第11話『世界終焉との向き合い方は』
――ゆっくりと、私の身体が浮かび上がっていく。
――薄明るく、どこまでも透明な液体の中、私の意識は段々と覚醒していく。
――意識は明瞭だ。自我は確実だ。記憶は鮮明だ。
――懐かしく、愛しい響きの声が私を呼ぶ。ああ、そうだ。私の本当の名前は――
▽
気が付いたとき、私の耳朶を打ったのは、リータの口から発されるとはとても信じられない、とてもじゃないが乙女の吐くべきではないような罵詈雑言であった。目が覚めるなりホットスタートである。今朝のみならず、失神からの復帰においても目覚めに優しくない。
「このまま! あの子が目覚めなかったら! どうするの! 魔女人形の長姉が聞いて呆れるわね! あなたのどこが姉妹で一番優れた魔女なのよ! 何か言いなさい!」
「まさか意識を失う程だとは思わなかったんです……」
私はクォーツ姉さまが普段使っていると思しきベッドの上に寝かされていた。まだ目覚めた私の事に気づいていないのか、リータがひたすら姉さまを罵っている。姉さまも殆ど泣きそうな顔で、部屋の隅っこに追いやられ、東洋で拷問の際に使われるという特殊な座り方で座らされていた……うわ、あれ膝も足首も痛そう……。
「やぁ二人とも。楽しそうだね」
ベッドから出た私は姉さまを助けるべく声をかけると、半泣きのリータが胸に飛び込んできた。霊体である彼女は通り抜けてしまうが、そんなこと気にもならないようで、私の背中に抜けてふわりと中空に浮かびあがり、ぐるぐると私の周りを旋回する。嬉しいらしい。
「もう、心配したんだから。もう目覚めないかと思ったのよ」
「子犬みたいにはしゃいだ後でその取り繕い方は流石だねリータ」
ようやく落ち着いて私の前に戻ってきたときに、何事もなかったようにお姉さんぶるリータは、出会った頃から変わらない。考えてみれば、リータと出会ったのは最近のことだ。彼がお別れの準備をし始めたころに、ふいに現れたおかしな幽霊。その時は、自分は世界を旅してまわっている幽霊だと答え、いろんなお話をしてくれたが――どれも荒唐無稽なものばかりだったので、『ほら吹きリータ』と面白がって言ったのだった。……そうか、『ほら吹き』とつけたのは他ならぬ私だったか。なるほど。いや、今はいいんだ。大事なのは。
「……さぁ姉さま。私が記憶を取り戻したからにはわかっているね」
――私の記憶と、姉さまの企みと、世界がどうのの関係についてである。
「――神秘の消失により、既存の世界は終焉を迎える。新たなヒトの時代が訪れ――そこに、魔女も亜人も居場所はありません。私もあなたも、そこの幽霊さんも――退場するまでです」
姉さまは観念したように、滔々と語りだす。滲むのは悔しさと悲しさ――それから恐れだろうか。姉さまは――トパーズ姉さまもそうだったが――『世界の終焉』をかなり強く受け止めている。私のような楽観視はしていないようだが――。
「でも、神秘は限りなく薄くはなれど、消え失せることはなく、二度と戻らぬわけではない」
「――ええ、そう。そうです。ヒトがヒトである限り、神秘の絶滅はあり得ません」
だから、と姉さまは声を張り上げる。
「――だから、我々の中で、あなただけを、いつしか神秘の戻った未来まで遺そうと決めたのです。我々の中で、ヒトを、人間を愛することが出来たのは、あなただけですから」
姉さまは微かに泣いていた。私もリータも口が挟めず、続くのを待つ。
「あなたが他人を愛することが出来る限り、遥かな未来においてもきっと誰か、共に歩む人を見つけられるはず。そう考えたのです。我々は、結局――人間を愛することはできませんでした。何れ先にいなくなってしまう存在に、心を許すことなど――」
人を愛することができない。それができるのは私が特別だから――ふむ、姉さまは何か、男女のごたごたというのを勘違いしている。そんな高尚なものではない。確かに私と彼との間には愛があったが、別に特別なものじゃあない。いきなり上位存在から与えられたアイテムでもなんでもないのだ。愛とは育まれるものなれば。
「姉さまも、恋の一つでもしてみればよかったんだ。恋は理屈ではない。愛の前にもどかしい現実は無力となる。例え刹那にして別れが訪れ、無限の悲しみに襲われるとしても――ひと時、暖かな時間を得られるのならば――何のことはない」
「泣き喚いたひとの言葉とも思えませんが」
「泣くのも喚くのも、喪に服する上で必要なプロセスだ。そこまでするのがお別れだよ」
姉さまは言葉に詰まったようだった。遥かな未来に私を残す。そこに至った考えが前提からして、当の私に否定されてしまっては無理もない。……だが、姉さまは咳払いして続ける。その意思の強さは尊敬したい。姉さまの方が余程未来に相応しいのでは?
