第10話『氷晶の魔女、サファイア』
泣きながら沈んでいく、私自身。あれは過去の私――つまり、何もかも辛い記憶を保持している私である。私があそこまで泣きじゃくってしまうのだから、あの骸骨さんとのお別れは、とても辛いものであったに違いない。とても痛々しいものであったに違いない。そもそも、自然死のありえぬ魔女人形が定命の人間に恋をした時点で、このよくある異類婚姻譚のその悲劇的な幕引きは決まりきったものだった。悪い魔女たるものが、そのわかりきった事に関してこうまで恥も外聞もなく喚き散らすというのは、どれだけ私があの骸骨さんに焦がれていたのかがわかるというものだ。永遠など何もないと、変わらぬものなど、失われぬものなど世界には一つたりとて存在しないとわかっているのに、今ある幸福だけは永遠であってほしいと願う。それはヒトであろうと人形であろうと、あるいは今神秘が消えゆく中で粛々と逃避をしているのかもしれない石切族や森人族とて同じ、この世に生きる者の性なのだろう。全ての自我ある生命は、永遠を願わずにはいられない。
「そうはいっても、限度ってものがあると思うがね。我ながら弱いもんだ」
――私は、泣いている私のところまで降りながらボヤく。泣くのはいい、悲しむのはいい。あまりの胸の痛みに、わんわんと泣き散らすのは、喪に服す上で必要なプロセスだろう。でも、だからといって――忘れようなんて考えるのは、魔女らしくないものだ。
「やぁ私。知っていたかな、泣いていたって状況が好転することはないということに」
泣いている『私』に話しかけると、その『私』はぴくりと肩を揺らした。それから、帽子をとってこちらに向き直る。人形なのでいくら泣いても瞼が腫れることはない。ただ、薄氷色の瞳から、ぽろぽろと滴を零すのみだ。
「……まさか、まさか。私が、記憶を取り戻しにきた? 嘘でしょう」
「そのまさかなんだなぁ。まぁ、リータがいなければそうはしなかったろうけどね」
「リータが? あのほら吹き……記憶を失った私を煽り立てて……」
「まぁまぁ、友達をそう悪く言うもんじゃないよ私」
「私は忘れているからそう言えるんだよ。リータが関わると碌なことにならない」
「とんだトラブルメーカーな幽霊ってわけか。まぁ、そうだろうけど」
「ええ、そう。昼も夜もなく、本当に……色々あって……」
再び『私』は泣き出してしまう。自分自身と会話するというのも、何だかひどく妙な気分だ。同じ顔に同じ声をして、それでいて何となく話し方が違う。頭痛にも似たような感覚を覚えるが、なんとか堪える。目の前で泣く『私』は、なんというか、今の私よりも少し落ち着いた素振りというか……弱々しいというか……女性的とでもいうべきか……。
安く品の無い三文小説のような言い方をあえてするならば、『人妻感』というべきか。うわ、気持ち悪い。私自身にそんな印象をもつのは非常に気分が悪い。やめよう。
「リータのことは後にしよう。泣くのはやめて起きる時だ」
「……起きて、どうなるの」
「姉さまたちの企みを問いただして、それから、のんびり旅でもするさ」
「まさか、私がそこまで暢気なことを考えられるなんて。……気持ちを切り替える時、か」
しみじみと、感じ入ったように『私』は頷く。記憶の有無だけが私たちの違いなのだから、根っこは同じだ。『私』も、いつまでも泣いているばかりではいられないと理解している。姉さまの企みがどうあれ、痛みも悲しみも飲み込んで、善い思い出を胸に前を向かなければ。
「いっそのこと、そのままの方が気楽でいいと思うけど」
「そうはいかない。あの骸骨さんに対して薄情というものだ。泣いて泣いて、泣き疲れるまで泣いてしまうぐらいに恋い焦がれた相手のことなんだ。忘れるなんてひどいじゃないか」
「……そっか。それもそうだね」
それなら、と『私』は私に向けて右手を伸ばした。途端、伸ばされた右手は乳白色の液体に溶けて消えていく。気味の悪い体験だが意味はわかる。私が段々と取り戻した記憶を吸収し始めていることの証左だろう。目の前の『私』も結局は私の精神世界の存在であり、私が、『失われた記憶の中には、悲しい記憶を抱えて泣いている私がいるんだろう』という認識故に見えているのだと思われる。記憶を取り込んでいくごとに、この水中の夢も薄れていくことだろう。……少しずつ、飲み込んでいくとしよう。
▽
