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青葉奉納  作者: 昨日の風
3/4

敦盛の最後

 都落ちした平氏の一行は、太宰府に行宮を築くことが出来ず、屋島の地に腰を落ち着けていた。

 腰を落ち着けたと言っても遊んでいたわけではない。山陽道、南海道のほぼ全てが、強弱はあるにせよ再び平氏の勢力下へ戻っていた。これは単に動員できる人員が増ただけではない。年貢が増えただけでもない。強力な水軍の確保であるのと共に、清盛が腐心した日宋貿易の利、その確保への道でさえもあった。

 都を出撃してきた源義仲の軍も鎧袖一触に撃破し、平氏の意気は高かった。この意気の高さを見逃す宗盛ではない、平氏一門の始まりの場所とさえいえる場所、即ち福原へと駒を進め、その周辺を一大要塞へと変貌させていた。この要塞こそが世にいう「一の谷」である。

 ここで時期を待ち、機を見て都へと戻るつもりであったが、相手と目していた源義仲自身は都へ帰るなり後白河法皇を監禁、自らを征夷大将軍としたかと思えば東から来た別の源氏の一族に滅ぼされていた。


「源義経? 聞かぬ名であるが誰か知っている者は」

 宗盛が敵の大将の名を聞いても、出てくる情報は精々源頼朝の舎弟であるというだけであった。

「いずれ敵対する者同士、家の関係を知ってどうする。どうせ源氏で、親兄弟の仇でもあろうさ。それよりも陣営を固め、せめて清盛様の霊をお慰めすべきだ。ここは福島なのだからな」

 衆論はこの辺りを出ず、宗盛も結局「防備を固めて法要を営む」という案に賛成した。


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 一の谷の陣は、大きく三つに分けて敷かれていた。

 大手門である生田口では逆茂木が結われ、大正面となると予想されていたのみならず、都へ戻るためには必ずこの生田口を押し返さなければならないという事情があった。しかも背後には往時に比べれば多少寂れたとはいえ福原の街があり、ここを抜かれることは許されることではなかった。平知盛ら平氏の主力が詰め、兵力も武士、徴募兵合わせて数万を数えた。

 表門が生田口であれば裏門に当たるのが塩屋口である。平教経をはじめとする諸将が武士、徴募兵合わせて一万程が詰めており、若武者平敦盛もここにいた。

 搦め手である丹羽路を守備する三草山の陣、ここは平資盛を中心に平有盛、平忠房、平師盛らが詰めた。その数、武士、徴募兵合わせて六千程。


 ここまで布陣が出来れば、まずは足場固めであった。特に京の都に入っても略奪せず逆に施す程度の物資は、是非とも集積しておかなければならなかった。源義仲の轍を踏むわけにはいかないのだ。


 一方、源氏方も黙って見ていたわけではなかった。軍を二つに分け、搦め手を源義経が、大手を源範頼がそれぞれ受け持つこととなった。

 まず衝突したのは義経率いる搦め手であり、相手は三草山の陣であった。時をかければ必勝、とはいえ大手の攻撃に間に合わなければ意味がないため速戦が求められた。そのため義経は兵を隠し、夜襲による一撃でこれを撃破した。

 そしてごく少数の精鋭のみを選抜して義経自身が率い塩屋口が背後による崖を降りての攪乱、残りを土肥実平と熊谷直実が率いて東から攻撃、と決した。その日は2月7日。細作によれば福原で清盛の法要が行われる日であった。


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「戦は負けと決まったわ。この上は屋島へ落ちて再起を図るべきじゃ」

 既に平氏の主な武士は討死を遂げていた。それでも屋島へ逃れれば。逃れさえすれば。帝も三種の神器もまだ平氏の手にあった。巻き返すことは、決して夢でもなかった。敦盛は馬を海へ入れ、沖合にいる味方の船目指して落ちて行こうとした。

 馬体が海水に使った頃、後方より声がした。

「その馬、良き敵と見たり。我は熊谷直実、逃ぐるとは卑怯なり。いざ、戻って戦い給え。それとも平家武者はそれも出来ぬほど卑怯な公家と堕したか」

 見れば箙に矢があり弓もあるのにこちらを射ずに岸から上がるのを待っているのは、余裕というよりも矜持の問題であろう。漆を塗っただけの簡素な長刀は既に雑兵でも斬ったのであろう、血に濡れていたが、漆塗りと思しき兜も古風な鍬形も傷一つなく、元は同じく鮮やかな色で編まれていたのであろう、今は褪せた色で編まれた錣、小札の類、そして古びてはいるがよく磨き込まれた金具。年を取り多少痩せているようには見えたが、それでも毛艶も良く戦意を湛えた目を持つ馬に鞍を置いている。いずれを見ても立派な武士であった。