「あなたを眠らせ、いつしか目覚めた時に神秘が蘇っていることを期待し、しかしその未来であなたがあなたとして生きるには、それまでの記憶が邪魔になりました」
「私がそういうのを望まないからかな」
「ええ、そうです。何ですか。『次善はみんなでご破算になることだ』という思想は。そんな風に育てた覚えはありません。あなたがそんな考えである限り、記憶を残すことは出来なかったのです。――そうしなければ、あなたは結局、我々に会いにいこうとしてしまう」
「それなりに姉妹愛は強いからね。まぁ、記憶がなくても結局この通りなんだけど」
勿論、私がこうしているのは今朝リータが導いてくれたからなのだが。もしもリータがやってこなかったら、私はあの小屋でどうやって過ごしていただろうか? 記憶もなく、寂しい思いをしながら、やがて自壊するのを待つことになっていたかもしれない。
「ただ、ひとをタイムカプセルにする割には……正直想定が甘くないか姉さま……」
「先送りにすれば何かどうにかなるんじゃなかと考えるのはヒトも人形も一緒ね」
魔女人形は永くを生きてきた。だからといって万能ではないし必ずしも賢者ではない。神秘が限りなく薄くなり、世界の終焉とほぼ同義となることがわかったからには冷静ではいられない。さらにそこに妹に不幸が訪れれば、もうまともな思考などできなかったろう。
ただ、姉さまが混乱したのはわかるにしても、ある程度事情を知っていたらしいトパーズ姉さまには突っ込みを入れてほしかった。母性を感じる懐の広いトパーズ姉さまだが、本質は『おっとり母さん』のようなひとだから、だろうか……。
「何と言われようと、あなたには生きていてほしかったのです、私は……」
姉さまは先ほどから半泣きだ。そろそろいじめるのはよしてやったほうがいいだろう。姉さまの優しさと善意は伝わったことであるのだし。何にしても、姉さまは私を大切に考えていた。――なら、もういいだろう。私はこうして帰ってきたのだし。
「勿論私は生きるさ。姉さま達も生き延びるべく行動してみるべきだ」
「ええ、そうね。この地が魔女にとっても人形にとっても適さない土地になるなら、合う土地を求めていきましょう。それが生きるものの自然というものではなくて?」
我々の居場所は、何もこの雪と氷が世界を染め上げていくような北国だけではないはずだ。この雪と氷が、ついには神秘すらも凍てつかせていくというのならば、もう少し暖かなところに移動するべきだろう。南下するべきだ。我々が南に下ったからとて、特に混乱も何もないだろうし、魔女人形であるならば新天地での生活も何とか確保できるはずだ。神秘さえまともに残るならば、大体の問題は解決できる。
「そのような甘いものではないのかもしれませんよ。都会の人間たちのもたらす法は、やがて全世界に広がり、新たな標準になるでしょう。どこにも、我々が落ちるような場所は――」
姉さまは少々悲観的だ。都会の人間たちが持ち込む新たな標準。それが神秘を凍てつかせていく――しかし、人は神秘の根絶を望まない。口先ではどれだけ神秘を駆逐したように振る舞っても、彼らは、理解できないことに、未知なるものに神秘を求め――心の救いにこそ神秘を欲するだろう。ただ、彼らの法が広まり、世界に満ちていくその過程であれば――限りなく、神秘は薄くなる。どこにも逃げ場がなくなったとき、打つ手がなくなる。それは理解できないでもない。ないが――。
「石切族や森人族、その他大勢の亜人に怪異達。彼らの導いた答えはなんだか知っているかしら」
「あなた方と同じように南下してやり過ごそうとするもの、神秘の消失を受け入れるもの――様々あるでしょう。特に、亜人達ならば、神秘の消失後に人間となるだけという可能性もあります。ヒトとの差異が少なければ、そう修正され、そういう『人種』となるかもしれません。――ですが、それが」
リータは指を立てて、したり顔で答える。ほら吹きリータの面目躍如だ。
「――彼らは、もう一つ方法を立てた。それこそが『世界渡り』の秘術。ここではないどこかに飛び込んでいくというものよ。神秘が未だ残る今このタイミングでなければできない芸当――少しばかり博打が強いものだけれどね」
「な――そんな、乱暴な……」
姉さまは絶句する。私もリータが何を言っているのかいまいちわからないが、こういうのは勢いだ。この際本当にほらでもなんでも構わない。姉さまに、自分たちもこの先生きていようと思ってもらわねば。長く永く生きてきた魔女人形だからといって、さぁ潮時だとあっけなく退場するのが愉快な話なわけもない。だからこそ、姉さまは私だけでも未来に残そうとしたのだろう――。ただ、私は代表になんかなるつもりはない。皆で生きようじゃないか。
「でも、やる価値はあるわ。めそめそと、未練たらしく滅びを受け入れるよりも、ここではないどこかを旅するようなつもりで抗うほうが、らしいというものではなくて?」
