身体、精神という精神を染めてしまうことが、そのときの僕にとってはせめてもの慰めで、安堵だった。もしも僕がこの色そのものになることができたら、それはなんてわかりやすくて、簡単な話なのだろう?・・・
考えながら、僕はそっと袖を翻して、N島の空に別れを告げた。
ひとひらの虹・・・この夕闇の色だけを、たずさえて。