「良き敵ならん」

 敦盛は馬首を返した。敦盛は都落ちしたとはいえ流石に平家の貴種である。長刀も螺鈿細工の入ったもので、無銘ではあるが戦のために寝刃は合わせてあった。鍬形のみならず吹き返しもある朱塗りの兜であり、鮮やかな朱で編まれた小札類に金細工の金具が光を放っている。先ほど海を少し泳がせたとはいえほとんど疲れも見せない栗毛の駿馬に鞍を置いている。馬体も熊谷の馬よりも二回りは大きい。それでも敦盛には自分の馬が、熊谷の馬よりも勝っているとは思わなかった。


 本来であればここで敦盛が名乗りを上げるのが作法である。だが敦盛はそれをせずに馬体を駆けさせた。無論、ぶつけるためであり、名乗りをと言っている隙に一撃でも入れようという目論見であった。熊谷はそれを見て、若いなと思いながらも長刀を振りながら馬を輪乗りした。

 カッと長刀の柄が打ち合い、熊谷が左、敦盛が右に馬が馬を並走させる形にした。その距離は一二尺しかない。いつの間にか熊谷は長刀を太刀に持ち替えていた。

 敦盛が長刀を振るおうとしても間合いが近すぎ、精々が袖(大鎧の肩についている盾のこと)に防がれるだけであろう。だが熊谷の太刀であれば、この間合いで切り付ければいかに敦盛の大鎧であっても、ただでは済むまい。敦盛は瞬時にそれを察し、必死で馬を操った。海沿いを走って引き離そうとさえしようとした。だがいかにしても先手先手を打たれ、どうあっても同じ辺りを行ったり来たりしているだけで、馬術では到底かないそうもなかった。


 ならば、と覚悟を決めた。敦盛は長刀を熊谷の鼻先へと突き出すと見せて手放し、馬から転げ落ちながら太刀を抜いた。無論、馬に乗ったまま抜き納めるのは基本中の基本であるが、熊谷の前でそのようなことが出来るとは思えなかった。だから奇策に走った。

 熊谷は目の前で空馬になった相手の馬を見て、自分もゆっくりと馬を降りた。


 敦盛は太刀打ちの形になったところで勝利を確信していた。少なくとも先ほどまでのような、いつでも打てるが打たないというような無様はありえないはずであった。大上段に構え、敦盛は駆け寄った。

 次の瞬間、熊谷の目が、す、と細くなった。振り下ろされた太刀を受け流して鍔で止め、いなした。完全に体勢が崩れた敦盛がたたらを踏んだ、その敦盛に熊谷の太刀が、吸い込まれた。


 いかに敦盛も、老練たる武士熊谷には勝てなかった。遂に組み伏せられ、兜の緒を切られ面貌を外された。

「なんと、まだ我が息子ほどもない若武者ではないか。助けて取らす故、はや船へ戻られ給え」

「武士が負けたのだ、なぜ首があろう。さあ、疾く首を」

「ならば名は。良き武士とは見受けるが未だに名を名乗っていないだろう。いざや名を」

「我が首あらば名は知れよう」

それ以上は慈悲ではなく情けでもなく、単なる蔑みであると目が告げていた。

「頼めるならばその笛をしかるべく。銘は青葉」

 いつか戻ってきていた敦盛の馬の、その鞍の錦の袋を示し、そしてこと切れた。その顔は穏やかにも見え、無念にも見えた。


 熊谷直実は、泣く泣く首を取った。


 お気付きの方も多いかと思いますが、本編は平安末期が主な舞台となっております。しかしながら完全に史実に沿った構成にはなっておりません(たとえば大蔵の合戦は保元の乱よりも前に起こった事件です)。また終盤は大きく史実を無視した形になっております。

 様々なご指摘は甘んじて受けますが、「史実と違う」「本来の**と違う」というご指摘だけは、ご容赦いただければありがたく願います。


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