「まぁでもリータ。そもそも、私たちはこの雪と氷ばかりのこの土地しか知らないんだ。この世界だって満足に見物できてないのに、放り棄てるような真似は勿体ないよ」
「それはそうだけど、『世界渡り』は追い詰められてからでは遅いかもしれないわ」
『世界渡り』がどれだけ馬鹿馬鹿しいほどの大魔術なのかわからないが、リータの口ぶりではとても大変なことなのだろう。そもそもが別世界に飛んでいくということならば、そうもなるだろうが――だからこそ、神秘が薄くなってからでは遅いというのはわかる。
わかるけれど――。
「まぁ、ほら。そうなったらそうなったらでいいじゃないか。皆で手を繋いで滅びを受け容れることができる。ほら、次善が実行可能になるなら、悪い話でもない」
「ですから、その発想はどうにかならないのですか。サファイア」
こればかりは性分だ。少しばかり剣呑な考え方であることは認めるにしても、これは私なりの姉妹愛だと思ってほしい。私ばかり姉妹を差し置いて人間相手に恋をして愛を育んだことはそれなりに負い目に思っていたりするのだ。
「それに、どうにもならないものはどうにもならないものだよ。別にこれは悪い魔王がどうのという話ではなくて、人々の認識とか心のありようとか、そういったものの話だろう。人々が今、何となく神秘を排そうとしている。それだけの話であって、どうせすぐに彼らは神秘なしの世界はあまりにも窮屈だと思い知ることになるのだから、当面の間、ちょっと暮らしづらくなるだけだろうさ。人々が納得して神秘と決別していくというのならば、もう魔女がどうにかできる次元じゃない。手に手を繋いで退場するのが一番だ。誰かだけが世界の端にしがみついて再起を図るなんて未来図はあまりにも寂しいじゃないか」
「でも、あなた達には『世界渡り』という術があるわ。私が導き、あなた達が門を開くならば可能よ。それで姉妹みんなで仲良く過ごすことのどこがいけないの?」
いけなくはない、と思う。でもやはり、勿体ないと思ってしまうのだ。それに、自分が立つその大地すら取り換えてしまっては、それでは彼との何もかもにお別れを告げるようなものじゃあないか。いつしか壊れて死後の世界に旅立った時、彼に会えなくなってしまうかもわからない。――それよりも、何れ来る終わりに向かうために、彼へのお土産をたくさん用意するのが、善い恋人の在り方というものではないか。
ああ、そうだ。いつか、いつの日か。あの世で――姉妹全員に祝福されながら、ついぞ敵わなかった結婚式をあげよう。それがいい。
「私としては、リータ。まだ見ぬこの世界のあちこちを旅してまわってみたいんだ」
「……もう、ワガママなんだから。手遅れになっても知らない……が、脅しにならないのね」
よし、これでぐちゃぐちゃしたお話も終わりだ。何やら話がいったりもどったりして着地点が曖昧なままだったが、まとめてしまうと簡単な話だ。私たちは――世界が終わるとか終わらないとか、そういったものをまるっと投げてしまって、この北国を出てのんびり旅をする。終わるのか終わってしまわないのか、それは運命の日が訪れるまではわからないということだ。あとは、姉さまと妹ちゃんたちはどうするか、ということか。
「姉さまさえよければ一緒に行こう。姉さまは一人にすると心配だ」
「……私は、私は。そうですね。やることが、ありますから。……あなた達の能天気な、結論ともいえない結論にはあまり賛成できませんけれど、私も頃合いを見て南下しますから、ご心配なさらず。その時は、トパーズ辺りも連れだって、あなたに会いに行きますよ」
姉さまは少しだけ悩んだようだが、答えは決まりきっていたようだった。少し悩んだのは、私とリータを野放しにしていて大丈夫なのかどうかという点で軽い葛藤があったのだろう。確かに、私とリータの二人旅では、空を漂う風船のように心もとなく、糸の切れた凧のように予測不能だろう。まぁ、旅ってのはきっとそういう方が楽しい。
「ですので、誘うならルビーとエメラルドを誘ってくださいね」
「この子のブレーキ役を期待しているのなら無駄よ。あの二人ではむしろガソリンでしかないわ。ブレーキだってワイヤが切れているに決まっているもの」
「糸の切れた凧よりもひどい評価だぁ」
よもや暴走自動車だとは。……まてよ、自動車?
「……しまった、旅をするにしても、一度帰って支度するにしても、街に車を乗り捨ててきてしまったじゃないか。まいったな、あのオンボロの面倒を見るところから始めないと」
困ったな。私の車の知識は最低限だ。あそこまで機嫌を悪くしていた車をどうすればあやせるのかわからない。わからないぞ――あの街に、機能している整備場なんてあるか?
思わず私が頭を抱え、どうしたもんかと嘆こうとしたその時――けたたましく、外からクラクションが響いた。驚いて外を見てみれば、いつの間にか雪雲はいなくなり、夕日が差し込んでいて――。
――夕日に照らされた、赤いピックアップトラックが、塔の入口に止まっていた。