彼は没落した貴族だった。家名を引き継ぐ際、横着をして税金対策を怠ったものだから、目玉の飛び出るような相続税を支払う羽目になったのだ。後悔したときにはもう遅く、彼は結局、税の支払いのために、相続したもののほとんどを手放すこととなる。それには勿論、広い屋敷から何から何までだ。さらに継いだ家業も上手くいかずにこれも人手に渡る。金になりそうなものすべてを失った彼が辿りついたのがこの北国だった。正確には、ずいぶんと前の代が建てた別荘がこの地にあり、それは資産価値の低さから彼に唯一残されたものとなっただけだった。しかしながら、そこにはとんでもない財産が残っていた。私である。
その時の私はといえば、すっかり家……あの山奥の、木々に抱かれて建っているような小屋を、すっかり自分のものにしたつもりで日々を過ごしていた。彼の先祖にあたる人にはずいぶんと良くしてもらったものだが、それにしたってもうずっと昔に死んでしまったのだから、すっかり忘れてしまっていた程だった。そんなことだったから、その末裔にあたる彼が訪ねてきたときは心底驚いたものだ。彼に行く当ては他になく、私にだって折角気に入ってきていた住処を他人に明け渡すつもりもない。奇妙なことだが、そんなことから共同生活が始まったのだ。……あとは、喧嘩を繰り返したりしながら……。
――あとは、思い返すだけでも頭が煮えそうなので、思い出さないことにする。ただ、閉鎖空間に男女が2人というのは、たとえ人間と人形であっても頭が煮えるということだ。私というやつは、ああいうふんにゃりした冴えない男に弱いらしく、自分でも趣味が悪いもんだという自覚がありつつも、あの頼りない青年にすっかり焦がれてしまった。
月日がたつごとに、気持ちは募っていく。日々老いていく彼の姿に歯噛みもした。私は魔女で、大昔から生きている魔女人形だが、時間をどうのうこうのするのは専門外だ。それは勿論姉妹も同然で、クォーツ姉さまにだってどうにもならないことだった。お別れが刻一刻と迫ってくることには気が狂いそうだったが、彼との日々がそんな気持ちを忘れさせてくれた。彼ときたら、歳をとって、皺が増える度に、何だか男ぶりをあげていったのだから。一時は収入がなくて飢えて死にそうだったくせに、最終的にはこの国で興した事業をどうにか軌道に乗せたのだから大したものだ。彼は不安がる私を抱きしめて嘯いた。
『確かに、人の身では永遠とはいかない。それでも、君の中に在るのだから、何も怖がることはない。だから、別れは涙ではなくて笑顔で送ってほしい』――と。
彼の腰が曲がってから、彼は明確に別れに向けて行動を始めた。折角興して成功していた事業も人に明け渡して僅かな金に換えて、小屋の建つ山全体を購入した。さらには人形が人間の不動産の権利をどうのこうのできまいと、小屋と山の権利が最終的にどこにあるのかをひどく有耶無耶にして誰にも手を出せなくするような工作までした。
あとは、ろうそくの火が消えるようだった。ゆっくりと、その命の灯を終えた彼は――ある朝、ついに起きなくなったのだ。私の声も涙も、彼の魂を現世に残すことはついに敵わなず――私は、彼の亡骸を抱いてわんわんと声をあげて泣いたのだ。
▽
――眩暈がした。叩きつけられた記憶の情報量は、頭がくらくらして、目がちかちかとする。かなりの量の記憶を取り戻したはずだが、ところどころの繋がりがおかしく、未だ一部が欠落している。私という一体の人形が歩んできたこれまでの足跡は、そう軽いものではなかったということだろう。――ただ、確かに。私のこれまでにおいて『悪い魔女』であったタイミングなどはただのひと時もなかった。それは今だけの私だ。
まぁ、悪戯は好きだったようなので、自称していたかそうでなかったかの違いぐらいしか実はないんじゃないかなあという気もするが、ひとまずは脇においておく。
「――それで、後どれぐらい残っているんだ。『私』よ」
「それぐらいはまだまだ前菜ぐらいだよ」
さようですか。今度は左手をこちらに伸ばす『私』に、最早乾いた笑いしか出てこなかった。意識してみれば、私を取り巻く乳白色の液体は、やや透明度が増したようだ。全部記憶を吸収した後に、この液体はようやく澄み渡るのだろう。ああ、気が遠くなる。
▽
彼が亡くなった後、放心状態だった私の面倒を見てくれたのは、ありがたいことに姉妹達だった。特に妹二人は殊更に心配してくれていて、トパーズ姉様にはその母性に思い切り甘えてしまったようだ。……クォーツ姉さまの姿もあったはずだが、上手く思い出せない。まだ記憶のつながりが甘いのだろう。――ともあれ、彼の躯をどうにかするべく、私たちは彼の葬儀を密かに行うことにした。そう、火葬だ。彼の躯を火葬にしたのだ。
トパーズ姉さまが石と水晶で焼き場を組み上げ、ルビーの炎で残念なく焼いていく。しかし、彼の身体は青い炎に包まれて、ルビーの強い炎でも骨だけは頑なに残った。私と長い間一緒にいたからだろう。魔力が骨に吸着してその強度を増したのだ。毎晩一緒のベッドで寝るような生活を何年も続けた故の現象だと言える。これには私たちも大層驚いた。驚いたが――クォーツ姉さまは、少し驚きすぎだった。
……何か妙だ。何か、何か、彼の死をきっかけに、姉さまの考えていた何かが狂ったんじゃないか。十全でない記憶が、姉さまが怪しいとしきりに訴えているようだ。
――やはり、問いたださなければならない。姉さまが何を考えていたのか。彼の死を、私の悲しみを――姉さまは、それを何に『使おうと』していたのか。
▽
――ここにきて、ようやく、溺れそうだと思った。すでに記憶の中の『私』は液体に溶けて混ざり、あれほど不透明だった乳白色の液体も、すっきりと澄み渡っていた。ほとんどの記憶を吸収したのだろう。不思議な気持ちだ。喜びも悲しみも、痛みも苦しみもない混ぜになり――頭の中を、ぐるぐると回る。のんびりと紅茶にミルクを垂らした時の、カップの中に広がていく光景のようだ。――あれほど、甘くて楽し気な気分ではないけれど。
では、そろそろ起きるべきだろう。姉さまに聞かなければならないことがたくさんある。まだ記憶は完全につながっておらず、ところどころ欠落している。あるいは、失われたものもあるだろう。記憶を簡単に封じたりもとに戻したり、そんなことができるとは考え難い。どこかで破損するものも当然出てくるはずだし、姉さまは慎重に記憶を抜き取ったのだとしても、私は乱暴に戻させていった。姉妹達全員と喧嘩して、無理矢理引き出したのだから。
――ああ、そうだ。結局、記憶を取り返してみても、私が記憶を封じられなければならなかった意味はどこにも見出せなかった。私は、一言たりとも、『忘れてしまいたい』とは言っていなかったのだ。どれだけ思い出そうとも、それだけは。決して。
妹たちに泣きごとは何度も言っていた。『もう耐えられない』と泣いた。『立てない』と悲しんだ。炎に抱かれてなお残る彼の骨に、何度も何度も声をかけた。――そう、それだ。
『彼と一緒に、眠っていたい』――とは言った。彼との思い出を胸に眠り続け、そうしていつしか死にたいのだとは願った。『忘れてしまいたい』だなんて言っていない。
――それならば、どうして、私は記憶を封じられなければならなかったのか。
善意が空回るということがある。クォーツ姉さまは、とても怪しいが、少し見栄っ張りなだけで、本来は優しい姉さまだ。でも、その優しさが、彼女の善意が、変な方向を向いていたとしたどうだろう。『地獄への道は善意で舗装されている』ともいう。見当違いな善意が、私の記憶を封じたのではないだろうか。ありうる……空回りするタイプの姉さまだし。
それに、思い返してみれば、トパーズ姉さまも言っていた。あれは失言だったな。
『ええ。そうね――世界が終わる。その時に、捨て去るにはあまりにも惜しい思い出があっては――終焉を受け入れるなんて出来そうにないもの』
――つまり、よくはわからないが、私が『終焉を受け入れる』ためには、『捨て去るにはあまりにも惜しい思い出』が邪魔になるのだ。だから、記憶を消したのだろう。黒幕は二人の姉さまというわけだ。これが余計なおせっかいでなくてなんだというのか。
最善がみんなで幸せになることなら、次善はみんなでご破算になることだ。私だけ、記憶を消してまで終焉に対してどうのこうのするなんてことは望まない。これはどうやら、いよいよ、姉さまにおしおきも考える必要がでてきたようだ――。
――にまり、と私の口角が弧を描く。『氷晶の魔女のサファイア』として帰る時がきたのだ。しかし、それは『悪い魔女』の退場とイコールではない。まだまだ、私が満足するまでは、私は『悪い魔女』として振舞おう。姉さまの泣き顔の一つも見たくなったところだ。
――さぁ、水中から脱し、この姉妹間の諍いに幕を引こうじゃないか。